第32話 開戦
城の廊下に、ゆっくりとした足音が響く。
窓から差し込む光が長い影を落とし、風が揺らすカーテンが、まるで何かを訴えかけるようにふわりと膨らんだ。
魔王デネボラとしての力をほとんど失ってしまったヘスティは、じっと自らの掌を見つめる。かつて無敵とすら呼ばれた力は今や霧散し、彼女はかつてない孤独に囚われていた。
人になりたい——その願いを胸に、彼女はそっと拳を握る。
人の気持ちが分からなかった。怒り、悲しみ、憎しみ、愛しさ——そのすべてが曖昧で、ただ眺めるだけのものだった。けれど、今なら分かるかもしれない。力を失い、無力になった今なら。
その願いに、ロメオは迷うことなく頷いた。
「いいじゃないか、ヘスティ。人になりたいなら、なればいい」
彼の言葉は、いつもまっすぐだった。
それからというもの、アウラとロメオ、そしてヘスティの三人は、試行錯誤を繰り返す日々を送った。ヘスティの変化はわずかだったが、それでも確実に何かが変わっていくのを、アウラは感じていた。
そして、ある日——アウラが王城の中庭でロメオとヘスティとともに話し合っていると、足音が近づいてきた。
城の門をくぐったのは、一人の少女。
イシアルだった。
いつもロザリアと一緒にいることが多かった彼女だが、今日は一人だった。
最初に会った頃のイシアルは、人前に出ることさえためらっていた。けれど今、彼女の足取りは確かだった。
彼女は、ゆっくりとアウラの前で立ち止まる。
「……魔法を教えてほしい」
まっすぐな瞳。覚悟を決めた者だけが持つ、揺るぎない意思。アウラは、少しだけ目を細めた。
「何を?」
「容姿を変える魔法——『ケイルテ・ユラ・スリーロア』」
ロザリアのためだろう。それは、言葉にしなくても分かった。アウラは少しだけ考え、静かに頷いた。
「……分かった」
イシアルの口元が、わずかに緩んだ。
それからの時間は、あっという間だった。
何度も試行錯誤し、イシアルは着実に魔法を習得していった。彼女の努力は愚直なほどまっすぐで、アウラはふとロザリアの姿を重ねることがあった。
そして——運命の時は訪れた。
西央王国スエムの城門が突破された。
その報せが王都デネボラに届いた瞬間、すべての空気が変わった。胸の奥を締めつけるような緊張感が、静かに、だが確実に広がっていく。
決戦の時が来た。
アウラは、重い息を吐きながら、地下へと続く暗き道を見つめた。
王都デネボラの城の奥深く、人知れず眠る通路。その先には、古の時代に閉ざされた石門に囲まれた黒いゲートがあった。ゲートの表面には、薄闇が渦巻いている。生き物のように脈打つ魔力の波が、まるで旅人を誘うようにうねっていた。
その門は、かつて魔王デネボラが作ったもの。次元の使者、黎明のバラン——第十二魔神の力を利用して、遥か昔に創られた魔界への通路。
千年もの時を経て、今、その門は再び開かれようとしていた。
アウラ、ユラ、ロザリア、イシアル——四人の足が、ゆっくりと前に踏み出される。
これは、始まりと終わりが交差する戦いだ。
かつて、勇者レペンスがこの門をくぐった。その隣には、ミラルフ——かつて王都デネボラを建国した初めの女王。そして、不死の呪を背負ったマタダム。
彼らは、この世界を守るために戦い、このゲートで魔王エネボラを人界に連れてきた。
だが——今、再びこの門をくぐる者は、違っていた。
アウラ、ロザリア、イシアル、そしてユラ。
ロザリアは、かつて魔族として堕ちかけた少女。
イシアルは、新たに勇者となった少女。
ユラは、誰よりもアウラを知り、アウラの心に寄り添ってきた少女。
そして、彼らを見送る者も違う。
——かつての魔王デネボラ、ヘスティ。
勇者レペンスが向かった先には、魔王がいた。
今、彼らが向かう先には——かつて勇者だった者がいる。
すべてが反転し、交錯する。
かつての勇者が魔王となり、かつての魔王が人を見送る。
ユラは、静かにアウラの隣を歩いていた。
生者ではない彼女には、疲れも痛みもない。けれど、その目に宿るものは、確かに生きている者のそれだった。
「ねぇ、アウラ」
小さく囁くような声。
「ここを越えたら、戻ってこられるのかな」
アウラは、少しだけ目を伏せる。
「……わからない」
「そっか。でも、大丈夫だよね」
「なぜそう思うんだ」
ユラは微笑んだ。
「だって、アウラと一緒だから」
その言葉が、どこまでも優しく、どこまでも揺るぎなかった。
アウラを待つのは、かつて共に戦った勇者レペンス。だが、今は魔王ヘルトと名を変えた男——世界を終焉へと導く存在。
千年の時を経て、かつての勇者一行と、新たなる勇者一行が重なった。
かつての戦いの決着が、今、ついに訪れる。
アウラ、ロザリア、イシアル——ユラ。
四人の足が、ゆっくりと前に踏み出される。
その背を見送る者がいた。
元魔王、そして今はこの国の女王であるヘスティ。騎士王としてこの国を統べるロメオ。その傍らに立つジョバンナ。そして、剣を握る戦士、エルギン。
それぞれが、異なる思いを胸に抱えながら、四人の旅立ちを見つめていた。
アウラはふと立ち止まり、振り返る。
「みんな」
短く、けれど確かに彼らの名を呼んだ。
ロメオはゆっくりと歩を進め、ロザリアの前に立つ。兄妹は無言のまま、しばし見つめ合った。
先に口を開いたのはロメオだった。
「……無茶はするなよ」
「するわ」
「知ってた」
ロメオは苦笑する。
そして、ロザリアの頭にぽんと手を置いた。
かつてのように、優しく、けれどどこか切なげに。
「君が選んだ道だ。好きにしていいよ。でも、これだけは約束して。絶対に帰ってくるんだ」
「言われなくても」
ロザリアは誇らしげに笑った。
ジョバンナがそれを見て、小さく息をつく。
「二人とも、ほどほどにね」
「そっちこそ、城を壊さないでね」
「それは、保証できない」
「はぁ……やっぱりね」
ロザリアは肩をすくめ、エルギンに視線を向けた。
エルギンは何も言わなかった。ただ、静かにロザリアの剣を見つめ、わずかに頷く。
それだけで、十分だった。
そして、ヘスティ。
彼女はどこかぼんやりとした表情で、一行を見つめていた。
まるで、何かを思い出しているような、あるいは何かを確かめるような。
アウラは一歩だけ戻り、ヘスティと向き合う。
「ヘスティ」
彼がそう呼ぶと、ヘスティは微かに瞬きをし、視線を上げた。
ほんの一瞬、何か言いたげに唇が動いたが、言葉にはならなかった。
けれど、アウラはそれを咎めもせず、ただ待っていた。
アウラとヘスティ——どこか似た雰囲気を持つ二人。
ロメオもジョバンナも、そしてエルギンも、彼らのやり取りをじっと見つめていた。
どういうわけか、言葉を交わすだけでしっくりと馴染むような、不思議な感覚があった。まるで長年連れ添った家族が、互いに何も言わずとも通じ合っているような、そんな雰囲気があった。
「……行ってくる」
アウラはほんの少しだけ微笑んだ。
ヘスティは、わずかに目を見開く。そして、少し遅れて小さく頷いた。
「……うん」
その短い応答に、どこか懐かしさすら感じる響きがあった。まるで、昔もこうして送り出したことがあるかのように。
ロメオは、そんな二人のやり取りを見つめながら、目を細めた。どことなく兄妹のような空気を纏う二人——だが、互いにそのことを意識しているようには見えない。
「倒してくるんだ。——君は僕の妹だ。絶対に、負けないで」
「当然よ!」
ロザリアは笑い、剣を握りしめた。アウラ、ロザリア、イシアル、ユラ。彼らは、迷いなく前を向いた。そして、漆黒の門の向こうへと、踏み出した。
彼らが向かうのは、人間の世界ではない。生けるものを拒む、終焉の地。魔界——それは、滅びを司る者の住処。
アウラはゆっくりと前を向き、黒いゲートに手を伸ばす。
——その瞬間、全身を貫くような圧倒的な魔力が、一行を包み込んだ。嵐のような黒の奔流が、渦を巻きながら彼らを呑み込んでいく。世界が反転する。重力が消え、あらゆる感覚が麻痺していくような錯覚。暗闇が視界を覆い、意識が引き裂かれるような感覚に襲われる。
だが、アウラは目を閉じることはなかった。どこまでも深い黒の彼方——その先に、確かに待っている。魔王ヘルトが。彼が、何を思い、何を求めてそこにいるのか。それを知るために。
ユラは、アウラの袖を握りしめた。決して離さないというように。アウラは、それを振り払うことはしなかった。
ロザリアが、その手に剣を握りしめた。迷いを断ち切るように。
イシアルが、勇者の紋章にそっと触れた。その役目を、最後まで果たすために。
この世界に終焉をもたらす戦いが、今、幕を開ける。




