第30話 ロザリアとイシアル
アウラから商人レナードのこと、マタダムの目録のこと、そして魔王ヘルトのことを一通り聞いたロザリアとイシアルは、それぞれの考えを抱えながら、戦い終えた草原に腰を下ろしていた。
陽は高く、雲ひとつない空が広がっている。乾いた風が吹き抜け、地面に残る無数の穴と抉れた大地が、先ほどまでの激しい戦いの爪痕を刻んでいた。
ロザリアは空を仰ぎながら、ぽつりと呟いた。
「ここで、よくアウラと戦っていたのよ」
彼女の視線は、空の向こうではなく、記憶の中へと向かっていた。
「でも、アウラは不死身だから……攻撃の仕方の練習にはあまりならなかったわね」
少し笑ってみせるものの、その笑みはどこか寂しげだった。
「だから——ありがとう。イシアル」
隣で肩を並べていたイシアルは、ロザリアの横顔を見つめながら、静かに息を吐いた。
「……ううん。私も、勇者になる覚悟を決めたから。そのためには、もっと強くならないといけない。だから、こちらこそ、ありがとう」
草をかき分ける風が、二人の間を通り抜ける。
ロザリアはポケットの中から小さなイヤリングを取り出した。金色の光を帯びた装飾が、陽光に照らされて儚く揺れる。
じっとそれを見つめながら、そっと指でなぞる。
「ロザリア……それ、まだ渡してなかったんだね」
イシアルの問いかけに、ロザリアは小さく笑った。
「もう渡せないわよ」
そう言って、ロザリアはイヤリングを握りしめる。
イシアルは、かつての勇者のように勇敢ではない。ロザリアのようにまっすぐでもない。ユラのように優しくもない。どちらかといえば、アウラの過去の気持ちや行動に共感してしまう。強くもなく、弱い人間だった。
ロザリアがふと視線を上げる。イシアルもその動きを追って、後ろを振り返った。
遠くの壁の上——そこに、アウラの姿があった。彼は微かに笑っていた。誰かと楽しそうに言葉を交わしている。姿は見えない。けれど、それがユラなのだろうと、イシアルはすぐに理解した。
ロザリアがゆっくりと顔を前に戻す。イシアルもそれに倣い、視線を落とした。
沈黙が落ちる。
やがて、イシアルは小さく息を吐き、ぽつりと呟いた。
「そのイヤリング……渡せないのって、ユラがいるから?」
「そーよ」
ロザリアは、いつもなら即答するくせに、今日は少しだけ間を置いた。いつもなら、どんな時でも真っ直ぐ突き進む彼女が——珍しく、悩んでいた。
イシアルは迷った。
口にしてはいけないことを言おうとしている。けれど、それでも、心の奥底に溜まったものを吐き出したかった。悪意が含まれていることは、わかっていた。それでも——。
「アウラが言ってた、ユラの幽霊の話……本当に信じてるの?」
どんな答えが返ってくるか。イシアルは、内心で少しだけ恐れていた。自分の問いが、ロザリアを傷つけるのではないか。
けれど——ロザリアは、静かに答えた。
「信じてるわ」
それは、あまりにも自然な返答だった。まるで、疑うことすら考えたことがないと言わんばかりに。
イシアルは思わずロザリアの横顔を見た。彼女は穏やかな表情を浮かべていた。イシアルの悪意には、一切気づいていないようだった。それが、ひどく眩しく思えた。
まっすぐな人間は、こうやって信じることができるんだ。
ロザリアには迷いがない。どこまでも突き進む、疑いを持たない強さ。それが自分にはないものだと——イシアルは改めて思い知った。
胸の奥がざわつく。ロザリアと自分は、あまりにも違う。
自分は、自信がなかった。何かを信じることも、迷わず進むこともできなかった。だからこそ、こうして試すように言葉をぶつけてしまう。
戸惑いながらも、イシアルはゆっくりと口を開いた。
「あほらしくない? 本当にいるのかも分からない相手に遠慮して、渡さないなんて」
意地悪な響きを含んだ問いかけだった。
けれど、ロザリアはため息すらつかずに、静かに答えた。
「ユラはいるわ。だってアウラがそう言っているのよ。それに、ユシカ島でも見えたわ」
迷いのない、確信に満ちた声だった。
イシアルは言葉に詰まる。ロザリアのその強さが、まるで自分の弱さを突きつけるようで、苦しかった。
「それは……」
どうにか反論しようとするが、適当な言葉が見つからない。
ロザリアはそんなイシアルをじっと見つめ、ゆっくりと微笑んだ。
「そもそも、信じない理由がないからよ。逆に信じて困ったりするの?」
彼女の瞳には、何の迷いもなかった。まるで、疑うこと自体が馬鹿げているかのように、ロザリアは言った。
イシアルの心の奥で、何かが揺らぐ。信じることを知らない自分と、当たり前のように信じるロザリア。
陽光がロザリアの横顔を照らす。彼女の表情には、一切の迷いがなかった。
イシアルは口を噤む。
「そういうわけじゃないでしょ……普通は、受け入れられないでしょって話」
「そういうもの? 私には分かんないわ」
ロザリアは、少しだけ不思議そうな顔をする。
イシアルの胸が、じくじくと痛む。
「……私のほうが分かんない」
ロザリアは、どこまでもまっすぐだった。イシアルの悪意も、疑いも、全く気に留めることなく、ただ純粋に信じている。
それが、逆に胸を抉る。まるで、自分の弱さを突きつけられているような気がした。
ロザリアが、優しく微笑んだ。
「私はイシアルの気持ちなんか分かんないけど、これだけはハッキリ言える。イシアルはイシアルよ。それ以下でも、それ以上でもないの」
その言葉が、まるで魔法のようにイシアルの心に染み込んでいく。
「この紋章を宿した勇者が、どれだけの功績を残し、どれだけの人を救ったかは知ってる。でも、彼はどこまでもまっすぐだったからこそ、今、あんな姿になったのよ」
「……ロザリア」
ロザリアが、そっとイシアルの手を取る。彼女の手は温かく、それがまた、イシアルの心を締めつけた。手の甲に浮かび上がる紋章が、強い陽射しを受けて淡く光る。
「アウラが言ってたわ。イシアルは俺と似てるって」
イシアルの指が、かすかに震えた。
「だから——イシアルなら、大丈夫よ。絶対に。休み方を知っている、人の弱さを、辛さを、痛みを、愛を知っているイシアルなら——魔王ヘルトよりも、ずっと立派な勇者になれる」
風が吹いた。遠くで鳥の鳴く声がする。イシアルは目を伏せた。
勇者としての重みを、彼女は今まで誰にも打ち明けなかった。誰かに聞いてほしかったわけじゃない。気を使っていたわけでもない。ただ、思い出したくなかった。考えないようにしていた。
それを、ロザリアは簡単に砕いた。
横暴で、常識外れで、どこまでもまっすぐな彼女に、振り回される。けれど——だからこそ、彼女は皆に愛されるのだと、イシアルはやっと理解した。こんなにも純粋に、人を信じられる人間を、誰が嫌えるだろうか。
イシアルは立ち上がる。
陽光が、彼女の輪郭を強く浮かび上がらせた。
「ありがとう、ロザリア」
ロザリアが目を見開く。
「お礼にっていうのもあれだけど——もう一戦しない? 今度は、本気で」
その瞬間、ロザリアの唇が悪魔のように歪む。満面の笑みを浮かべ、鋭い牙を剥くように。
燃えるような瞳が、イシアルを射抜いた。
「——望むところよ」
空が茜に染まる中、二人は再び向き合った。
夜風が草原を駆け抜ける。二人の間に静寂が落ちた。
イシアルが本気で戦っていないことに、ロザリアは気づいていた。それでも、ロザリアは何も言わなかった。イシアルが配慮していることを知っていたからだ。
ロザリアの身体が魔族へと変化しないように、アウラの魔法が溶けてしまわないように——彼女は無意識に力を抑えていた。
だが、ロザリアは知っている。イシアルはもっと強くなりたいと願っていた。
そして、ロザリア自身もまた——。
「いいのね! 私もやっと全力を出せるわ!」
立ち上がったロザリアの声が、陽光の下で弾ける。
その言葉が終わると同時に——。
ドンッ!
爆発的な衝撃が空気を切り裂いた。ロザリアの姿が、まるで炎が燃え広がるように飛び出す。地面が弾け、衝撃波が草を薙ぎ払う。
「ロザリア! そのイヤリングはアウラに渡すべき!」
イシアルの叫びが、澄み切った空を震わせる。
仮初の肌が剥がれ、陽の下で、ロザリアの肌が赤黒く染まっていく。魔族の体が、光を受けて不吉に浮かび上がる。
ロザリアの動きが、わずかに鈍った。
「それは……」
ロザリアは言葉を濁す。胸の奥に渦巻く迷いが、一瞬、その足を止めた。
イシアルはそれを見逃さなかった。
鋭く、まっすぐに言葉を投げる。
「どこまでも、まっすぐに突き進みなさいよ!」
ロザリアの瞳が揺れる。イシアルは続けた。
「ロザリアがやりたいことなんでしょ!? だったら、その思いも全部込めて、アウラにぶつけなきゃ! それでこそロザリアでしょ!」
風が吹き荒れる。
ロザリアの唇が、かすかに開いた。
「自分の夢のために——お兄さんに、その姿を見せるために——ここまで頑張ってきたんでしょ!? 今、諦めてどーすんのよ!」
その言葉が、ロザリアの胸に突き刺さった。深く、鋭く。まるで、燃え盛る炎の刃のように。
イシアルは、以前の自分なら、こんなことは言えなかっただろうと思う。
これ以上、好きになってしまわないように。友達以上の思いを抱いてしまわないように。イシアルは、芽生えそうになった恋の蕾を摘むように、自らの心に蓋をする。
それでも。
ロザリアには、まっすぐでいてほしかった。ロザリアの背中を押せるのは、自分しかいなかった。
ロザリアの魔力が、跳ね上がる。炎のように。荒々しく、猛々しく、躊躇いを捨て去るように。悪い笑みを浮かべ、ロザリアが襲いかかる。
その笑顔は、誰よりも眩しかった。
ロザリアは、完敗だった。
イシアルの展開する結界を突破することは叶わず、気がつけば彼女の体は傷だらけだった。
対するイシアルは、ほぼ無傷のまま、静かにロザリアを見下ろしていた。その瞳に揺らぎはない。まるで勝利を確信していたかのように、ただ冷静に事実を受け止めていた。
ロザリアの息が荒くなる。焼けつくような痛みが全身を駆け巡るが、その体は静かに修復を始めていた。
膨大な魔力が、使い道を失い、自然と体を修復する力へと変化していく。
魔法を使わない彼女だからこそ、その魔力は傷を塞ぎ、引き裂かれた筋肉を繋ぎ合わせる方向へと作用した。
血の滲む指先を握りしめ、ロザリアは歯を食いしばる。悔しさはある。だが、それ以上に——久しく感じていなかった充足感が、彼女の中に満ちていた。
戦えた。全力を尽くせた。そして、イシアルの強さを改めて知ることができた。
「——ロザリア」
聞き慣れた声が、静かに風に溶け込む。
修復をほぼ終えたロザリアの前に、アウラが姿を現した。無表情ながらも、その視線は確かに彼女を捉えていた。魔法で一時的に人間の姿を取り戻したロザリアは、痛む体を引きずるようにしながらも、まっすぐにアウラへと詰め寄る。
その目には、いつもの勝気な光が戻っていた。
「アウラ!ちょっと付き合いない!!」
ロザリアはアウラの腕をぐいっと掴んだ。
「は?」
まるで意味が分からないという顔をしたアウラを、ロザリアは気にもしない。
「決まり! 今日は私がアウラを連れ回すから、覚悟しなさい!」
言うが早いか、強引に腕を引く。アウラは抵抗する間もなく、ぐいぐいと引きずられていく。
「待て、俺は何も——」
「待たない! 今日は私が主役! 拒否権はなし! 異論も却下! 」
「……ああ」
完全にロザリアのペースだった。
そんな二人の様子を見ていたユラは、自然と後を追おうとした。
——だが、その足を止める声が響いた。
「ユラ……ここにいるの?」
足を止めたユラが振り返ると、そこにはイシアルが立っていた。
困惑するような表情で、宙に向かって問いかけるイシアル。
当然、ユラの姿は彼女には見えない。
「……って言っても、わかんないか」
小さくため息をつくように呟く。
ユラは驚いた。イシアルが、まさか自分の存在に気を向けるとは思わなかった。なんとか伝えようと、ユラはイシアルの目の前に戻り、必死に手を振る。だが——何も伝わらない。彼女の影すら、イシアルには感じることができない。
それでも、イシアルは続けた。
「……もしいるなら、二人きりにしてあげて」
どこか硬い声色だった。
「貴方は死んでるけど、ロザリアはまだ生きてるから。まだ……人だから」
彼女の指先が、ぎゅっと強く握りしめられる。
イシアルは、自分が嫌な女だと分かっていた。分かっていたうえで、それでも言わなければならなかった。
元々、嫌われることには慣れている。
……いや、違う。
ロザリアのためなら、嫌われたっていい。そう思いながらも、握りしめた拳は小さく震えていた。イシアルは俯き、ユラの気配があるはずの場所を見つめる。
見えない存在に語りかけることに、どれほどの意味があるのか分からなかった。
しかし——その言葉を受け止めたユラは、静かに微笑んだ。
「うん……ごめん。待ってるよ」
聞こえるはずのない言葉が、ユラの唇から零れ落ちる。
届くことはない。意味があるかどうかも分からない。
けれど、それでも。
イシアルの思いを、ないがしろにはできなかった。
ユラはそっと視線を上げる。
遠ざかるロザリアとアウラの背中を見つめながら、彼女は静かに立ち尽くしていた。




