第29話 勇者レペンス
最初のページに綴られていたのは、くだらない冒険譚の数々。勇者一行が世界を巡り、無意味な賭けをし、些細なことで笑い転げ、無茶をしては叱られた日々。紙面には当時の喜びや苦しみが、言葉となって刻まれていた。
しかし、ページをめくるたびに、その記録は次第に深く、重くなっていく。
勇者が生まれる前の話。日本に住んでいた頃の記憶。それから転生を繰り返し、数えきれない人生を歩んできたこと。最初は普通の人生だった。だが、何度も生を繰り返すうちに、彼の中で何かが壊れていった。
死ねなくなり、記憶が失われていく過程が綴られた文字は、どこか冷たく、淡々としていた。
そこに感情はなかった。
いや、感情を捨て去らなければ、耐えられなかったのかもしれない。
ふと、アウラの手が止まる。
ある一つの記録が、静かに彼の胸を締め付けた。
かつて、気まぐれで救った命があマタダム——いや、アウラは思い出す。
自分勝手に生き、悪に手を染め、気まぐれに世界を彷徨っていた頃のこと。ある日、ただの気分転換で、一人の少年を助けた。
生まれながらに額にあざを持っていた少年は、その見た目のせいで疎まれ、いじめられ、傷だらけになっていた。それでも、少年は笑っていた。傷つきながらも、彼は明るく、優しかった。
その姿に、何かを感じたわけではない。ただの暇つぶしだった。
アウラはスキルを使った。
肩代わり——受けたダメージの半分を、自らが引き受けるスキル。
本来、一人にしか発動できないが、常に孤独だったアウラには関係がなかった。
少年が殴られれば、アウラの身体にも同じ痛みが走った。蹴られれば、その衝撃は彼にも降りかかった。しかし、それでもアウラには痛覚がなかった。ただ、半分のダメージを肩代わりするだけ。
それで十分だと思った。
——そして、少年のことなどすぐに忘れた。
それから数十年後。
世界は変わっていた。人も街も、そして時代も。
そんな中で、アウラはかつての少年と再会した。
彼は——勇者となっていた。
子供の頃に語っていた夢を叶え、誰よりもまっすぐに、英雄の名を背負っていた。その瞳は、あの時と何も変わらず、ただ強く、ただ誠実だった。
「マタダム! 俺はずっと、君を探していた!」
勇者は、アウラのことを覚えていた。そして——共に旅をしないかと誘ってきた。
一度は断ろうと考えた。しかし、あの時と同じように、気まぐれで、ほんの気分転換で、その冒険に同行することを決めた。だが、それは想像以上に刺激的な旅だった。
どこまでも新鮮で、予想もつかない出来事が待ち受けていた。そして、ふと気づけば——アウラは彼の背中を追っていた。勇者はどこまでも優しく、誠実で、そして強かった。民衆のために戦い、悪を討ち、誰よりも真っすぐに正義を掲げた。
それが彼の生き方だった。
アウラは理解した。
——魔王ヘルトが不死になった理由を。
それは、アウラのスキルのせいだった。
本来、「半分を肩代わりする」はずだったスキルは、進化し、次第に「すべてを肩代わりする」ようになっていた。
——寿命すらも。
アウラが無意識に肩代わりしていたもの。それが、勇者レペンスを不死にした。
永遠の寿命を持った勇者が、歪まないわけがない。
本来、人間の一生はわずか60年程度。たとえ英雄であろうと、その生涯は限られている。だからこそ、人は夢を持ち、その短い時間の中で足掻き、駆け抜ける。
しかし——。
勇者レペンスには、その「終わり」が訪れなかった。彼の生き方は、誰よりも正しかった。彼はどこまでもまっすぐだった。だからこそ、彼は間違わなかった。
——だが、それは人の寿命の範囲でのみ成り立つものだった。
200年。その果てしない時の流れが、彼の心を黒く染め上げるには十分すぎる時間だった。アウラとは違い、勇者レペンスは根っから善人だった。だから、決して立ち止まることをしなかった。休むことを知らず、人々のために戦い続けた。
人の醜さも、傲慢さも、彼は見てきた。
普通の者なら、当然のように抱く負の感情——憎しみ、怒り、諦め。それすらも、彼は押し殺し、正義の名のもとに歩み続けた。しかし、どれほど純粋な意志であっても、人の心は有限だ。
勇者レペンスの心は、ゆっくりと、しかし確実に蝕まれていった。そして、気づいた時には——彼は、魔王ヘルトと呼ばれる存在になっていた。
——そう、魔王ヘルトは。かつてアウラが「助けた」少年の成れの果てだった。それは救いだったのか、それとも呪いだったのか。アウラの手が、わずかに震える。
「……」
胸の奥が、ひどく痛んだ。それを感じることはできないはずの身体なのに——それでも、痛みがあった。
これは罪なのか、それとも——。
静寂の中、レナードがぽつりと呟く。
「アウラさん……今度は貴方が導く番です」
その言葉が、どこか遠くから響いてくるように聞こえた。
「この戦争を止められるとしたら、貴方だけです」
目の前に広がる景色が、微かに歪んで見える。
「勇者レペンスを——救ってあげてください」
レナードの言葉が、アウラの胸に突き刺さる。
救う?——救うとは、どういうことなのか。もう一度、彼の手を引くことができるのか。それとも——。
アウラは、静かに目を閉じた。
勇者レペンスが魔王ヘルトになってしまった理由。それを作り出したのは——誰でもない、自分だった。その事実が、ひどく重くのしかかる。
この手で作り出した絶望。ならば、この手で——その運命を終わらせるしかないのかもしれない。静かな決意が、アウラの中に生まれていた。




