第28話 第12魔神
街はいつもと変わらぬ穏やかさを保っていた。市場では人々の笑い声が響き、行商人たちが賑やかに品物を売り込んでいる。子供たちは通りを駆け回り、焼きたてのパンの香ばしい匂いが風に乗って広がっていた。だが、その裏側で、一部の者たちは確かに戦争の足音を感じ取っていた。
それから数日が経った。
知る者は限られていたが、戦の準備は静かに進められていた。ジョバンナとエルギンは人界軍との交渉を進め、ロメオは独自に動いているらしい。ヘスティは表向き何もしていないように見えて、その実、裏でさまざまな布石を打っているようだった。ロザリアとイシアルは変わらず鍛錬に励み、互いの力を高め合っていた。
そして——カルクじいさん。
ヘスティの紹介で、彼の住む場所が正式に決まった。小高い丘の上にある静かな家。周囲には木々が茂り、遠くに湖が見える穏やかな場所だった。戦の話が届かない、まるで時間が止まったかのようなその地に、彼は腰を据えることになった。
アウラとユラは、その家を訪ねた。
「ほう、わざわざ来てくれたのか」
カルクじいさんは相変わらず飄々としていたが、その目にはどこか安心したような色が浮かんでいた。
「一応な」
アウラはそっけなく言いながらも、じいさんが落ち着ける場所を見つけたことに安堵していた。
「いいとこじゃん、おじいちゃん!」
ユラが嬉しそうに笑いながら言った。
「ふん、まあな。静かで気に入ったよ」
カルクじいさんが満足げに頷いた瞬間、アウラの動きが止まった。
今の、答えたのか?
アウラはカルクじいさんとユラを交互に見た。まさか、と思ったが、じいさんの目はユラの方には向いていない。ただ、言葉の流れがあまりに自然すぎて、まるで会話が成り立っているように聞こえた。
「……まぁ、いいか」
アウラは微かに苦笑しながら、深くは考えないことにした。
長居はせず、軽く挨拶を済ませた二人は、再び街へと戻る。
アウラは、ふと足を止めた。 夕陽が西の空を染め、長い影が路地に伸びていた。街の賑わいは続いているが、その裏で確実に何かが動き出している。ヘスティが語った戦況を、再び思い返す。
魔王城は大陸の最西端に位置する。そこから、魔王軍十万が西央王国スエムに向かって進撃を開始したという。魔王ヘルトの目的は、勝利ではない。ただ楽しむこと——長引けば長引くほど、戦場に混乱が広がれば広がるほど、彼にとっては好都合なのだ。
彼にとって戦争とは勝ち負けではない。どれだけ魔族が死のうがどうでもいい。要は自分が楽しめるかどうか、それだけだった。
しかし、魔王軍の侵攻ルートは単純ではなかった。魔界から西央王国スエムへ向かう道は、一見最も近いルートだが、狭く曲がりくねっており、一度に数百人程度しか進めない。大軍を率いるには、あまりにも不向きな地形だった。
つまり、人界軍にとっても戦略的な防衛が可能な戦場となる。人界軍はいかに被害を減らしつつ、この地形を活かすかが鍵となる。迎え撃つ準備を整えるためには時間が必要だった。だが——魔王ヘルトがそれを待つはずがない。
静かに拳を握りしめるアウラ。その横で、ユラがふわりと彼の袖を引いた。
「ねぇ、アウラ。考えすぎて、頭痛くなってない?」
「……考えるのは俺の仕事だ」
「ふーん。じゃあ私は、そのアウラをちゃんと見ておくのが仕事かな?」
ユラはにこりと笑う。その笑顔が、何よりもアウラの心を和らげるものだった。
風が優しく吹き抜ける。空を見上げると、ゆっくりと夜の帳が降り始めていた。
遠くに見える街並みは静かで、王都の灯火がかすかに揺れている。
アウラは視線を落とし、ヘスティの言葉を思い返した。
「今の魔王ヘルトには、四人の側近がいる。そのうちの一人は、ユシカ島で倒したニルタリアス」
ヘスティは小さな手をゆっくりと振りながら、淡々と告げた。その表情に感情の起伏はなく、まるで目の前の現実にすら興味がないかのようだった。
「ニルタリアスは最弱だった。情報を集める力と、逃げることだけが取り柄。戦いに特化した魔族ではないから。でも、だからこそ放置すると厄介だった」
アウラは無意識に頷く。確かに、あの異形の魔族は生き残ることに異常な執着を持っていた。死の間際まで生存本能を発揮し続けたことを思い出す。
「彼は時間をかければかけるほど、戦力を増していくタイプだったから」
ヘスティは指を一本立てながら、どこか幼げな口調で続ける。
「ニルタリアスは単独で戦って勝てる魔族じゃない。でもね、彼の本領は情報収集と、戦いの場を長引かせることにあったんだ。逃げながら仲間を増やして、いずれ手に負えなくなる……そういう厄介な戦い方をするタイプ」
アウラは目を細める。確かに、ユシカ島での戦いでも、彼は魔族を次々と召喚し、戦場を泥沼化させようとしていた。もしあと数日放置していたら、今頃戦力は何倍にも膨れ上がっていたかもしれない。
「先に片付けておけて、よかった」
ヘスティは、わずかに微笑んだ。
「第四魔族の残るは三人。サエル、バラン、オノクリア……特に、バランとオノクリアは気をつけないと」
名前を口にした瞬間、アウラの背筋がわずかに凍りついた。
「第12魔神の一員か」
「うん。彼らは私と同じ存在。単なる魔族じゃない。時代の流れにすら干渉できる怪物たち」
ヘスティの声はいつも通り淡々としていた。
サエル——彼は第四魔族に選ばれ魔王ヘルトの配下として、自らその忠誠を誓った魔族だという。鉄壁のサエル、と呼ばれていたらしい。アウラは名前を聞いたことがなかったが、その異名から察するに、防御に特化した戦士なのだろう。
バラン——次元の使者、黎明のバラン。彼はアウラも知る魔族の第12魔神の一人だ。敵でも味方でもなく、記憶や思い出といった代償を払えば、どんな場所へも繋げてくれる固有スキルを持つ。かつて勇者一行が彼と遭遇した際、その能力の理不尽さに頭を抱えたことを覚えている。
「バランは、厳密には魔王ヘルトの部下じゃない。オノクリアの命令で動いてるだけ」
ヘスティは目を伏せる。
「オノクリア……魔界の覇者」
アウラは低く呟いた。
オノクリア——第12魔神の一人にして、魔王の側近。かつて勇者一行として彼と戦ったことがある。しかし、その時は三人がかりでも手も足も出ず、敗走するしかなかった。彼の実力は魔王デネボラをも凌駕すると言われている。
魔界の覇者。その異名が示す通り、彼は自ら魔王を名乗ることはせず、「魔王と認めた者」にのみ仕える。そして、その忠誠は絶対だ。オノクリアがヘルトに従っているということは、すなわち魔王ヘルトが真の支配者として君臨しているという証明にもなる。
「そして……最後の問題が、魔王ヘルト」
アウラは夜空を見上げる。勇者レペンス——かつて人々の希望だった男が、今や世界の破壊者となった。その事実を噛み締めながら、彼は深く息を吐いた。
「……ヘルトをどうするか、考えないとな」
アウラはぼんやりと呟いた。
ユラと並んで、王都の街路を歩き出す。特に目的があるわけではない。ただ、歩きながら考えを巡らせれば、何か突破口が見つかるかもしれない。
夕暮れの王都。黄金色に染まった石畳が、長く伸びる影を刻んでいた。賑わう通りを歩くアウラとユラの足音が、喧騒の中に微かに混じる。
「無敵なんでしょ、無理じゃん」
ユラが肩をすくめながら言った。
「なんかあるはずだ。無敵なヘルトを倒せれば、俺自身の死に方も分かるかもしれないしな。弱点がないなんて、あり得ない」
アウラはぼんやりと空を見上げた。澄んだ青が赤みを帯び始め、遠くの雲が静かに流れていく。
「アウラは弱点があるの?」
「……俺自身にはない」
「だよねー。でもさ、なんでヘルトも不死身なの? 物理無効や魔法無効の固有スキル持ちがいるのはわかるよ? ニルタリアスが物理無効だったもんね。でも、寿命無効って意味わかんなくない? 幽霊じゃないのに」
「幽霊って寿命ないのか?」
「さぁ?」
「お互いにさっぱりだな」
二人は立ち並ぶ店の前を通り過ぎながら、淡々と会話を続ける。通りの果物屋から漂う甘い香りが、わずかに鼻をくすぐった。
「アウラがきっかけだったりしないのかな。ヘルトからアウラと同じ感覚がしたの。これをきっと魔力とかいうんだろうけど、私には分かんないから」
「俺がきっかけか」
アウラの足がわずかに止まる。ユラの言葉が、胸の奥に小さな棘のように引っかかる感覚がした。
「魔王ヘルトは勇者だった時から不死身だったの?」
「いや、怪我はしていた。俺が治していたからな。だが、めちゃくちゃタフだったよ」
「んー。そっかー」
ユラは口元に指を当て、何かを考え込むように視線を彷徨わせた。
その時、不意に賑わいの中から聞き慣れた声が響く。
「アウラさん!」
人ごみの中をかき分けるように、一人の男が駆け寄ってくる。
「ああ! レナード!」
アウラの口元が、ほんの僅かにほころんだ。
英雄試練の時に出会った商人レナード。以前は旅を続けていたが、今はこの町でしっかりと根を下ろし、商売を繁盛させている。動きやすい軽装ながらも、服の質は以前よりも上等なものへと変わっていた。日に焼けた肌は少し落ち着き、整えられた身なりが余裕のある生活を物語っている。それでも、商人特有の鋭い目と、人当たりの良さは変わらなかった。
「元気でしたか!」
「ああ、俺はもちろん元気だよ」
アウラが短く答えた瞬間、ユラがひょこっと顔を覗かせる。
「あっ、やっぱりレナードだ! ひさしぶり〜!」
ぱっと目を輝かせるが、当然レナードには彼女の声は届かない。
「ああ、そうだな」
アウラがふっと微笑みながら、あらぬ方向を見つめる。その様子に、レナードは不思議そうな表情を浮かべた。
「……ユラという幽霊の少女がいるんだ」
淡々と伝えられた言葉に、レナードは瞬きを繰り返す。
「え? ユラさん……? あの幽霊の……?」
戸惑いながらも呟くレナードに、ユラはむっと頬を膨らませる。
「そうよ! あの時もいたのに!」
「まぁ、お前には見えないし、声も届かないが、確かにここにいる」
アウラが補足すると、レナードは「なるほど」と納得したように頷いた。
「そうですか。死の国シェオールには行けたんですね。それに……以前よりもずいぶん明るくなられたみたいで、良かったです」
満面の笑みを浮かべるレナード。その言葉に、アウラは小さく目を伏せた。
彼はきっと、アウラが死の国でユラに出会い、救われたのだと思っているのだろう。少し勘違いしているようだが、訂正する気にはなれなかった。
その様子を見たユラは、少し肩をすくめながら、口の端をわずかに上げた。
「まぁ、いっか」
彼女の軽やかな言葉が、アウラの中のどこか固まっていた感情を、そっと解かすように響く。
そんな静かな余韻を残しつつも、レナードが突然思い出したように声を上げた。
「そういえば、アウラさんに見せたいものがあるんです!」
弾むような口調に促され、アウラは彼の後について歩き出した。王都の喧騒を抜け、石畳の道をしばらく進むと、やがてたどり着いたのは一軒の雑貨屋だった。
外観は質素ながらも、しっかりと手入れが行き届いている。扉の隙間からは木材と薬草のほのかな香りが漂い、店先には丁寧に並べられた品々が陽の光に照らされていた。
「自分の店を持ったのか」
店内に足を踏み入れながら、アウラが何気なく呟くと、レナードは誇らしげに頷いた。
「ええ、おかげさまで。ここなら旅をしなくても商売ができますし、いい街ですよ」
以前の彼は、各地を巡る旅商人だった。しかし今、その姿には落ち着きがある。服の質も以前より上等になり、身なりも洗練されていた。だが、それでも彼の根本は変わっていない。商人特有の勘の鋭さと、人当たりの良さを持ち続けている。
レナードは奥の棚へ向かうと、何かを慎重に取り出し、少し力を込めながら持ち上げた。そして、期待に満ちた表情でアウラの前に立つ。
テーブルに置かれたのは黒いケースだった。それは、断結晶と呼ばれる高価な鉱石で作られており、魔力を遮断する特性を持つ。主に防具として使われるが、こうして収納容器として使われることは珍しい。
「こんなもの、どこで?」
アウラが目を細めながら尋ねると、レナードは満足そうに微笑んだ。
「ええ、頑張りましたよ。でも、大事なのは中身なんです」
レナードの声には確かな自信が滲んでいた。しかし、アウラは慎重だった。断結晶を使ってまで封印するような品が、一体どれほどのものなのか。
たとえ魔力を断つ特性を持つといっても、それには限界がある。圧倒的な魔力を秘めたものなら、どんなに厳重に封じようとも、ほんの僅かにでも漏れ出すはず。だが、このケースからは何も感じられなかった。
「開けてもいいか?」
「ぜひ、マタダムさん」
レナードの言葉を聞いた瞬間、アウラの指先が一瞬だけ止まる。そして、静かにケースの蓋を開いた。その瞬間、空気が僅かに震えたような気がした。
目の前に現れたのは、一冊の本だった。古びていながらも、どこか懐かしい気配を帯びている。
革の表紙は時の流れを感じさせるように擦り切れ、指でなぞればざらりとした手触りが伝わる。それでも、魔力による保護のせいか、中のページは驚くほど綺麗な状態を保っていた。
アウラはゆっくりとその本に触れた。
瞬間、記憶の扉が開かれる。
視界の奥で、遠い日々の記憶が鮮明に蘇る。




