第25話 勇者
リントブルムは、地図から消えた。
アウラの脳裏に、ある光景がよみがえる。
エレイン王国——あの日。燃え上がる街。逃げ惑う人々。泣き叫ぶ子供。崩れ落ちる建物の中で、助けを求める声。それを——すべて無視した自分。
——いや、違う。楽しんでいた。感覚を失い、ただ刺激を求め、快楽のままに蹂躙した。人々の悲鳴を聴きながら、何も感じず、ただ——破壊の心地よさだけを求めていた。血の匂い、焦げた肉の臭い、崩壊の音——すべてが、自分の空虚を埋めるための快楽だった。
そして、今——魔王ヘルトが、同じことをしている。
かつて、自分を正した英雄だったはずの男が。かつての自分と同じ、破壊の快楽に溺れた顔をして。
アウラは、ヘルトと目が合った。
——ヘルトは、笑っていた。
かつて、勇者レペンスの背中にあった強い志は、もはや見る影もない。今の彼の顔には、ただ純粋な破壊の悦びだけが宿っていた。
アウラの手が、無意識に震える。
ロザリアが叫んだ。
「この……クソッタレ!!」
激情のままにロザリアが駆け出す。
「ロザリア!!」
アウラが咄嗟に呼び止めるが、彼女は聞かない。もはや声すら届かないほど、怒りに支配されていた。
——しかし、ヘルトは上空にいる。数十メートル先の青空を漂う彼に、飛ぶ手段のないロザリアが届くはずもない。
そう——アウラは思っていた。
だが、ロザリアはそれを覆した。
「クソがぁあああ!!」
次の瞬間、大気が爆ぜるような轟音が響いた。
ロザリアが——跳躍した。
いや、もはや跳躍と呼べるものではない。地面を蹴るという概念を破壊するほどの爆発的な踏み込み。その力により、彼女の足元には巨大なクレーターが穿たれ、周囲の瓦礫が吹き飛んでいく。
発生した衝撃波が地を裂き、嵐のように広がる。まるで空気すらも拳でぶん殴るかのように、ロザリアは一直線にヘルトへと向かっていった。
「ヘルト! アンタの故郷を——!!」
その叫びと同時に、ロザリアの双剣がヘルトの喉元を捉えた。
しかし——刃は、通らない。
ガキンッ、と鋼を叩いたような音が響く。ロザリアの全力の一撃は、ヘルトの肌に浅い傷一つすらつけることができなかった。
魔王は、静かに微笑む。
「ロザリアか」
その声には、まるで戦闘における緊張感がない。ただの確認作業のように、淡々とした声音だった。
「覚えておけ。私に一切の攻撃は効かない」
言葉と同時に——ヘルトの手が、ロザリアの首を掴む。
「ッ……!!」
ロザリアの身体が、空中で制止する。
次の瞬間、ヘルトの右腕に浮かび上がった勇者の紋章が、淡い光を灯した。
——何かが、流れ込んでくる。
それは……走馬灯だった。
本当の母親が、絵本を読み聞かせてくれた記憶——。
「ロザリア、このお話、好きでしょう?」
優しい声が聞こえる。膝の上で開かれた本には、金色の髪をなびかせた勇者が描かれていた。剣を掲げ、悪しき魔王を討ち、世界を救う物語。ページをめくるたびに、母の指がロザリアの小さな手に触れた。母の温もりがそこにあった。
兄と遊んでいた記憶——。
「ロザ、こっち!」
赤髪の少年が、笑顔で手を引いた。夕焼け色に染まった草原を駆け回り、影を追いかける。何も怖くなかった。兄がいたから。なのに、今は——。
ロザリアは混乱しながらも、その光景に抗うことができなかった。
それを見て、ヘルトは冷たく微笑む。
「ロザリアの大好きな、勇者の力だよ」
その言葉と同時に——ロザリアの身体は地面へと向かって急降下した。
ヘルトはロザリアを掴んだまま、強引に地へと叩きつけたのだ。
——ドゴォォォンッッ!!!
地響きが轟く。粉塵と衝撃波が、周囲を吹き飛ばす。その勢いに巻き込まれ、アウラの魔法結界が剥がれ落ちる。
そして、舞い散る瓦礫の中——ロザリアの本来の姿が露わになった。
下半身のほとんどが、人の形をしていなかった。
アウラの手が、無意識に震える。
——これは、自分の罪が繰り返される光景だ。
そんな彼女を見下ろしながら、ヘルトは静かに告げた。
「……耐えるか。 もう半分以上は、魔族の体に変わっているな」
その言葉は、運命を告げる鐘の音のように響いた。
ロザリアはヘルトの体に足を絡め、そのまま押し倒した。瓦礫と血に塗れた戦場の上、彼女の瞳は燃えるような激情に満ちていた。
ロザリアの双剣の刃が煌めき、猛獣の牙のように連続でヘルトの体を切り裂こうと襲いかかる。赫灼たる残光が戦場を斬り裂き、刃が空を切るたびに衝撃波が生まれる。ヘルトが吸収しきれない膨大な魔力が周囲に漏れ、瓦礫を吹き飛ばした。
しかし、ロザリアは止まらない。さらに加速し、剣の軌跡が見えないほどの速度で振るわれる。打ち込むたびに破壊力が増し、自らの体がより魔族に近づいていくのを感じながらも、刃を止めるつもりはなかった。人間離れした力を込めた斬撃が次々と襲いかかるが、すべてを無効化する魔王ヘルトの前では無意味だった。
ヘルトは鋭い眼光でその猛攻を見極め、一瞬の隙を捉えた。ロザリアの動きを読み切った彼は、再び彼女の首を掴み、そのまま地面に叩きつけた。激しい衝撃が周囲を駆け抜け、大地がひび割れる。衝撃の余波で周囲の残骸が宙に舞い、乾いた空気の中に血の匂いが混ざった。
ヘルトは動じることなく左手を掲げた。すると、漆黒の空間から一振りの剣が現れた。
聖剣エクスカリバー。
その白銀の刃は、まるで世界の理そのものを切り裂くかのように神聖な輝きを放ち、ヘルトの手の中で揺らぎもしなかった。彼はそれを躊躇いなく振り下ろし、ロザリアの腹へと突き立てた。
焼け付くような痛みがロザリアの全身を駆け巡る。まるで体の芯から灼かれるような感覚。彼女の喉から、耐えきれずに苦悶の声が漏れた。
「——あああっ……!!」
背中や喉の傷はすでに直りかけていたが、腹に突き立てられた聖剣だけは違った。その傷口は塞がるどころか、血を滲ませながら彼女の命を削り取っていく。聖剣——それは魔族の再生を許さない力を持つ剣だった。
ヘルトはそんな彼女の苦痛を冷たい視線で見下ろしながら、唇を歪めた。
「やはり効くか……聖剣の力は絶対だからな」
その言葉と共に、彼の右手に勇者の紋章が淡く光る。
「ニルタリアスが死んだから、マタダムがいるんじゃないかと思ったが……案の定、そうみたいだな」
ヘルトは低く笑う。その声はまるで、遠い昔の記憶の断片を弄ぶようだった。
「そういえば、お前……故郷が何かと言っていたな。でもな……そんなもの、覚えているわけがないだろう?」
ロザリアの瞳に怒りの炎が灯る。しかし、それを無視するようにヘルトは続けた。
「そんな価値のないものを、なぜ覚えている必要がある? いつの世も、形あるものしか残らない。形のないものは忘れられ、消えていくだけだ。だから人間も魔族も、同じことを繰り返すんだよ!」
彼は笑った。その笑顔は歪みきった狂気の色を帯びていた。
「苦労や努力? そんなものは託せない。事実、この三百年で何が変わった? 人間と魔族は進化したか? 何も変わっていない! 強者が弱者を踏みにじり、搾取する。それが本能の本質だ。どれだけ技術が進もうと、結局は同じことの繰り返し。——思い出? 記憶? そんなものに価値はない! 形として残せないものに、何の意味があるんだ!」
「……黙れッ!!」
次の瞬間、疾風のように飛び出した影があった。
アウラの足が地面を蹴った瞬間、大気が震えた。彼の蹴りがヘルトの横腹に直撃し、巨体を吹き飛ばす。吹き飛ばされたヘルトが瓦礫を粉砕しながら地面を転がる。
ロザリアの元へと駆け寄るアウラは、すぐに彼女の腹に突き刺さる聖剣を引き抜こうと手を伸ばす。しかし——。
「——くそっ……抜けない」
まるで世界に固定されたかのように、剣は微動だにしない。ロザリアが怪力で試みても、まったく動く気配はなかった。
無理もない。その剣は——勇者にしか抜くことができないのだから。
瓦礫の山からゆっくりと身を起こしたヘルトは、唇の端を歪め、不気味な笑みを浮かべた。その黄金の瞳が、まっすぐアウラを捉える。
「ひどいじゃないか。久しぶりの再会だというのにな、マタダム」
その声は、まるで旧友に語りかけるような親しげな響きを帯びていた。しかし、その笑顔には、人の温もりも、かつての英雄の面影もなかった。
アウラは眉をひそめ、冷たい視線を向ける。
「……なぜ生きている。本物か?」
ヘルトは肩をすくめ、大げさに腕を広げた。
「さぁ、どーだろーな!」
言葉を終えるより早く、ヘルトの姿が消える。次の瞬間、視界が揺れた。鋭い衝撃——ヘルトの手がアウラの頭を掴み、地面を擦るように引きずりながら疾走していた。
「無駄だ!」
アウラは即座に体勢を整え、地面を蹴り上げる。全身の力を込めた蹴りがヘルトの体を弾き飛ばし、彼の足が瓦礫を砕きながら数メートル後方へと吹き飛ばされる。
だが、ヘルトは笑っていた。
「やっぱり無理か……」
軽く首を鳴らしながら、余裕の態度で立ち上がる。その表情には、痛みも怒りもない。ただ、心から楽しそうに微笑んでいた。
アウラは鋭く睨みつける。言葉よりも、ずっと気になることがあった。
「なぜこんなことをする。勇者としての志はどうした」
その問いに、ヘルトは愉快そうに目を細め、口元を歪めた。
「なぜ? マタダム、お前が勇者の生き方を参考にしたように、私はお前の生き方に感銘を受けて参考にしたまでさ」
その言葉を聞いた瞬間、アウラの背筋に冷たいものが走った。
「……何?」
ヘルトは笑いながら、悠然と腕を広げる。
「マタダムがエレイン王国でやったこと、覚えているだろ? 私はそれと同じことをしたまでさ。好奇心と——快楽のために」
その言葉に、アウラの拳が無意識に震える。
エレイン王国を滅ぼしたあの日のことが、脳裏に蘇る。感覚を失い、刺激を求め、ただ快楽のために破壊し、殺した。そこに正義も、大義もなかった。
目の前で起こる惨劇は——過去の自分がやったことの再演だった。
「お前こそ、なぜそんな足手まといと一緒にいるんだ?」
ヘルトはロザリアとエルギンを一瞥し、口元を歪める。
「お前には守りきれんだろう?」
アウラは何も言えなかった。何も言い返せなかった。
その問いかけは、ヘルトの挑発ではなく——過去の自分からの問いかけのように思えた。
「なぜ……」
思わず呟いたのは、エルギンだった。彼はマタダムの目録を通じて勇者レペンスの存在を知っていた。その英雄が、なぜ今こうして魔王として人々を蹂躙しているのか——理解が追いつかない。
「なぜ……そんなことを……」
ヘルトは、そんなエルギンを見て、肩をすくめる。
「なぜ? そんなの決まってる。これは私の人生だ。私だけの人生だ。好きなように、やりたいことだけをやる。それが、私の選んだ道だ」
その声には、一片の迷いもなかった。
「死ぬまでの暇つぶしさ。さぁ、楽しもう——この戦争の再来を!」
ヘルトが右手を振るうと、黒い雷が奔った。
「エルギン!」
アウラが叫ぶより早く、エルギンは即座に身を翻し、横へ飛ぶ。稲妻の閃光が地面を裂き、瓦礫を黒焦げにして爆発を引き起こした。
地面に転がったエルギンは、すぐに体勢を立て直し、鋭い声を上げる。
「私は大丈夫です! それよりもロザリア様を!」
アウラは一瞬、ヘルトへと目を向けた。
——……何かがおかしい。
エルギンに向かって放った黒い雷。魔法障壁を展開する様子もなく、直接攻撃を仕掛けるわけでもなく、ただ淡々と放たれたその一撃。
——ヘルトは、アウラに対して何の干渉もしてこない。試しに、アウラは《賢者の力》を使い、ヘルトを見た。……だが、何も映らなかった。
人を見れば、痛みや苦しみ、体の傷を感じ取ることができる。だが——ヘルトには、それがなかった。
——まるで……俺と同じじゃないか。
心臓を鷲掴みにされたような感覚だった。
ヘルトは、アウラのように魔法が効かない存在なのか。だが、それだけではない。
アウラには、時折、微かに残る痛みや感覚の名残があった。遠い記憶の片隅で、かすかな温もりを思い出すこともある。けれど——ヘルトには、それすらないのではないか?
「まさか……」
アウラはヘルトをじっと見据える。
ヘルトが、戦場の破壊の只中に立ちながら、ただ笑っている。
あの爆発の衝撃も、ロザリアの一撃も、彼にとっては何の意味もなかったのだ。
……本当に、こいつは"不死"なんだ。
その確信が、アウラの心の奥底を冷たく凍らせる。痛みを知らず、恐怖もない。何も感じることができないまま、ただ生き続ける存在——それが、目の前の魔王ヘルトだった。
どこまでも、俺と同じ。
ヘルトの眼差しに、アウラはかつての自分を見た。感覚を失い、刺激を求め、ただ破壊と殺戮に快楽を見出した、あの時の自分——。そして、そんな自分を止めるものがいなかったからこそ、エレイン王国を滅ぼしたのだ。このままでは、ヘルトもまた、誰にも止められず、世界を壊し続ける。
アウラの手が無意識に拳を握る。ヘルトを止める。それが、自分に課せられた役目なのだと、本能的に悟った。
「……そうこなくちゃな」
ヘルトが嗤い、アウラが刃を抜く。
次の瞬間、両者の影が重なり合った。
「どこで無効の力を——」
アウラの言葉が途切れる。視線の先、ロザリアの血に塗れた姿。腹部に深々と突き刺さった聖剣エクスカリバーが、まるで命を吸い上げるかのように鈍く輝いている。ロザリアは苦悶の表情を浮かべ、微かに震える指先で剣を掴もうとするが、力が入らない。
息が詰まる。
アウラは駆け寄りたい。今すぐにでも、ロザリアのもとへ——。
しかし、そのわずかな隙すら、目の前の男が見逃すはずがなかった。
「そんなこと気にしている場合か? ロザリアが死ぬぞ?」
ヘルトの冷笑が響く。アウラの足が、思わず僅かに動いた。
「賢者の力を持つのはアウラだけだろう?」
その言葉が決定打となる。
アウラの焦燥が喉の奥を焼いた。何をしている、早く動け——!
だが、その瞬間だった。
——空気が弾けた。
雷のような魔力の衝撃波が巻き起こり、ヘルトの周囲に張り巡らされた瘴気を切り裂く。まるで戦場に新たな風が吹き込むような、その圧倒的な魔力。
「——アウラ!!」
その声に、アウラは思わず息を呑んだ。
鋭い魔力の刃が舞い、戦場を引き裂くように光の奔流が降り注ぐ。イシアルの両手から溢れた魔力がヘルトを包み込み、次の瞬間——純白の結界がその場を支配した。
「私に任せて! ロザリアを!!」
駆けつけたイシアルの声が、まるで戦場に吹き込んだ風のように響き渡る。
アウラは一瞬、動けなかった。焦燥が、ようやく熱を失っていく。
間に合った——!
イシアルの叫びと同時に、ヘルトを包囲するように結界が展開された。膨大な魔力が空間を歪ませ、ヘルトの周囲に強固な封鎖を築き上げる。
アウラは迷わずロザリアのもとへ駆け寄った。倒れた彼女の姿は痛々しく、聖剣エクスカリバーが腹部に突き刺さったまま、命を蝕んでいた。アウラは手をかざし、賢者の力を発動させる。柔らかな光がロザリアの傷を包み込み、回復の波が彼女の体に広がった。
だが——いくら治癒しようとも、聖剣が奪い続ける生命力には抗えない。魔族の血が完全に彼女を支配していたなら、とうに死んでいただろう。不幸中の幸い——だが、現状を打破する手段はなかった。
「ロザリア……!」
苦しむ彼女の顔に焦燥が浮かび上がる。だが、その時、ヘルトがイシアルを見て口角を上げた。
「空を飛ぶか……人族にも、やる奴はまだいるんだな」
「イシアル! 魔王ヘルトは元勇者だ! 触れた者の記憶を見ることができる! 自分の弱みが全て知られるんだ! 注意しろ!」
アウラの言葉にイシアルの表情が強張る。
「だそうだ。せいぜい注意しろよ」
ヘルトは愉快そうに言い捨てると、イシアルの結界を力ずくでこじ開けた。その瞬間、激しい魔力の衝突が生まれる。
イシアル対魔王ヘルト——。
魔法攻撃の押し合いが始まった。イシアルの魔力は圧倒的だった。だが、ヘルトには意味をなさない。防ぐ必要がないのだから。イシアルは攻撃しながら守りも固めなければならなかった。対照的に、ヘルトはまるで子供と遊んでいるかのように魔法をその身に受けながら、じわじわと距離を詰めてくる。
そして——。
ヘルトが目前に迫り、ゆっくりと腕を伸ばす。
その瞬間、轟音が響き渡った。
アウラが瞬時に駆け、ヘルトの体を地面に叩きつける。
土煙が舞い上がる中、アウラはヘルトに馬乗りになり、鋭く睨みつける。
「忙しいな」
ヘルトは笑った。
「ああ。おかげさまでな」
アウラは短く応じながら、ヘルトの喉元に手を添える。
同時にもう片方のヘルトの手から放たれた魔法が、まるで死の宣告のようにロザリアへと迫る。
アウラは咄嗟に飛び出そうとした。しかし——。
「っ……!」
ヘルトの手がアウラの喉を掴み、その動きを封じている。鉄の鉤爪のように強く、冷たい。まるで絶望そのものが形を持ったかのように。
「ロザリア!」
アウラの叫びが響いた。その刹那、白い影が横切る。
イシアルだった。
彼女はロザリアの前に飛び降り、両手を広げるようにして魔法障壁を展開する。だが、間に合わない。展開された結界はわずかに遅れ、ヘルトの魔法の奔流を完全には受け止めきれなかった。
魔力の残影がイシアルの体を襲う。爆発的な魔力の衝撃が彼女の全身を焼き、服の端が裂ける。腕を包む包帯がほどけ、隠されていたものが露わになった。
そこに刻まれていたのは——無数の、痛ましい傷痕。ロザリアの目が、イシアルの腕に吸い寄せられる。ざくりと刻まれた深い傷、繰り返しつけられた細かな切り傷。そこに刻まれたものが何かを、ロザリアはすぐに悟る。——自分でつけたものだ。
イシアルは震えていた。傷そのものではない。傷を見られたことに、仲間に知られたことに。彼女は恐れていた。それでも、ロザリアを守るために飛び出した。守りたいと思ったから、恐怖に勝った。
「……イシアル」
ロザリアの喉から、かすれた声が零れる。
その時——。
全員の意識が空へと吸い寄せられた。
上空、見覚えのある魔法陣が再び浮かび上がる。異様なまでに巨大で、禍々しく脈動する魔力。
「どうする?」
ヘルトが、悪魔の微笑を浮かべながら嘲るように言った。
「お前にはもう止められないはずだ」
アウラの瞳がわずかに揺れる。
知っている。この魔法を。——それは、かつてマタダムとして好き勝手に生きていた時、自らが使ったもの。全ての魔力を消費するが、その破壊力は計り知れない。あのエレイン王国を滅ぼした時のように。ロザリアとイシアルが確実に死ぬ。
その膨大な魔力の波動を感じ取り、ロザリアも最悪の事態であることを直感していた。
「イシアル。逃げ……なさい」
呆気に取られていたイシアルの背に、ロザリアの震える声が届いた。振り返ったイシアルは、咄嗟に腕を隠そうとする。しかし、途中でその手を止めた。包帯がほどけ、隠されていた傷が露わになる。
ロザリアの胸に、アウラの言葉が蘇った。『心の傷はそんな簡単なものじゃないんだ』この傷が語るものは、どれほどの苦しみだったのか。自分自身の肉を裂き、痛みで心を誤魔化そうとするほどの絶望とは、どれほどのものだったのか。
しかし——そんなイシアルが歩き出した。あの家をでて、あの森をでて、この戦場の中に自らの意思で飛び出したんだ。その姿に、ロザリアの目が揺れる。
——ここで……私のために、死んでほしくない。
必死に手を伸ばす。何かを訴えるように、その背中を押すように——。そして、その瞬間——ロザリアの指先がイシアルの腕に触れた。
心の奥を覗かれたような感覚。触れた瞬間に流れ込む、自分自身の想い。ロザリアは気づいた。この感覚を知っている。魔王ヘルトと同じだ——。
右腕に巻かれた包帯が、左腕よりも厚い理由を理解する。彼女が守りたかったものは、痛みではなく——その証。そこに刻まれたものが、彼女の「存在」を証明していた。
「いいえ」
静かな声が、戦場の喧騒を裂く。ロザリアの手をそっと握り、イシアルは微笑んだ。
「今度は……私が、ロザリアを守る番」
そして、まっすぐに歩き出す。まるで、この瞬間のために生まれてきたかのように。
イシアルの指が、聖剣エクスカリバーの柄を握る。魔王ヘルトが、薄く笑う。
「何をしている。それを引き抜けるのは、勇者だけだ」
ヘルトの余裕を滲ませた声に、イシアルは真っ直ぐ向き合った。その瞳には、迷いの影はない。
カルクおじさんとの対話——。決意を固めた瞬間——。あの日の誓いが、今、彼女の血となり、心臓を震わせる。
「今の貴方は……もう勇者なんかじゃない」
その言葉とともに、イシアルは聖剣エクスカリバーの柄から手を放した。ロザリアの体に突き刺さっていた剣は、光の粒となり、消えていく。
——そして。
イシアルの右腕を覆っていた包帯が、風に舞った。
傷だらけの白い肌があらわになる。その深く刻まれた切り傷の下、さらに刻まれていた紋章が、ゆっくりと輝き始めた。
魔王ヘルトの瞳が揺れる。
これは——何度も見たものだ。何度も、何度も、この紋章を見てきた。勇者の証——勇者の紋章。
神の光が舞い降りるように、イシアルの右手に聖剣エクスカリバーが生まれる。
彼女は、静かに、だが確かに自らの名を口にした。
「私は——勇者イシアル」
その声は、まるで運命を切り開く剣のように、戦場に轟いた。




