第22話 絶望の果てに、ふたたび
イシアルの瞳が鋭く光った。
「ここで終わらせる——もう、私は止まったりしない!」
イシアルの手を伸ばすと、その指先にこの地上に湧き出たままの魔力が集中していった。
対するニルタリアスは毛棒を食らうような笑みを浮かべる。その笑みの意図を、アウラは気がついた。
古の時代。勇者が生まれる前から世界には『第12魔神』と呼ばれた12人の魔族がいた。その中でもっとも有名な魔族の一人が、『魔王デネボラ』であった。
魔王倒段に乗り出した勇者一行は4人の魔神を倒した。だが、それは魔王デネボラの配下全てが倒されたという意味ではない。
それらの魔神は、自ら魔王デネボラに屈して仕えていたにすぎない。残り7人の魔神は永く止黙を保っていた。アウラでさえ、会ったことがない魔神も居る。
ここ、死の国シェオールは『第12魔神』の一人、『霊界の調停者サリューヌ』が住まう土地だ。神域に調停者サリューヌが居るのではなく、調停者サリューヌが居る土地が霊域となる。
死の国シェオールとは、調停者サリューヌの住む場所ではなく、調停者サリューヌがいることで死の国シェオールとなる。死の国シェオールは死んだ魂を引き寄せる。その同様にアンデット系の魔族が居つきやすい土地でもあった。
調停者サリューヌが住む水面は聖水となり、死者との会話を可能とした。
ユラはこの聖水に触れていた。
そのため、ユラはホメロンを見て、触れることができた。
「ねえ、あれって……まさか」
ロザリアの声が震えた。白く儚げな黒髪の少女――それが確かに、そこにある。
目の前の光景に、アウラは呆然と立ち尽くしていた。ロザリアの目には、もうはっきりとユラの姿が映っていた。今まで微かな気配しか感じ取れなかったはずの存在が、こうして輪郭を持って現れている。彼女は、見間違いではないことを確信する。
「ユラ……!」
ならば、ニルタリアスがユラの存在を認識していないはずがない。恐らく、初めから見えていたのだ。
アウラは信じ込んでいた。ユラは絶対に安全だと。誰の目にも映らない、誰にも触れられない、だからこそ決して害されることはない、と。
しかし――その幻想は、砕かれた。
「アウラァァァ!」
ユラの悲痛な叫びが、鋭く空気を切り裂く。視界の先、彼女はニルタリアスの手に囚われていた。
絶望が胃の奥から込み上げ、アウラの思考を焼き尽くす。
「ユラァァァ!!!!!」
ニルタリアスの声が、怒号と焦燥の入り混じった叫びへと変わる。
「動くなァァ!!! 一歩でも動けばこいつを道連れにするぞ!!!」
ユラの体は、黒い魔力の鎖に絡め取られたまま宙に浮いていた。冷たく禍々しい魔力が、じわじわと彼女の細い首に絡みつき、少しずつ締め上げていく。喉が軋み、呼吸が奪われていく中、ユラは苦しげにもがいた。
ニルタリアスの目が、恐怖に揺れている。——アウラを敵に回せば、確実に殺される。それを理解しているからこそ、彼はユラを利用するしかなかった。どれほどみっともなくても、どれほど卑劣でも、生き残るためならなんでもする。
それが、今までニルタリアスを導いてきた方法だった。
「やっぱり……あれがユラなのね!」
ロザリアの声が、怒りと歓喜をないまぜにして響く。その瞳が、確かにユラを捉えていた。
「ユラ! やっと見えたわ! こんなクソ野郎から解放してあげるから、待ってなさい!!」
ユラの瞳が潤む。今まで一度も存在を疑わなかったロザリア。ずっと信じ続けてくれた、その人の声——。
「ロザリア……!」
その名を呼び返した瞬間、違う声が戦場を切り裂いた。
「何を言ってるの!? 幻覚!? そうはさせない!!」
イシアルの叫び。彼女の目には、ユラの姿は見えない。ロザリアの言葉も、アウラの焦燥も、全て敵の精神攻撃による幻惑としか思えなかった。
「やめろ! イシアル! 動くな!!」
アウラの叫びが場を震わせる。だが、イシアルは止まらない。魔力が彼女の指先に収束し、攻撃の準備が整う。
——違う、やめろ……!
アウラの血の気が引いた。イシアルが攻撃を放てば、ユラは確実に巻き込まれる。
その瞬間——空間が捻じれた。重力が反転し、イシアルの足元が沈み込む。アウラの魔法だ。
「っ……!?」
イシアルの体が地面に縛りつけられるように沈んだ。
「何を……するの!」
アウラを睨みつけるイシアルに向かって、ロザリアが叫ぶ。
「あそこにはユラがいるのよ!! 一緒にここまで来た仲間がいるの!!!」
「いるって……どこに……!?」
その言葉が終わるよりも早く——地面から黒い腕が伸びた。
「っ……!!」
イシアルとロザリアの足が絡め取られ、地に引きずり倒される。無数の黒い腕が、蛇のように絡みつき、彼女たちを捕えた。この手はあの時、ロザリアを拘束した魔力と同じもの。
ニルタリアスが叫び声が響く。
「早くこの結界を消せ!! さもないとどうなるかわかるだろうな!!!」
アウラの意識が、一瞬でニルタリアスの声に引きずり込まれる。
「アウラ!」
ユラの叫び。魔力の鎖が喉を締め上げ、声にならない悲鳴が漏れる。ニルタリアスの触手のような腕がユラの口元へと流れ込み、彼女の声を完全に塞ぎ込む。ユラは必死に体をよじるが、魔力の拘束は緩まない。
「アウラ!」
イシアルが叫ぶ。ニルタリアスに捕らえられながらも、魔法障壁を展開し、必死に耐えている。だが、その障壁もひび割れ始め、彼女の体から魔力が滲み出ていく。
「はやくしろ! アウラァァアアア!!! この娘が死ぬぞぉ!!!」
ニルタリアスの絶叫が響き渡る。彼もまた、ここですべてが決まることを理解していた。この場を生き抜くために、あらゆる手を使うつもりだった。
アウラの瞳が揺れる。この結界を崩せば、ユラが解放される。だが——。
「はやくしろぉぉぉおおお!!!」
「アウラ! だめ!!」
イシアルの声が割って入る。彼女の体が痙攣し、瞳が苦痛に歪んでいく。その瞬間、イシアルの体が限界を迎えた。喉の奥から、鉄の味がこみ上げる。
「ッ……!!」
彼女の唇から、鮮血が零れ落ちた。
そんな中、ユラを見つめるロザリアがアウラに向かって叫んだ。
「アウラ! あなたの魔法ではユラは死ななかったんでしょ! なら、ちゃんと見なさいよ!! ずっと一緒にいたんでしょ! 男なら、彼女のことを信じなさいよ!!」
ロザリアの声は、焦燥と怒り、そして信頼の混じった鋭い刃となってアウラの胸に突き刺さる。
ユラはアウラと同じだ。彼女もまた、死を望んでいた。今ここで攻撃すれば——その願いを叶えてやれるかもしれない。どう考えても、ユラごとニルタリアスを攻撃することが最善の選択だった。
だが——アウラには、できなかった。
魔力を込めた指先が、わずかに震える。冷静に考えれば、最適解は決まっている。だが、心がそれを拒絶した。ユラが消えてほしくない。最後まで一緒にいてほしい。その気持ちが、自己中心的な欲求にすぎないと理解していても、切り捨てることができなかった。それは、何にも代えがたいほど、アウラにとって耐えがたい苦しみだったから。
そのとき——。
『私は大丈夫だよ。だってあなたの中に残り続けてるから』
ふと、胸の奥で声が響いた。懐かしく、優しく、どこまでも穏やかで——そして、どこまでも暖かい。
『私って、それほど魅力的な存在でしょ?』
まるで忘れていた記憶を、体が思い出すように——。ユラの声が、アウラの心の中に直接届く。
『貴方が自分を信じられないなら、私があなたのことを信じてあげる。だから……貴方が自分を信じられるようになった時、貴方は私のことを信じて、ね?』
——信じて。
ユラの目と、アウラの目が交差する。苦しそうな中でも、ユラは微笑み、小さくうなずいた。
その一瞬で、すべてが決まった。
アウラは覚悟を決める。——別れを告げるように。両手に込めた魔力を、破壊の力へと転換する。
「アウラァァァァァアアアアアアア!!!!!」
ニルタリアスの咆哮が空間を引き裂く。
「——シン・ノーズ」
静かに吐き捨てるアウラの言葉とともに——世界が光に包まれた。
轟く閃光。燃え上がる浄化の波動。あらゆる霊とアンデッドを消し去る純白の光線が、地を這うようにして広がっていく。
ニルタリアスは、恐怖に駆られながら必死に飛び立とうとする。だが、——逃げ場はない。
「そんな、バカな……!!!」
彼の体が結界に阻まれる。アウラの魔法は、空間そのものを呑み込むように結界を包み込み、やがてそれを破壊しながらさらに広がっていった。
焼き尽くされるニルタリアスの断末魔が響き渡る。光の波が彼の身体を切り裂き、断片を跡形もなく消滅させていく。
アンデッド特攻のアウラの魔法。それは、イシアルやロザリアには一切のダメージを与えない——だが、ユラは違う。
以前の彼女ならば、アウラの魔法は一切通じなかった。けれど、今ここは霊域。ロザリアにすら認知できるほど、ユラはこの世界へと根を下ろしてしまっていた。
そのユラが、アウラの攻撃を無傷でやり過ごせる保証は、どこにもなかった。
「そんな……私の結界が……押し負けるなんて……」
魔力が暴風のように吹き荒れ、イシアルの声が掻き消される。彼女の結界が、軋む音を立てながら崩壊していく。
——アウラの魔法は、すでに止められない。
すべてを呑み込む光の波動が、ユラへと迫っていく——。
「そんな……私の結界が……押し負けるなんて……」
イシアルの声が震える。彼女の魔法の絶対領域が崩された。
しかし、アウラはその言葉に反応しない。目の前の空間が、ぽっかりと虚無のようにえぐれていた。すべてを吹き飛ばした閃光の中に、もうユラの姿はない。
静寂。風が吹き抜け、灰のように残った魔力の余韻が消えゆく。耳を澄ませても、声は聞こえない。どれだけ手を伸ばしても、そこに触れるぬくもりはない。
それでも——。
「……ユラ」
震えた声が、虚空に零れ落ちる。
「なあ……ユラ……」
返事はない。
「……おい……いないのか……?」
おぼつかない足取りで、アウラは何の意味もなく広場の中央へと歩いていく。足元の土が、わずかに沈む感触がした。けれど、その感触はただ冷たく、何もない空白の中に足を踏み入れているようだった。
ユラの反応は、ない。
次の瞬間、力が抜けるようにアウラは膝をついた。拳を握りしめ、指先が硬くなった土を掴む。それでも何も残っていないことを、理解していた。
もう、ここにはいない。それを受け止めなければならない。
だが、涙が止まらなかった。かつて失った感覚を、ユラが教えてくれた。温もりを、楽しさを、思い出を——すべてをくれた。それなのに、また自分は手放してしまった。
歩みを止めてはいけない。
アウラは歯を食いしばる。そして、ゆっくりと立ち上がった。
「……行こう」
あちら側でユラと再会したとき、恥ずかしくないように——。
ロザリアは、アウラにかける言葉を見つけられなかった。彼女は強い。それでも、今のアウラはどこか脆く見えた。
「アウラ……」
小さく名前を呼ぶ。
ロザリアからユラの話を聞いたイシアルが、先ほどの発言を詫びた。アウラは短く笑って「いいよ」と答えた。だが、その瞳は——笑っていなかった。
港へと続く道を歩き出したアウラは、まるでここに残るすべての悲しみを捨て去るように、ユラとの出会いを思い返す。
初めて出会ったのは、呪いの森。そこでユラに触れ、久しく忘れていた「人のぬくもり」を思い出した。一緒に死に方を探し、過ごした短い日々。楽しい時間はあっという間に過ぎて、地縛霊だったユラとの別れは、唐突に訪れた。
——あの時、彼女を殺せなかった。
だからこそ、また会いたいと願った。もう会えないと、そう思っていた。
だが。
王都デネボラへ向かう道を歩いていたとき——。
「ぇ……ねぇ……アウラぁ」
どこかで聞いた声が、風に紛れるように響いた。
「……っ?」
アウラの足が止まる。心臓が跳ねた。
「ぇ……ねぇ……ねぇ……アウラぁ……アウラってばぁ……」
そう——ちょうどこんなふうに。
振り返る。
そして、目の前の光景に——。
アウラの目から、たまらず涙が溢れた。
そして——彼は、笑った。
「ねぇー!めっちゃ吹っ飛ばされたんだけどー!」
軽やかな声が、風とともに耳に届く。
「アイツに捕まれてたからさ、アウラの攻撃から逃げるじゃん? そしたら、うぉおぉおぉお~~って感じでアイツが逃げるわけよ!それで私、ぶんぶん振り回されてさ!」
ユラが全身を使って大げさに身振り手振りをつける。彼女の腕が宙を泳ぎ、風を切る。
「そんでさ! 結界が消えたからか知らないけど、急にアイツが消えてさ!そしたら私、そのままぴょぉ~~んって飛ばされて! いやもう、ほんと空飛んでるのかと思った!」
その様子を見た瞬間、アウラの身体が自然と動いた。ユラに向かって飛びつく。腕を広げ、力いっぱい抱きしめた。確かな温もりを感じた瞬間、アウラの喉から震える息が漏れた。
ずっと、心が凍えるような感覚だった。どれだけ手を伸ばしても、もう二度と触れられないかもしれないと恐れていた。
けれど今、ここにいる。
この腕の中に、確かにユラがいる。
「……よかった……よかったよ……」
搾り出すような声だった。
「戻ってきてくれて……おかえり、ユラ」
胸の奥が熱くなる。押し込めていた感情が、一気に溢れ出してしまいそうだった。
ユラは、一瞬驚いたように目を瞬かせた。だが、すぐに優しい笑みを浮かべる。
アウラの髪をそっと撫でながら、彼女は囁いた。
「ただいま」
その声は、どこまでも穏やかで、あたたかかった。
ロザリアとイシアルには、ユラの姿は見えなかった。
それでも——アウラの腕が、誰かを抱きしめるかのように確かに回され、彼の表情がこれまでに見たことがないほど安堵に満ちていた。
——そこにユラがいるのだと、誰もが理解した。




