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第21話 堕ちた勇者と覚醒の光

 ヘスティのもとへと、一歩ずつ歩み寄る魔王ヘルト。彼の足音だけが、広大な玉座の間に不吉に響く。周囲には、すでに崩れた魔法障壁の残骸が虚しく浮遊していた。

 ——無意味だった。

 ヘスティが放った防衛魔法の数々は、彼の皮膚をかすめることすらできず、すべてが無効化される。黒衣を翻しながら、魔王は無傷のまま王座へと向かっていた。

 ヘスティの攻撃は無力だった。かつて《魔王》の力を誇った彼女も、今やその力を発動するだけの余力すら残されていない。それでも、ヘスティは微動だにしなかった。玉座の上で、ただ冷静にヘルトを見据えている。——その沈黙すら、彼女なりの「王」としての矜持なのかもしれない。

 魔王ヘルトが、ふっと笑う。


「殺す前に、お前の過去でも覗かせてもらうか」


 そう言いながら、ヘルトはヘスティの目の前に立ち止まる。

 僅かな距離を挟み、二人は互いに視線を交わした。

 沈黙。

 玉座の間には、異様なほどの静寂が落ちた。ヘスティは玉座に深く腰掛けたまま、目の前の男を見つめる。魔王ヘルトもまた、ただ黙ってヘスティを見下ろしていた。

 睨み合うわけでもない。敵意を剥き出しにするわけでもない。だが——ヘルトの瞳には、得体の知れぬ冷たさが宿っていた。ヘスティの瞳には、測り知れぬ静寂が漂っていた。

 ——底が知れない。

 互いにそう思ったのかもしれない。

 だが、ヘルトはその沈黙を無理に破ろうとはしなかった。

 ゆっくりと、ヘスティに向かって手を伸ばす。


「……」


 ヘスティは、抵抗しない。

 ただ、静かにその手を見つめる。

 ——彼が、何をしようとしているのかを知っているから。

 魔王ヘルトの固有スキル——《勇者》

 相手に触れたとき、その者の過去を垣間見ることができる。それは、かつて勇者レペンスが魔王討伐の際にも発動した能力だった。

 彼はこの力で、無数の命を救い、また奪ってきた。

 ——本来、意図して発動できるものではない。

 しかし、ヘルトは違った。

 二百年という年月の中で、彼はこの力を自らの意志で制御する術を身につけたのだ。

 だからこそ、今——ヘスティの過去を覗き見ることができる。

 ヘスティは、彼の手が伸ばされるのを黙って見つめていた。抵抗することはなかった。玉座の上、どこまでも静かに。王として。ただ、冷たく、寂しげな瞳を持って、魔王ヘルトを見返していた。

 ヘルトの手が止まる。

 その目が、微かに細められた。

 ——あの日。勇者レペンスが、初めてミラルフに出会った時のことを思い出す。あの日、人々は歓喜した。祝福の声があふれ、彼の勝利を讃えた。だが、ただ一人——ミラルフだけは、彼に向けて何とも言えない眼差しを向けていた。まるで——彼の正体を見透かしているかのように。

 ——違う。これはミラルフではない。わかっている。

 ヘスティの中身が別の存在だということは、理解している。

 それでも——ふと、ヘルトの中にわずかな違和感が生まれた。

 伸ばしていた手を、彼はゆっくりと引っ込める。


「……やめだ」


 背を向けると同時に、淡々と告げた。


「興が醒めた」


 静寂が落ちる。

 ヘスティの瞳が、ゆっくりと細められた。まるで、この結末を初めから知っていたかのように。


「……いいの?」


 王座の上から投げかけられた問いに、ヘルトは背を向けたまま答える。


「《魔王》の力が使えないなら、わざわざ今殺す必要もない」


 振り返らず、ただ冷たく言い放つ。


「これは、私が楽しむための戦争だ。お前を殺す楽しみは、後にとっておく」


 ヘスティは目を伏せ、微かに微笑んだ。


「……楽しみを見つけられたことは、いいこと」


 それは皮肉か、それとも本心か。

 ヘルトは無言のまま、部屋の出口へと歩き出す。

 その背が、ゆっくりと闇の中に沈もうとした瞬間——ふいに、彼の口元が歪んだ。


「ああ……ちょうど良いことに、マタダムを見つけたようだ」


 悪意に満ちた嗤いを浮かべながら、魔王ヘルトは城を去った。

 ヘスティは、その背を最後まで見届けることなく、そっと瞳を閉じる。

 ——まるで、すべてを受け入れるかのように。


 王座の間へと駆け込んだ二人の騎士——ロメオとジョバンナ。

 大扉を勢いよく押し開け、視界に飛び込んできたのは、荒れ果てた広間だった。

 崩れた柱、斬撃が走った壁、焼け焦げた床。そして、その中心——玉座には、変わらず静かに座るヘスティの姿があった。

 黒衣をまとい、冷たい瞳で彼らを見下ろす。その身体には傷があるものの、彼女の表情は変わらない。まるで、何事もなかったかのように——。

 ロメオは息を呑んだ。

 傷ついているはずなのに、ヘスティは動じない。むしろ、そこに座っているだけで、彼女が未だにこの国の王であることを示していた。しかし、その場には異様な静けさが満ちていた。——何かが、決定的に変わったのだと理解する。


「……陛下、ご無事でしたか」


 ロメオが慎重に言葉を発しながら、玉座へと歩み寄る。

 ヘスティは、それに答えなかった。ただ、ゆっくりと視線を向ける。冷たく、鋭く、しかしどこか遠いものを見るような瞳だった。


「何が、あったんですか」


 ロメオが、広間を見渡しながら問う。

 その問いに、ヘスティは淡々とした声で応える。


「勇者は魔王となり、今、戦争を望んでる」

「……なぜ、勇者が魔王に?」


 ロメオの声には、困惑が混じっていた。かつて、人々の希望だった勇者。その彼が、なぜ世界に戦争をもたらすのか。

 ジョバンナは静かに答えた。


「不死が、勇者を狂わせたんでしょうね。」


 その言葉に、ロメオは思わず息をのむ。


「不死が、勇者を狂わせた」


 ——それは、あまりにも皮肉だった。勇者という存在が、人々を救う者であるのならば、不死はまさに最強の力。だが、それが彼を歪め、狂わせたのだとしたら——。

 ロメオは拳を握りしめる。


「……周辺諸国に、このことを伝えないと」


 彼はすぐにでも動き出そうとするが、その前に、ジョバンナが静かに首を振った。


「大丈夫。すでにリントブルムへエルギンを使者として送っているわ。」

「エルギンを……?」


 ジョバンナは淡々と続ける。


「今の魔王ヘルトと渡り合えるのは、同じく勇者一行のマタダム、そしてアウラだけだから」


 アウラ——。その名前を聞いた瞬間、ロメオの脳裏に彼の冷めた瞳が浮かぶ。あの男は、どう動くのだろうか。リントブルムにいるということは、ロザリアもそこにいるはずだった。

 ロメオは唇を噛み締めながら、目の前のヘスティを見つめる。

 ——この戦争は、どこへ向かうのか。そして、彼らの運命は。

 ヘスティが、小さく呟いた。


「……アウラとロザリアは、リントブルムにいる」


 それは、まるで「すべてを知っている」とでも言いたげな口調だった。

 ロメオは、無意識に息をのむ。

 ——どうする。自分は、どう動くべきなのか。

 静かすぎる王座の間に、ただ戦争の気配だけが漂っていた。




 ユシカ島。


「アウラ、こっち!」


 ユラがアウラの背中にしがみつきながら、必死に指さしていた。

 ロザリアが危険——イシアルとの話し合いの最中、ユラはそう叫びながら飛び出してきた。正直なところ、アウラはロザリアが負けるとは思っていなかった。

 彼女は常人の域を遥かに超えた化け物であり、魔族の中でも並の相手なら片手で捻じ伏せる実力を持っている。だが——アウラの視界に飛び込んできた光景は、予想とはまったく異なるものだった。

 開けた地に出た瞬間、アウラはその場に立ち止まる。

 ロザリアが、魔族の無数の腕に絡め取られ、抑え込まれていた。


「……っ!」


 即座に状況を把握する。

 ロザリアの力なら、普通の魔法や拘束ではまず捕らえられない。にもかかわらず、彼女が地に膝をつき、苛立った表情で魔族を睨みつけている。

 ロザリアの歯ぎしりする声が聞こえた。アウラの目が冷たく細められる。

 次の瞬間——空気が震えた。魔力が、瞬く間に膨れ上がる。

 ドンッ!!

 爆発的な魔力が迸り、ニルタリアスの腕が吹き飛んだ。黒く腐った魔力が霧散し、ロザリアの身体を拘束していた腕が砕ける。


「ロザリア、大丈夫か?」


 アウラの問いに、ロザリアは肩を軽く回しながら短く答えた。


「ええ」

「ユラがロザリアのことを教えてくれたんだ。それと——さっきは、すまなかった。お前の言葉のおかげで助かったよ。ありがとう」


 ロザリアは少しだけ目を見開くと、照れくさそうにそっぽを向いた。


「……別に。私も悪かったし」


 小さな声で、つぶやくように。


「貴様、まだ生きておったか」


 ニルタリアスが低く唸るように言った。


「久しぶりだな。随分と階級を上げたようだな」

「ヘルト様に認められ、今や大四魔族の一角よ」

「そうか」


 アウラは、ふっと笑った。

 だが、次の瞬間——その笑みが、冷酷なものに変わる。


「——だが、お前は見誤った」

「何を?」


 ニルタリアスが眉をひそめた、その瞬間————世界が、魔力の奔流に染まった。

 空気が重くなる。肌を刺すような圧力。

 ニルタリアスが、ハッと顔を上げた。


「まさか……!!」


 結界。

 魔法を極めた者が成せる、最上級の魔法。

 通常の魔法防御手段、魔法障壁は魔力の壁であり、強度や密度によって防御力が決まるが、物理攻撃には弱い。

 しかし、高度な魔法使いしか扱えない領域魔法、結界は空間そのものを支配し、物理攻撃も防ぐ。

 一般的な上級魔法使いが展開できるのは直径5m程度が限界。魔力量に比例して拡大できるが、それには長時間の詠唱が必要であり、天才的な魔法使いであっても、直径50m以上の結界を即座に作ることはほぼ不可能。

 だが、アウラはその倍の直径100m以上の結界を瞬時に発動することができた。


「バカな……! こんな規模の結界が、こんな短時間で……!」


 ニルタリアスの驚愕の声が、低く震えた。

 轟然——魔力の爆発が大気を震わせ、目に見えない衝撃波が周囲の樹々を揺らす。次の瞬間、空を覆うように巨大な結界が展開された。島全体が、魔力の檻に包まれる。

 目の前の結界はそれを遥かに超え、半径3km以上のこの島全体を完全に覆っていた。

 ニルタリアスの右手から飛び出した無数の魔物たちが、逃げるように上空へと舞い上がる。——だが、そこには、逃げ場などなかった。魔物たちはしばらく空へと昇ったのち、何か見えない壁に阻まれたように停止する。悲鳴をあげながら結界に弾かれ、地面へと落下していった。

 ニルタリアスが歯ぎしりをする音が聞こえた。


「貴方は逃がさない」


 静かな声が響く。

 ——そこに、イシアルが立っていた。

 長い髪を風に揺らし、金色の瞳に鋭い光を宿しながら、魔力を纏っていた。


「バカな……小娘が、こんな結界を……!」


 ニルタリアスは憤怒と驚愕が入り混じった表情でイシアルを睨みつける。


「無理もない」


 アウラが静かに言った。


「こんな規模の結界を作れる魔法使いが、自ら力を抑え込んでいたんだからな。普通は気づけない。正直、俺もここまでとは思っていなかったよ」

「……!!」


 ニルタリアスが目を見開いた。

 彼は戦いの中で、分身を作り、眷属を増やし、敵を翻弄することに長けていた。

 しかし——それが見破られたのは、初めてだった。


「くそがあ!!」


 咆哮とともに、ニルタリアスの体から無数の腕が溢れ出した。——それは、まるで闇が形を成したような異形の腕だった。同時に、魔物たちが次々と影から這い出してくる。


「分身で生き残ろうとしても無駄!」


 イシアルが鋭く言い放つ。

 逃げようとする小さな魔物たちが、密かに遠くへと飛び立つ。しかし、その頭上にはすでに光の槍が無数に生成されていた。


「逃がさない……!」


 ズドンッッ!!

 光の槍が降り注ぎ、魔物たちは次々に貫かれていった。

 その疑問に答えたのは、アウラではなく——。


「貴方に、ホメロンの両親は殺された……貴方は、逃がさない」


 静かに、しかし確かな意志を持った声が響く。そこに立っていたのは、イシアルだった。

 その言葉と同時に、魔族たちの咆哮が夜空を震わせる。無数の腕が地面から生え、まるで奈落の底から這い上がる怨嗟のごとく、彼らを包囲する。しかし——。

 アウラは一歩も引かない。

 彼の手が軽く振るわれると同時に、純白の閃光が奔り、魔族たちを根こそぎ焼き尽くした。悲鳴すらも許されぬほど、一瞬のうちにすべてが消え去る。

 ロザリアもまた、舞うように駆ける。刃の軌跡は流星のように閃き、近づく者たちを容赦なく切り裂いていった。


「二回目は効かないわよ!」


 鋭く放たれた言葉と共に、地面から伸びる魔法陣の腕を一閃する。あの、ロザリアを拘束した腕は、鮮やかに斬り落とされたそれらは、触れることなく砂と化した。

 イシアルを守るようにアウラとロザリアが背中を合わせる。その存在は、彼女にとってかつて失った温もりを思い出させるものだった。


「イシアル、俺たちがいる。大丈夫だ」

「任せたわよ!」


 イシアルの胸にあふれる安心感と充実感。信じあい、頼り合う人とのつながり——それはイシアルが何年間も忘れていたもの。

 この数十年分の想いが、一気に彼女の内側で爆ぜた。

 止めていた力が溢れ出す。抑えつけていた感情が奔流となり、魔力に変わる。

 大気が揺らぎ、イシアルを中心に巨大な魔法陣が幾重にも重なり浮かび上がる。紋様が回転し、放たれる魔力が夜の闇を焼くように輝く。

 イシアルの瞳が鋭く光った。


「ここで終わらせる——もう、私は止まったりしない!」


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