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第19話 新たな歩み

 ユシカ島。

 静かな夜の霧が島を覆い、風に乗って潮の香りが漂う。海鳴りの音が遠くから響く中、一軒の古びた家の前に立つアウラは、魔法障壁越しに優しく声をかけた。

 しかし、家の中で身を縮めるイシアルからの返事はない。

 ただ、冷え切った部屋の空気とともに、かすかな息遣いだけが漏れてくる。

 イシアルは、袖の端を強く握りしめていた。まるで、心の内に渦巻く感情を手の中に閉じ込めるように——。


「イシアル。ホメロンから話を聞いたよ」


 その名を聞いた瞬間、イシアルの肩がかすかに震えた。

 驚きと戸惑いが入り混じるまなざしで、彼女は扉の向こうを見つめる。


「この島はいずれ沈む。それまでここに残って、魔物が町に近づかないようにしているって……。でも、それを理由にして、自分の心に嘘をつくことはないんだ」


 アウラの声は静かだった。しかし、その言葉はまるで鋭い刃のように、イシアルの胸を切り裂いた。


「イシアルを大切に思っている人たちがいる。生きてほしいと願っている人がいるんだ」

「嘘なんかついてない!終わらせたいの!もう私に関わらないで!」


 イシアルの叫びは、張り詰めた糸が切れたかのように震えていた。

 怒りか、悲しみか、恐怖か……それすらも判然としないまま、彼女は震える手でナイフを掴み、ゆっくりと腕に押し当てる。

 ——止まっちゃいけないの!嫌われたっていい。強引だっていい。あの部屋から出さないと何も変わらないでしょ!

 ロザリアの叫びが、アウラの頭の中で鮮明に蘇る。

 彼はイシアルの姿にかつての自分を重ね、ロザリアのやり方を否定した。でも、それは間違いだった。否定すべきはロザリアではない——。

 自分自身だった。

 アウラは両手を静かに掲げ、魔力を溜め込む。

 流れるような動作に、イシアルの息が詰まる。


「……なにを、するの」


 アウラは答えず、ただ静かに呟いた。


「ヘブン・レーベス」


 次の瞬間——。

 閃光が世界を貫いた。白銀の光が爆発し、家を中心にすべてを包み込む。強烈な魔力の奔流が大地を震わせ、海の波を揺るがせる。まるで、夜闇を裂く聖なる刃のように——すべての障壁を破壊し、過去の枷を砕くかのように。

 その中心には、アウラの姿があった。彼の衣が風に舞い、眩い光の中でもそのシルエットは揺るがない。衝撃の直中に立ちながらも、一切の傷を負わないその姿は、まるで神話の中の不死者のようだった。

 光が消えた時、そこには——。

 地面に倒れ込みながら、魔法障壁で辛うじて身を守ったイシアルの姿があった。だが、彼女を閉じ込めていたものは、もうどこにもない。家の跡形もなくなった瓦礫の中、吹き抜ける風だけが、全てが終わったことを告げていた。

 イシアルは茫然と、崩れた家の瓦礫を見つめる。


「……なに、これ……何てことするの……」


 絞り出した声は震えていた。

 しかし、アウラは静かに微笑んだ。


「俺の攻撃から身を守った。それが、君の答えだよ」


 イシアルの瞳が揺れる。


「もう君を阻む壁はどこにもない。進め、歩き出すんだ。……あの日から、ずっと待っていたんだろ。彼女も、魂の泉で——ずっと待っている」


 小さな光の塊がイシアルの周りを飛び回る。

 声は聞こえないが意志のあるその光の玉にイシアルは以前はよく話しかけていた。アウラがきて魔法障壁を展開するようになってからずっと会えずにいた。

 いつもの感覚でイシアルはその光の名を呼ぶ。


「ちいさいの」


 まるで応えるように、光の塊が瞬いた。そして、何かを示すようにくるりと向きを変え、森の奥へと飛んでいく。

 ――ついてこい、と言わんばかりに。

 イシアルは迷うことなく、その光を追いかけた。


 静寂に包まれた森の中、木々の間を抜け、淡い月明かりが差し込む泉のほとりへと辿り着く。

 泉の前に辿り着いたイシアルの目の前で、小さな光が揺らめく。

 水面に映る星々の輝きと呼応するように、その光はまばゆい輝きを放った。そして、次の瞬間——。

 光が収束し、人の姿へと変わる。


「久しぶりだな、イシアル」


 柔らかく、それでいて懐かしい声だった。

 イシアルはその声を聞いた瞬間、全身から力が抜け、熱いものが瞳にこみ上げる。

 喉がひりつくように震え、込み上げる嗚咽を抑えられなかった。


「ホメロンだったのね、ちいさいの……」


溢れる感情が抑えきれず、頬を伝う涙が光の下できらめく。


 「小さい言うな!」


 ホメロンが思わず頬を膨らませる。

 その反応があまりにも懐かしくて、イシアルは涙を流しながら、微笑んでしまった。


「……ごめん。……本当にごめん……」


 彼女は震える声で、何度も何度も謝る。

 胸の奥で絡み合った苦しみが、涙とともに溢れ出していく。

 ホメロンはそんなイシアルを見つめ、やさしく微笑んだ。


「泣いて、笑って、また泣いて……ほんとに忙しいのだ、お前は」


 その言葉が、どれほどの安堵をもたらしたか——。

 ホメロンの瞳には、どこまでも優しい光が宿っていた。


「全部聞いていたし、見ていたぞ、イシアル」


 イシアルは、涙を流しながらホメロンの言葉に耳を傾ける。


「今まで、本当に……よく頑張ったな」


 頑張ったな。その一言が、ずっと重くのしかかっていた心の枷を解いた。

 イシアルは、もう堪えなかった。堪える理由なんて、もうどこにもなかった。幼い頃、ホメロンと遊んでいたあの頃のように——ただ声を荒げて、泣き叫んだ。

 涙が泉に落ちるたび、水面が静かに揺れる。

 ホメロンはふっと微笑み、そっと手を伸ばす。

 本当ならば、触れることはできない。

 だが、それでも、彼女の頭を撫でるように手を動かした。


「昔は、よく我がイシアルにこうされておったが……今は立場逆転なのだ」


 どこか照れくさそうに言うホメロンに、イシアルは顔をくしゃくしゃにして笑った。

 涙と笑顔が混ざる、不恰好な表情のままで。

 ——それでも、その涙は、これまでの苦しみとは違うものだった。

 ホメロンは、穏やかに続ける。


「あの時の返事が、ずっと心残りだった」


 声は柔らかく、それでもどこか寂しげだった。


「それが、我がこの地に留まった理由だと思うのだ……イシアル」

「……うん」


 涙ぐみながらも、イシアルは精一杯に頷く。


「我は、家族として……親友として、お前が好きだ」


 ホメロンの声は、静かで、優しかった。


「だから、その思いに応えることはできん」


 イシアルは、息を詰まらせた。

 けれど、ホメロンは続ける。


「だけどな……お前が、思いを口にしてくれたことは、すっごく嬉しかったのだ」


 その言葉に、イシアルは顔を上げる。

 涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、それでも、ホメロンの言葉をまっすぐに受け止めた。

 彼女の瞳には、確かに愛情が宿っていた。

 それが、どんな形であろうとも——。

 それは間違いなく、彼女の気持ちを否定するものではなかった。

 イシアルは、何かを言おうと口を開く。

 でも、声にならない。

 ただ涙を流し、震える唇を噛みしめる。

 ホメロンは、そんな彼女を見て、小さく笑った。

 そして——。

 ふっと、体が薄れ始める。

 イシアルは、それを見た瞬間、理解した。

 ホメロンの魂をこの地に縛り付けていた未練は、もう消えてしまったのだと。

 彼女は、もう成すべきことを成し、安らかに還ろうとしているのだと。

 でも、それは別れではない。

 ずっと、心の中にいてくれるのだから。

 ホメロンは、最後にもう一度、イシアルに向き直った。


「なあ、イシアル」


 ホメロンの声が、静かに泉の上に響く。

 その身体は徐々に光へと還っていき、輪郭が儚く揺らいでいた。


「とても、つらいだろうが……」


 ホメロンの微笑みは、どこまでも優しかった。


「我の分まで、生きてくれ。幸せになって、そして……我を安心させてくれ」


 その言葉は、まるで春の陽だまりのようだった。

 イシアルは、涙を拭うこともせず、ただ必死に声を絞り出す。


「……うん。わかったよ。私……」


 嗚咽混じりの声が、震えながらも泉に落ちる。


「頑張るね……安心してね。約束する。……絶対……幸せに、なるから……信じて」


 彼女の小さな言葉のひとつひとつに、長い間閉ざされていた心が詰まっていた。


「なら、我は安心なのだ。ああ、信じているのだ」


 ホメロンの輪郭が、ゆっくりと霧のように薄れていく。


「イシアルはいつだって我の前に立って、かばってくれて、笑わせてくれて……一緒に泣いてくれたであろう」


 彼女の体が、光の粒となって空へ舞い始める。


「ホメロン……!」


 イシアルは思わず手を伸ばした。

 その瞬間——。

 ホメロンの光が疾風のように駆け抜け、まるで最後の別れを惜しむかのように、イシアルの胸へと飛び込んだ。

 ——温かかった。

 触れることのないはずの魂の残滓が、確かにそこにあると感じられた。

 彼女は小さな腕を回し、震える声で囁いた。


「愛してくれて……ありがとう、なのだ」


 イシアルは、そっとホメロンの頭を撫でる。

 どれほど触れたかっただろう。どれほど、あの時、抱きしめたかっただろう。

 けれど、今なら遅くはない。


「……うん」


 その答えとともに、ホメロンはふわりと微笑んだ。

 そして、光の粒となり、静かに消えていった。

 まるで、夜明けの星が空へと溶けるように——。

 イシアルは涙を拭い、静かに立ち上がる。

 魂の泉を背にする。

 もう振り返ることはない。

 止まっていた彼女の人生が、ようやく動き出した。

 一歩、また一歩——。

 その歩みは、確かに未来へと続いている。

 ——だが、それを阻むかのように、森の闇が蠢いた。

 無数のアンデッドが生まれる。

 どこからともなく湧き上がる死者の群れ。

 イシアルはただ、まっすぐと前を見据えた。

 魔法を警戒し、距離を取る魔物たち。

 だが、イシアルは魔力を練るそぶりすら見せなかった。

 まるで、自らその群れに飛び込むように——。

 その異様な気配に、不気味な笑い声が響く。

 何も知らぬアンデッドたちは、喜悦に震えながらイシアルに殺到する。

 そして——次の瞬間。

 轟音が夜を裂いた。白銀の光線が迸り、アンデッドの群れを焼き尽くす。眩い閃光の後には、焦げた大地と、ぽっかりと開いた通路だけが残っていた。

 その中央に、イシアルが立っている。

 全ての敵を消し去った後に、彼女の身体に、無数の魔法陣が浮かび上がる。

 それは鎖のように絡みつけた、自分の力を隠す為に縛り続けていた抑制の魔法だった。そのすべてが、回転しながら解除されていく。封じられていた力が、次々と解放されていく。

 まるで、囚われの身だった鳥が、ようやく大空へ羽ばたくように。

「……もう、止まったりしない」

 もう、この歩みが止まることはない。



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