第16話 刻まれた傷
「は? 何それ、どこにいるのよ」
「今のところ魔力越しに覗いてるだけだ。向こうから仕掛けてこない限り問題はない……たぶん」
「たぶんって何よ!」
ロザリアが不満そうに叫ぶのを横目に、アウラは再び家の前へと戻る。
「やっぱり……マタダムの目録は、この家の中にある」
呟いたアウラの言葉に、ユラとロザリアがそっと息を呑んだ。
ユラによると、部屋には確かに例の少女がいるようだった。
彼女が起きていることを確認し、コンタクトを取るために部屋の扉をノックする。しかし、返ってくるのは静寂だけだった。
「いることはわかってる。少しだけでも話さないか?」
呼びかけるも、やはり無視される。少し間を置いて、扉越しに静かな声が響いた。
「帰って」
冷たく拒絶される。予想通りだった。
マタダムの目録を取りに来ただけだと伝えても、「私の本だから」と頑なに渡してはくれない。自分が書いた本であり、本来の持ち主であることを説明しても、鼻で笑われた。
「頭のおかしい奴ね」
その言葉にアウラは内心で苦笑する。確かに、普通の人間なら信じない話だ。ならば、それを信じるユラやロザリアはどうなのかと思いかけたが、すぐに思考を打ち消した。明らかにおかしいのは、自分自身の存在なのだから。
次の日。再び彼女の元を訪れると、家全体が強力な魔法障壁で覆われていた。魔力の波動から少女の魔法の洗練度がうかがえた。
しかし、魔法障壁はあくまで魔法に対する防御であり、物理攻撃の耐性はそこまで高くない。
そう思っているとロザリアが、容赦なく家の扉を蹴り飛ばした。
「いくらなんでも……」
呆れるアウラを尻目に、ロザリアは肩をすくめる。
「最後の部屋の扉は壊してないでしょ?ならいいじゃない」
少女がいるであろう部屋の扉だけは手をつけずに残していた。それだけでもロザリアなりの気遣いなのかもしれない。
さらに数日が過ぎた。いつものように部屋の扉をノックする。
しかし、返事はなかった。
「……ユラ、確認してくれ」
「うん、いるよ。ちゃんと起きてる」
ユラの言葉に頷きながら、アウラはふと異変に気付く。魔法障壁が消えている。
「入ってもいいか?」
扉越しにそう問いかける。沈黙。だが、拒絶の言葉もない。アウラは了承と受け取り、静かに扉を開いた。
中に広がっていたのは、荒れた部屋だった。
床には乱雑に積み上げられた魔道書が散らばり、机の上には半ば開かれたままの書物がいくつも並んでいた。薄暗い部屋の隅で、淡い栗色の髪の少女が布団の上に座っていた。肩に触れない程度に切り揃えられた髪が、静かな風に揺れる。
少女は何も言わず、ただ膝を抱え込むようにして俯いていた。
ふと、机の上に置かれた一冊の本に目を向ける。
それは、間違いなくマタダムの目録だった。
「マタダムの目録、見てもいいか」
アウラが静かに問いかける。
薄暗い部屋の中、わずかな蝋燭の灯りが二人の影をゆらめかせていた。イシアルは黙ったままアウラを見つめた。長い沈黙の後、彼女は小さく頷く。
「貴方の物なんでしょ」
淡々とした口調。その声にはどこか探るような響きがあった。
アウラは言われるがままに本を手に取る。指が表紙に触れた瞬間、古びた書物から微かな魔力が漏れ、指先に馴染むような感覚が走った。記憶が脳裏に流れ込む。何百年も前の、まだ世界を見捨てていなかった頃の記憶。
やがて、静かに本を閉じ、元の場所へと戻した。
イシアルの表情がわずかに揺れる。驚きと、僅かな確信。
「……ほんとだったのね」
彼女の言葉にアウラはわずかに眉を上げる。
「俺の魔力を感じたのか」
イシアルは頷かず、否定もせず、ただじっとアウラを見据えた。
「今はアウラと名乗ってる」
「知ってる。そんなあなたがなぜ、ここまで私に関わろうとしてくるの」
探るような視線。イシアルの瞳の奥には明確な恐れがあった。何かを期待しながらも、裏切られることを恐れ、それを振り払おうとする意思。信じまいとする心。
アウラはその眼差しを知っていた。いや、かつての自分自身も、そんな目をしていたのだ。忘れたくても、忘れられない。何百年生きても、孤独の痛みは鮮明に刻まれ続ける。
「似ていたからだよ。昔の自分に……いや、今もかな」
アウラの言葉にイシアルは小さく息を呑む。何かを言いかけたが、その先を飲み込んだ。アウラの瞳の奥に映るものを見て、口を閉ざす。無力さ。どこまでも深い、終わることのない諦め。
「俺は昔、全てに絶望して引きこもった。そして、次第に孤独になり、外の世界が怖くなった。世界に見捨てられたような感覚になった。そして最後は……自殺した」
蝋燭の炎がかすかに揺れる。
「俺を育ててくれた人はいなくなって、一人では生きられなかった」
「……なら、なんで生きてるの」
イシアルの問いに、アウラは薄く笑った。
「この世界で生き返った俺は、自殺を繰り返し……それで死ねなくなった」
イシアルの指がわずかに震える。
「……そんなこと、ありえるの?」
「お前ならわかるだろう。こんなにも卓越した魔法使いなら」
彼女は何も答えない。だが、疑念はすぐに確信へと変わった。
アウラの固有スキル《魔法無効》。それが意味するものは、ただ一つ。
全ての魔法を無効化する。癒しの魔法も、攻撃魔法も、あらゆる干渉を拒絶する。すなわち、どんな力をもってしても、彼を殺すことはできない。
「……辛くないの」
イシアルは囁くように言った。
「辛いよ」
アウラは、まるで当たり前のことを言うように答えた。
「だから死に方を探してる。そうして旅をしているうちに、仲間ができた」
イシアルは視線を落とす。そして、そっと唇を噛みしめた。
「……お前はどうしてここにいるんだ」
彼女の肩が微かに揺れた。
しばらくの沈黙の後、僅かにむくれた表情で、イシアルは言う。
「お前って言わないで……」
アウラが黙って見つめていると、彼女は小さくため息をつき、ふっと視線を逸らした。
「私はイシアル。カルクおじさんからは何も聞いてないんだね」
「……ああ」
「私は昔、マタダムの目録が気になってね。村のおきてを破ってその本を読もうとしたの。けど、魔法で封印されてて読めなかった」
あれ?俺、封印なんかしてたっけ?そんな疑問を抵抜するようにイシアルは話を続けた。
「必死になって魔法を勉強してね。封印を破って本を読んだの。勇者の冒険譚とこの地の魔神について書かれてたわ。けど封印を解いて、マタダムの目録を読んだことがバレてね、島の人に迫害された。禁忌を破った私のせいだからしかたない。その罰か、誰かに触れるとたまに相手の記憶が見えるの。そのせいで、相手の知られたくない過去も、私が知りたくなかった過去も、全部知ってしまうようになったの」
「なら俺には関係ない。固有スキル魔法無効があるから」
アウラはためらいなく手を差し出した。
イシアルの肩がわずかに震える。恐怖の色が瞳に宿り、手を伸ばそうとしては指をすぼめる。
拒絶したい。けれど、それ以上に確かめたい。彼の手に触れれば何も見えないのか。それとも、自分がこの力から逃れられないだけなのか。
恐る恐る、細い指がアウラの手へと向かう。指先が触れる寸前、身体が本能的にすくむ。何度も見た、他人の記憶。痛みと苦しみ、憎しみと絶望。もしまた、見てしまったら——。
「……イシアル」
静かな声が彼女を現実へと引き戻した。
アウラの瞳には、ただまっすぐな意思が宿っているだけだった。そこに余計な同情も、詮索もない。
その瞳を見た瞬間、イシアルの中の恐怖が少しだけ薄れる。
彼は——自分の記憶を見られることを恐れていない。そして、自分自身もまた、この恐怖から逃げ続けるわけにはいかない。
意を決し、ゆっくりとアウラの手に触れる。
何も見えなかった。
安堵に息をついたのも束の間。イシアルは袖がわずかに引かれたことに気づき、息を呑む。
——見られた。
アウラの視線が、彼女の腕に刻まれた無数の切り傷跡を捉える。
瞬間、イシアルの身体がこわばる。
彼女は、まるで灼熱に触れたかのように、勢いよく腕を引っ込めた。そして袖を引き下ろし、切り傷を隠す。
顔は青ざめ、唇が震えている。
「出てって」
か細い声だった。
「……イシアル」
アウラが名を呼ぶ。けれど、その声が届く前に、イシアルは拒絶するように叫んだ。
「出てって!」
それ以上、何も言うことはできなかった。
「すまない」
小さく謝罪を述べ、アウラは部屋を出た。
扉が閉まると同時に、魔法障壁が展開される。しかも、一重ではない。二重、三重と重ねがけされ、瞬く間に五重もの結界が張られる。
外に出ると、ロザリアが黙々と鍛錬を続けていた。
その姿を見て、アウラはわずかに目を細める。
ロザリアは知っているはずだ。鍛錬を積むほどに、彼女の身体は魔族へと近づいていく。それでも彼女は剣を振るうことをやめない。
自らの進む道を迷わない。その姿が、どこか痛々しくも眩しく映る。
「アウラ、付き合いなさい!」
ロザリアが木剣を構えながら声をかける。
アウラは深く息を吐き、剣を握った。
いい気分転換になると思ったからだ。
イシアルはアウラに右腕の傷を見られた。
マタダムの目録を書いたアウラなら、その意味を知っているはずだった。
それに、アウラに一度だけ触れられたからといって、この制御できない固有スキルが人間関係を壊さない保証はない。
イシアルの烙印は、今まで何度も人間関係を壊してきた。今回もそれと同じだと自分に言い聞かせる。アウラと仲良くなれたかもしれないという希望を捨てるように。
ここで終わってよかったのかもしれない。もしも、もっと仲良くなってから相手を苦しめる結果になっていたら。もしも、自分がもっと苦しくなっていたら。
そう考えると、心がずぶずぶと沈んでいくような気がした。
制御できない力に、その力の代償に、イシアルの心は疲弊していた。
アウラの言葉は事実だったのだろう。アウラはイシアルの知らない世界で自殺したという。
イシアルも、死にたいと思ったことは何度もあった。けれど、死ねなかった。
その理由に目をつぶり続けている。
わかっている。だけど、意識したくない。考えれば考えるほど、苦しみが膨れ上がり、何かをしなければ耐えられなくなる。
目を伏せ、机に転がった本を乱暴に押しのける。
外では、前向きに生きるアウラとその仲間たちの旅が見える。
楽しげな声が微かに聞こえてきた。
無意識のうちに、それに憧れを抱いている自分がいた。
だけど、手を伸ばすことはできない。
「変わりたい……変わりたい……変わりたいよ」
震える声が、部屋の静寂に沈んでいく。
倒れた本を見つめながら、イシアルはゆっくりと近くにあるナイフを手に取った。
その刃を、左腕に押し当てる。
無数につけられた切り傷の跡が、イシアルの心の痛みを表していた。
「なんで……何で変われないの……何で制御できないの……何でそんなにやさしくするの」
嗚咽を漏らしながら、ナイフを滑らせる。
薄く赤い線が走り、血が滲み、肌を伝い落ちる。
その感触が、ほんの少しだけイシアルの心を落ち着かせた。




