第11話 魔王ヘルト
山を下り、開けた草原に出る。朝の光が黄金色の波のように広がるなだらかな道を、王都デネボラに向かい進んでいく。英雄試練が近いせいか、旅人や商人、村人たちが同じ方向へと歩いていた。
だが、ふと背後に違和感を覚える。
耳鳴りのような、何かが叫ぶ声。
「ぇ――ねぇ――アウラぁ」
確かに、自分を呼ぶ声がした。
アウラは反射的に振り返る。そして、目を凝らした瞬間――視界の端に、何かが猛烈な速度でこちらへ向かってくるのを捉えた。
風を切る音が響く。
目を凝らす。
そして、アウラの瞳が大きく揺れた。
――まさか。
その姿を見た瞬間、驚きと喜びが同時に胸を突き上げた。喉の奥が熱くなり、感情が溢れる。
涙が滲む。
堪えきれず、アウラは駆け出していた。
周囲の旅人たちが驚いて道を譲る。そんなことはどうでもよかった。
アウラの口から自然と名前が飛び出す。
「ユラ!!!」
「アウラ!!!!」
その瞬間、ユラが猛スピードでアウラに突っ込んできた。
物理無効の効果を受けない彼女の突進で、大きく後ろ体をのけぞらせるアウラ。二人は抱き付きながら道の真ん中で大きく三回転し、止まった。
「なんか!起きたら、この通路にいて!!!」
興奮しながら泣き笑いするユラ。彼女の笑顔は、まるで太陽のように輝いていた。
「うん!うん!!」
言葉にならない感情が胸の奥を満たす。息が詰まりそうなほどの幸福感。
ユラは続ける。
「理由はわかんないけど!貴方の旅についていけるみたい!やったーーー!!!」
「……嬉しいよ!」
「わたしも!!!!」
二人は再会の奇跡に、ただただ笑い合った。
――誰にも邪魔されることのない、二人だけの世界の中で。
しかし、当然ながら周囲の人々にはユラの姿は見えていない。彼女の声も聞こえていない。
そんな状況の中で――一人、名前を叫び、道のど真ん中で転がり回り、涙を流しながら歓喜の声を上げるアウラの姿だけが、そこにあった。
「ねーなにあれ」「見ちゃいけません」「oh……」
次第にアウラの周囲には誰も寄り付かなくなり、奇妙な間合いが生まれていた。だが――そんなことは、二人にとってはどうでもよかった。
この瞬間、この世界には、二人だけしかいなかった。
ユラにとっては初めての外の世界。
鮮やかな朝日が空を染め、草原の向こうに王都デネボラへと続く道が伸びている。生まれて初めて目にする景色に、ユラは目を輝かせながら歩いていた。
「すごい……! なんて広いの〜!」
両腕を広げ、空を仰ぐユラ。彼女の足は地に着いていないが、まるで風に乗るようにふわふわと跳ねるその姿は、無邪気な子供のようにも見えた。
「なぁ、そんなにはしゃぐなよ。別に普通の草原だろ」
アウラは淡々と言いながらも、ユラのはしゃぐ様子を見て微かに口元を緩める。こんな風に、誰かと何気ない会話をしながら旅をするのは……悪くない。
そんな二人のやりとりを遮るように、突然、遠くから聞き覚えのある声が響いた。
「アウラさん!? アウラさんじゃないですか!!」
柔らかく、どこか陽気な声。アウラは、瞳を細めて振り返る。
道の端、荷馬車の荷台にもたれかかる男が、こちらを見ていた。日に焼けた肌に、旅慣れた軽装の商人の服。黒髪を後ろで緩く結び、爽やかな笑みを浮かべている。
「レナード……? どうしてまだここに?」
アウラの問いに、男――商人レナードは片手をひらひらと振って応じる。
「久しぶりです! アウラさんと別れた後、道行く人に話を聞きながら、この地域の特産品なんかを調べてたんですよ。それで……気づいたら思ったよりも遅くなっちゃいまして」
恥ずかしそうに頭をかくレナード。彼の気さくな態度に、ユラが興味津々といった様子でアウラを見上げた。
「ねえ、誰?」
「商人のレナード。リコット村に行く前まで少しの間、王都デネボラまでの護衛ってことで一緒にいた」
「へぇ~、商人さん!」
ユラは興味深そうにレナードを見つめるが、当然ながら相手には彼女の姿は見えていない。無邪気な声で話しかけるユラと、それに何も反応できないレナードの間に奇妙な温度差が生まれる。
レナードはそんなアウラを見つめながら、荷馬車から降り、軽く肩を叩いた。
「アウラさんは相変わらずですね。一年以上も付き合っていただいたのに、『少しの間』なんて……」
冗談混じりに笑うレナードだったが、その声色が少しだけ真剣になった。
「そういえば、アウラさん……確か、リコット村に向かうって言ってましたよね?」
「ああ」
「……無事だったんですね」
レナードの声音が少しだけ落ちる。アウラは目を伏せ、短く答えた。
「……ああ」
それだけで、レナードは察したのか、それ以上は詮索しなかった。
「そうですか」
短くそう呟くと、彼は気を取り直すように明るく笑う。
「でも、こうしてまた出会えたってことは、きっと何かのご縁ですよ。王都デネボラまで一緒に行きませんか?」
アウラは少し考えたが、その隣でユラが「乗ろう乗ろう!」とはしゃいでいるのが見えた。
「……ああ、頼むよ」
「はい!」
レナードは嬉しそうに笑い、馬車の後ろを開ける。草原の向こう、王都デネボラへと続く道は、黄金色の陽光に包まれていた。
こうして、アウラとユラは再びレナードの荷馬車に乗り込み、新たな旅へと進むことになった。
魔王城。
大座に肘をつき、片手で頬を支えながら座る男がいた。
その男はズボンだけを身にまとい、鍛え上げられた上半身をさらけ出している。まるで無防備に見えるが、ただの飾りである王座すら、その男の存在を際立たせる舞台に過ぎなかった。
目の前では、一人の魔族が厳かに膝をついている。
黒くねじれた角を持ち、赤黒い肌に身なりを整えた衣服を纏うその魔族は、慎重な声で報告を始めた。
「ヘルト様、報告がございます」
だが、呼びかけられた男――ヘルトは、空中に浮かぶ古びた書物『マタダムの目録』をつまらなそうにめくっていた。
指先が一枚の紙をなぞるたび、古の記録が静かに流れていく。
彼の銀髪は滑らかに光を反射し、まるで生きた銀糸のように揺れている。
前に垂れた髪を耳にかけながら、ようやく書物から目を離し、低く問いかけた。
「なんだ、オノクリア」
「破壊神ダリアムが殺されました」
その言葉が響いた瞬間、魔王城の空気が変わった。
ヘルトはゆっくりと立ち上がる。
長い銀髪が王座から滑り落ち、引き締まった太腿の上で静かに揺れた。光を受けた艶やかな髪が、彫刻のような上半身を際立たせる。
「あの破壊神が……殺されたと」
感情を抑えきれず、ヘルトの全身から魔力が漏れ出す。王座の周囲の空間が軋み、まるで重力が歪んだかのように、空気そのものが震えている。
「はるか遠くの西、ヘスティ様が支配されている王都デネボラ近辺で、咆哮が聞こえたとの報告がありました」
「王都デネボラか……随分と懐かしい名だ」
ヘルトはふっと目を細める。
「騎士王レペンスに殺されたか」
「恐らくは」
オノクリアの言葉に、ヘルトの唇がわずかに歪んだ。鋭い牙が覗き、残忍な笑みが形作られる。
右手を前にかざす。
刹那、空間がわずかにねじれ、どす黒い邪気を孕んだ剣が飛ぶようにヘルトの手へと収まった。しかし、その剣の鞘を引いた瞬間、露わになった刃は闇とは対照的に、清冽な白銀の輝きを放っていた。
ヘルトは一瞬、その刃を眺める。
だが、次の瞬間にはそれを無造作に鞘へと収めた。
「城は任せた。旧友へ挨拶しに行ってくる」
その言葉と同時に、ヘルトの足元の空間が歪み始める。
「戦争の準備はそのまま続けておけ。第四魔族もここに連れてこい」
最後にオノクリアの横を通り過ぎ、命じるように言い捨てる。
次の瞬間、ヘルトの姿が消えた。まるで最初からそこに存在しなかったかのように。
静寂が支配する王座の間。音もなく、強大な魔力が一つ、城から消え去った。
残されたオノクリアは、その場に膝をついたまま、ヘルトが消えた空間を見つめ、静かに息を吐いた。




