第10話 死ねない二人
「その……私には触れることすらできないから」
少女の指す方向を見て、アウラはようやく魔族の存在を思い出した。
視線を向けた瞬間、魔族はわずかに身を引いた。膝を折り、荒い息を吐きながら、なおも鋭い眼光を向けている。だが、その身体はもう限界だった。力を出し切った魔族に、もはや戦う余力はない。
アウラは冷静に魔族を見据えた。死を前にしてなお睨み返す眼。その目は恐怖ではなく、悔しさと絶望に満ちていた。
「……終わりだ」
その言葉とともに、アウラの瞳が青白く淡く光を宿す。
魔族の身体を貫くように、賢者特有の癒しの力――《賢者の眼》 が発動する。
魔族の残された魔力、弱点、深い傷が透けるように見える。瀕死の状態だが、まだ消えゆくには抗おうとする意志があった。
「……賢者だと?」
魔族は驚愕に目を見開く。
――賢者。癒しの力を持ち、後衛で仲間を支える存在。戦場では傷ついた者の救済者であり、決して前線に立つものではない。
だが、アウラは違う。
《物理無効》という固有スキルが、その脆弱さを完全に覆い隠していた。攻撃を受けることもなく、戦い続けることができる。まるで、永遠に戦場を彷徨う亡霊のように。
ゆっくりと歩み寄るアウラに、魔族の体が小さく震えた。
それは怒りではなかった。
――恐怖だった。
魔族にとって人間は狩るべき獲物であり、恐れるものではない。だが、この男は違う。この男の前では、自分こそが獲物なのだと本能が訴えていた。
魔族は初めて、人間に対して膝を折った。
目の前に立ったアウラは、静かに右手を差し出した。
「お前は、あまりにも多くの人間を殺しすぎた」
その言葉と同時に、アウラの手のひらが白く輝き始める。
「その力……知っている……お前、あの時の……」
魔族の目に宿るのは、戦士の誇りではなかった。
それは、遠い昔に見た 絶望 そのもの。
「なぜ……生きている……何年前だと思っている……この……化け物が……」
その言葉に、アウラの目が僅かに伏せられる。
化け物。
――確かにその通りかもしれない。
何度死のうとしても死ねず、ただ生き続けるだけの存在。人間のようでいて、人間ではない。魔族と同じほど長く生き、戦い、殺し続けてきた。
だが、それがどうした。
感情のない瞳のまま、アウラは静かに呟く。
「ライトニング……バースト」
その瞬間、白い光が爆ぜた。
魔族の叫びが、夜の山中に響き渡る。
山道を下る二人
静寂が戻った夜の山道。
魔族の残骸はそこにある。だが、アウラは振り返らなかった。
隣を歩く少女が、そっと問いかける。
「いいの? あのままで」
アウラは、少しだけ瞳を閉じ、低く呟いた。
「脅威が去ったことは伝えられる。それに……彼もまた、この世界を必死に生きていた」
少女は少しの間、言葉を探すように口を開きかけたが、何も言わず、ただ静かに頷いた。
風が吹き抜ける。
アウラは前を向き、再び歩き始めた。
幽霊の少女は、何年もの間、孤独にあの森をさまよっていた。
彼女は、森を囲む見えない鎖に縛られたように、その範囲から一歩も外へ出ることができなかった。どれほどの時を、独りきりで過ごしたのか。彼女自身すら覚えていない。
地縛霊としてあまりにも長い時間を過ごし、過去の記憶はすり減るように消え去り、自分の名前すら忘れてしまったという。
だから、アウラは彼女に「ユラ」という名をつけた。
それはまるで、彼女がずっと彷徨い続ける「揺らぎ」のような存在だったから。
ユラは、アウラのように自分の姿が見える人間に出会ったのは初めてだと言った。誰にも見えず、声も届かない。触れることも叶わない。長い孤独の中で、ただ風のように世界を通り過ぎるだけだった。
それでも、アウラだけは違った。
ユラの手は、アウラの身体に触れた。
他のすべてをすり抜けるはずの彼女の手が、確かにアウラの服の布を掴んだ。
彼女は不思議そうに指先を動かしながら、何度も確かめるようにアウラの腕や肩に触れた。そして、アウラもまた、ユラの輪郭をなぞるように、その存在を感じ取った。
ユラの特性を無効化し、触れることができるのは、アウラの固有スキル**《物理無効》**の影響かもしれない。だが、そうだとしても、説明がつかないことがある。
アウラの手に伝わる、柔らかい感触。服の繊維、髪の揺れ、手のひらに感じる微かな温もり。
なぜ「感覚を失ったはずのアウラ」が、ユラの存在を「感じることができる」のか。
それは、ただのスキルの効果ではない気がした。
アウラもまた、ユラに自分のことを話した。死ねないことを。死にたいことを。二人は願いまでも一緒だった。アウラもユラも、死を望んでいた。
しかし、そんな二人が出会ったことで、孤独はほんの少しだけ、薄れた。
それからというもの、二人は共に過ごすようになった。
といっても、ユラは地縛霊として森に縛られている。森の外には出られない。だから、その範囲内でアウラは彼女と共に過ごした。
ユラが気になったことを、アウラが試す。
例えば――森の奥に開いた大穴。ユラが「どうなるの?」と興味を示せば、アウラは無言でそのまま頭から飛び込んだ。
ごすっ――!
頭から地面に突き刺さり、上半身が埋まる。
ユラは、しばらく沈黙した後――。
「あっはははははは!!!!」
涙が出るほど笑い転げた。
アウラにとっては、ただの確認作業だった。死なないことなど、とっくの昔に理解している。だから、こんな実験に何の意味もない。
だが――ユラの笑う声が、森に響き渡るのは、なぜか悪くなかった。
次の日の朝。
目を覚ますと、アウラの頭は森の獣にくわえられていた。
「アウラが寝てるときってどうなるの?」とユラが不思議がり、試した結果だったらしい。
「な、なんでそんなことするんだ……」
アウラが文句を言うと、ユラはケラケラ笑ってこう言った。
「だって、楽しいもん!」
炎を浴びても、川に沈めても、毒虫を放っても、アウラには何の影響もない。
ユラはそれを面白がって、毎日のようにアウラで実験をした。
そして、アウラもまた、ユラに色々試した。
例えば――。
「幽霊は本当に透けるのか?」
アウラはユラの顔を木の棒で突いた。木の棒は抵抗なくユラの頬を突き抜け、アウラの手が付くとほっぺがむにゅっとなって止まった。
「わっ!?」
ユラは驚いて身を引く。
「やめてよ! びっくりするじゃん!」
「お前も同じようなことしてたろ」
「でも、やられるのは嫌なんだもん!」
そんなふざけ合いを繰り返し、二人は何度も笑い合った。
不思議だった。
死ねないはずの自分が、ただの「日常」を楽しいと感じていることが。
森の中、焚火の明かりが揺らぐ。
アウラとユラは炎を挟んで向かい合っていた。
ユラは火を見つめながら、小さく呟いた。
「生きてるか、死んでるかの違いで、本当に私たち、一緒だったね」
アウラは、手にした木の枝で火をかきながら、短く答える。
「……そうだな」
夜の森は静寂に包まれていた。かすかな風が木々を揺らし、月明かりがぼんやりと地面を照らしている。その冷たい光の下で、アウラとユラは向かい合っていた。
「ねぇ、出なくていいの?シェオールを目指すんでしょ」
ユラの声は柔らかく、それでいてどこか寂しげだった。
「……」
アウラは答えなかった。ただ黙って、目の前の少女を見つめる。彼女の艶やかな黒髪が風に揺れ、薄いワンピースの裾が宙に漂う。ユラはふわりと宙に浮かびながら、微笑みを浮かべていた。その笑顔が、どこか無理をしているように見えて、アウラは胸が締め付けられる。
「私に貴方は殺せない。ほら、この前試したじゃん。私は物を持てないし、貴方の首を絞めることはできたけど、力が足りなくて殺せはしなかった」
アウラは目を伏せた。
ユラは、アウラの固有スキルを無視する存在だった。その事実は、逆にアウラならユラを殺せる可能性があることを示している。
ユラはそれを理解しているはずだった。
それでも、この数日間、一度もアウラにそれを頼まなかった。そしてアウラもまた、ユラにその提案をしなかった。お互いが長い間、孤独の中で生き、死を求めてきた。
もしアウラがユラを殺せば、また一人になる。もしアウラがシェオールを目指し、この地を去れば、ユラが一人になる。だから、どちらも何も言えなかった。
夜の静寂が、二人の心を蝕んでいく。
それでも、ユラは前に進もうとしている。アウラは、そのことを痛いほど理解していた。
アウラだけが、まだ子供のままだ。
唇を噛み、拳を握る。胸の奥に渦巻く迷いを押し殺し、アウラはゆっくりとユラに手を伸ばした。
ユラは、その手を見つめる。そして、ゆっくりと微笑んだ。まるで「大丈夫だよ」とでも言うように。その笑顔が、アウラの心を決壊させた。
ユラの手を取ると同時に、彼女を地面へ押し倒し、馬乗りになる。
そして、その細い喉を両手で掴んだ。
生々しい感触がアウラの指先に伝わる。喉が動くたび、彼女の命が確かにそこにあることを実感する。
今まで、数えきれないほどの命を奪ってきた。だが、触れた感覚を知るのは、何百年ぶりだった。
強く握りしめる。ユラの表情が歪む。苦しそうに眉を寄せ、口をわずかに開く。
初めて見るユラの顔だった。
アウラの脳裏に浮かぶのは、これまでのユラの姿。照れくさそうに顔を赤らめた顔。満面の笑みを浮かべた顔。悪戯っぽく目を細めた顔。
そんな彼女の、今の表情だけは、どうしても見たくなかった。
喉を締める手が、緩んでいく。
その瞬間、冷たい雫がユラの頬に落ちた。
アウラは、自分が泣いていることに気づいた。
戸惑い、歯を食いしばる。それでも涙は止まらない。
すると、ユラがそっと手を伸ばし、アウラの頬に触れた。
その親指が、ゆっくりとアウラの涙を拭う。
そして、静かに囁く。
「ねぇ、私のことはいいの。貴方の願いを叶えて」
ユラの声は、優しくて、温かくて、どこまでも儚かった。
その言葉が、アウラの心を締め付ける。
何百年も凍てついていた心が、ユラの手のひらの温もりで溶かされていく。
抑えきれない感情が溢れ出し、声にならない嗚咽が喉を震わせた。
「……うぁっ……あぁぁ……」
泣くことすら忘れていたアウラが、子供のように声を上げて泣いた。
両手で顔を覆い、嗚咽を押し殺そうとするが、もう止めることはできない。
その姿を見て、ユラは静かに微笑む。
そして、そっと腕を伸ばし、アウラを抱きしめた。アウラの銀髪を優しく撫でる。まるで、母が幼子をあやすように。
アウラは、ユラの胸に顔を埋め、ただひたすら泣いた。
どれほどそうしていたのか、わからない。
だが、その時間だけは、確かにあたたかかった。
夜が明け、朝の光が静かに差し込む。目を開けると、アウラは地面に横たわっていた。いつの間にか泣き疲れ、そのまま眠ってしまっていたようだ。
そして――頭の上に、ユラがいた。
彼女は宙に浮かび、まるでブリッジをしているかのような奇妙な寝相で寝息を立てていた。重力など無視したその格好に、思わずアウラの口元が緩む。無防備で、どこか子供のような彼女の姿が微笑ましくて。
――それでも、行かなくてはならない。
ユラを起こさぬよう、そっと体を起こし、目を閉じる。静かな声で、まるで自分に言い聞かせるように、別れを告げた。
「夢を叶える方法を見つけたら、必ず帰ってくるよ。ユラ」
そのまま、後ろを振り返らず歩き出す。
もう、一人じゃないと知っているから。




