譲れないこと
それから、『甘雨』に行きたいのに行けない日が続いていた。
行こうと思うと眼鏡教授の一瞬見せた険しい顔が脳裏をよぎるのだ。
やっぱり保護者が客は迷惑か~、何で身バレしたんだろう。
いや、でも隠したままもちょっと。堂々巡りだ。
今日は有給を取った。近年の働き方改革で年5日の有給取得が義務付けられている。
総務からそろそろ取れと催促されたのだ。
猛暑日が続いていた。午前中の涼しい時間帯、蝉の鳴き声が響く公園を散歩していた。
朝の樹々をぬって吹く風は心地よく、私は敢えて『森林力』だと言うが疲れた心身がリセットされる。
そうだ!眼鏡教授は午前中ならいないはず、いつも夜だったから。
私は『甘雨』のスモーキーな珈琲が飲みたかった。
カランコロン「いらっしゃいませ。」まさか、この声!
そうだ!!今大学は夏休みだった~痛恨のミス。
きっと私の顔は引きつった笑顔を浮かべていることだろう「こんにちは。」
平日の朝なのに店内は比較的混んでいたが、お気に入りの窓際の席があいてたので座った。
朝来るのは初めてだ、中庭から蝉の鳴き声が聞こえ、樹々が店に陰を作りだす。
モーニングを頼んだ。珈琲とトースト、ハムエッグ、サラダ、ヨーグルトがついている。
トーストに塗るのはバターと蜂蜜をチョイスした。
出てきたトーストは厚めで外はサクッと中はふんわり。
ハムエッグも半熟具合が丁度いい。朝食としては十分な量でお腹が満たされ、気持ちも満たされた。
珈琲は朝だからか少し酸味のある軽い味だ、朝食用に豆を変えているようだ。
いつものスモーキーな豆も良いけど、この少し軽い感じも朝には丁度良い。
珈琲のお代わりを頼んで雑誌置き場へ行くと、ガウディの建築物の写真集があった。
私はガウディの建築物が大好きだった。
ガウディの建築物からは自然を感じるのだ、建築物を見ているはずなのにまるで自然の中にいるような錯覚を起こし楽しくなる。
いつか実物を見にスペインへ行きたいと思っているうちにこの年齢になってしまった。
しかも写真家の視点が面白く、とても素敵な写真集で没頭してしまった。
「お久しぶりですね。」
ふいに心地良い声、顔を上げる。あれ?周りのお客がほぼいなくなっていた。
「お元気でしたか?」優しい声で聞かれた。
「ご無沙汰してます、元気です。なんか保護者だって分かると、ご迷惑でないかと思い・・・」
「そんなこと気にされていたんですか?全然迷惑じゃないです。
保護者として佐田様よりお客様として佐田様の方が印象に残ってますし。」
「良かった。ではしっかり通わせていただきます!」
ここで私は、他人にはどうでも良いことだが私には大事なことが気になった。
息子は『佐田』のままなんだけど、私は『石本』なのよ。
どうしよう細かいことなのよ、でもずっと『佐田』で呼ばれるのは嫌だし。勇気を出そう。
「すみません、どうでもいいことなのですが、私は『石本』です。」
「えっ?」
「実は私バツイチでして、息子は元夫の姓で『佐田』なんです。細かいようなんですけど、なんか嫌だったので。」
少し間があって「いやいや名前って大切ですからね。因みに下のお名前は?」と聞かれた。
「石本卯月です、よろしくお願いします。」
「私は河村圭史です、大学では准教授やってます。よろしくお願いします。」
照れ笑いを隠すようにズレる眼鏡を押し上げた。
危ない!!教授だと思っていた、どおりで若いはず。
「店は店、大学は大学なので気になさらず、いらして下さい。美味しい珈琲を用意してお待ちしております。」
「遠慮なく通わせて頂きます。」
私は癒しの場所を失わずに済んだことに安堵した。
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