講義の後は
「──で、あるからして。神女様のお導きのもと、我らクリスティアの民が天より降り立つまで、この地は魔人の支配を受けていたのです。魔人の最後の王エヴァは神女様に封じられし後、冥府にて咎人の魂を八つ裂きにしていると云われています。……貴女も、エヴァの手に堕ちないよう心を入れ替えるのですよ」
「ふわあああい」
欠伸を噛み殺して、机に頬杖をつく。容赦なく、アルクェスの教鞭が卓を打った。
「……我が国では悪に魅入られし者をエヴァの子、とも云いますが、ご存知ですか? 邪心ばかり抱いていると、復活を望む魔人に体を乗っ取られ、背には蝙蝠のような翼が生えてくるのだそうです。ほら……、この丸まった背中にですよ!」
教鞭の先で、背筋をひと撫でされて、舟を漕いでいたエファリューは飛び上がった。背中の開いた部分にレースを重ねたデザインのドレスなので、直接触れられたわけではないが、突然の刺激に肌が粟立った。
「助平ぇ!!」
「なんですか、その低俗な言葉は? エメラダ様の口で語らないでいただきたいですね」
頭がエファリューの躾に切り替わっている彼には、ちょっかいをかけても通用しない。仕方なく、この時間は頷く真似でやり過ごすつもりが、少しでも姿勢が崩れようものなら直ちに矯正の手が入るので、全く気が抜けなかった。
可愛い子竜と、この先にあるはずのぐうたら生活を、頭に思い描いて何とか堪えるが、それにしたって退屈だ。
対してアルクェスは瞳を輝かせ、この国を作った神女の素晴らしさを熱弁している。神官らしく、信仰心に溢れた、実に生き生きとした語り口だ。
「……楽しそうね、アルは」
「ええ。子供の頃から、耳に馴染んだ神話です。神女様のもたらす光が、魔人を冥府に追いやる瞬間は、この歳になっても胸がすきます」
「ふふ。神官様も男の子なのねぇ。やっぱり、わくわくの冒険譚がお好き?」
怪訝に眉をひそめるアルクェスに、エファリューは皮肉めいた笑みで続ける。
「だってそうでしょ? その神話が国の成り立ちを物語っているのなら、神女は魔人を成敗した勇者じゃない」
「安い物語にしないでいただきたい」
「あらあら、そんなこと思ってないわよ。民族浄化と淘汰の血生臭い歴史を、クリスティア国民が納得できる形に仕立てた冒険譚でしょう? こんな重い話がある?」
皮肉たっぷりのエファリューの言葉に、アルクェスは一瞬だけ眉間の皺を深め、お返しとばかりに不敵に笑った。
「口を慎めと言いたいところですが……、驚きましたよ、エファリュー。そのように物事を広く捉える目がおありとは。なかなか見込みがあるようですね」
「そうでしょ、そうでしょ? もっと褒めていいのよ」
にっこりと笑んだ教育係は、教本を山と積み上げる。
「我が国に限らず、多数の教義がそういった側面を持つのは、確かです。では明後日までに、これらを読み、他教と比べて神女様の教えが如何に優れているかを文書にまとめなさい。たいそうな口をきくのですから、簡単でしょう?」
「うげげっ」
鼻をあかしてやるつもりが大失敗だったと、エファリューは後悔したが、既に遅い。生まれた時から神女一筋のアルクェスに、神を冒涜する言動は厳禁だ。エファリューはきっと、行儀や教義より真っ先にそのことを覚えておくべきだったのだ。
長い長い講義が終わる頃には、とっぷり日は暮れていて、間食の暇もないまま、湯浴みに駆り出された。エメラダ付きの年若い侍女に裸に剥かれ、頭から足の先まで泡まみれにされた上で、全身を磨き上げられる。
「ふひっ、ふへへへへへっ、ひゃはっ、やめっ、ふへへっ」
柔らかな布が肌を滑るのが、こそばゆくて堪らず、こればかりは一人でさせてくれとエファリューは身を捩る。
仮にも姫の手を煩わせるわけにはいかないと、侍女は頷かない。しかし肌を磨くたびに、敬愛する姫の口から奇っ怪な声が洩れるのが恐ろしかったようで、最後には「どうぞ」と洗い布を差し出したのだった。
湯から上がった後は、髪に花の雫を馴染ませ、全身にクリームを塗り、研いた爪に紅を乗せられ……素敵なレディになるための薬をたっぷり塗り込まれている気分だった。
そうこうしているうちに、夕食の時間だ。
ところが残念なことに、エファリューはすっかり疲れていたのと、湯上がりの心地好さも手伝って、贅を尽くした晩餐に一口も口を付けぬまま、眠ってしまった。
アルクェスの呆れた声が遠くに聞こえた気がしたが、もう一寸足りとも瞼を開けていられなかった。
ふわっと体が浮く感覚がして、柔らかな香りが頬に触れた。泥に沈むような睡魔の向こうに、エファリューはサラの顔を思い浮かべたが、寝台まで運んでくれたのは、彼女をそこまでくたくたにさせた教育係だった。
***
月もさやかな夜更け、エファリューははっと目を覚ました。体はいろいろな所が痛くてだるいが、一眠りしたおかげか、頭はすっきり冴えていた。
控えていた侍女が、部屋を滑り出ていく気配がして、ややあって扉の向こうからアルクェスの声がした。
「お目覚めなら、軽いお食事は如何ですか」
「……いらない」
「では甘いものは?」
「いる!」
エファリューは寝台を飛び出て、続き間へ飛び込んだ。
アルクェスがやれやれと肩をすくめる。
「あるとは言っていませんけどね」
「意地悪ぅ!! だったら、わざわざ何しに来たのよ」
しぃっ……と、艶やかな唇の前に人差し指を立て、彼は微笑んだ。
「──夜遊びのお誘いです。エメラダ様ではなく、エファリュー。貴女を」