教育係は理想高めのスパルタ男でした!
「こんなに爪の中が真っ黒な淑女がいますか?」
眉をしかめるアルクェスの手の中には、エファリューの指先がある。薬草の渋が取れなくて、諦めたものだ。が、おそらく気合いでこすれば落ちないことはない。単にエファリューがずぼらなだけだ。
かっと顔を赤くして、エファリューは手を引っ込めた。
「働くレディはみんなこうですぅー!」
「貴女はろくに働いてないでしょう……第一、今日からエメラダ様を名乗るのです。指の先から髪の先まで気を遣っていただかなければ困ります」
「はいはい。じゃあどうぞ。足の先まででも、好きなだけ磨いてちょうだいな」
エファリューの靴がアルクェスの高い鼻を掠めるように、空を蹴った。組んだ脚で爪先を一振りすれば、肌隠しが滑らかにすべって、真珠の飾りがついた靴はぽんと投げ出された。
転々と転がったそれはやがて自重で起き上がり、深緑色の絨毯の上で爪先立った。
挑発的に、教育係の鼻先で足を揺らしていると、彼の耳の端に朱の色が浮かんだ。なんて単純で簡単な男だろうと、エファリューはほくそ笑む。勝利を確信して、油断していた。
そしたら彼に、はしたない足首を掴まれた。
「で・す・か・ら!!」
アルクェスは、もう片方の手に靴を握り、エファリューの小ぶりな足と合体させた。そっと足を収める、なんて優しいやり方じゃない。彼の顔を紅潮させるのは照れや恥じらいではない。純然たる怒りであった。
「エメラダ様と同じ見かけで、下品な振る舞いはおやめなさい! 神女様を穢す者は許しませんよ?」
その空色の瞳が氷のように冷たい。なるほど、脅してきた時もこんな目をしていたのだなと、エファリューは妙に冷静に納得した。
「これから十日間、淑女がなんたるか……その体にみっちりと、教えて差し上げましょう」
「まっ! そんなの契約外だわ」
「わたしだって、貴女がここまで品性に欠けた者だとは、想定外でしたよ! 中庭ではまともにしていたと思ったら、とんでもないじゃじゃ馬だ……」
それはエファリューが、令嬢気取りで猫を被っていたからだ。
「気品溢れる振る舞いが、大前提の身代わりです。それができないというのなら、この契約は成立いたしませんよ!」
「え゛ええ〜」
「貴女の求めるぐうたらとやらのため、己に投資するのだと思って腹を括るのです。──また鱗を剥いでやっても、いいんですよ?」
美しさ故に酷薄な笑みで、教育係は選択肢のない選択を迫った。ヒールで足蹴にしてやりたい気持ちをぐっと抑え、エファリューは組んだ脚をきちんと揃えたのだった。
◇ ◇ ◇
次の日から、ぐうたらの「ぐ」の字もない、教育係によるじゃじゃ馬の躾が始まった。
エファリューは夜が明け切る前に、サラによって叩き起こされ、クリスティア国教神女信仰の基本である、礼拝の仕方から体に叩き込まれた。
「違います! 頭を垂れるのは、祈り手を組んでから秒針一振り半後! ほら、また早い! ……次は遅い!」
少しでもずれたらやり直しな上に、アルクェスの目は厳しかった。砂粒程度のずれでさえ、指摘してくるのだ。
やっとの思いでありつけた朝食も、もちろん彼と一緒で、食事マナーをとことん注意される。──エファリューが人並みに行儀良くできれば、こんなこともないのだろうが。
「パンを丸齧りしない!」
手本を見せるように、一口大にちぎる彼の指先は、爪の先までツヤツヤしている。銀糸のような流れる髪といい、食事が運ばれる唇のかさつきの無さといい、エファリューとはまるで違う。王子というものにお目にかかれるなら、こういう人物なのではないかと、ぼーっと見つめていたら、パン屑がぽろぽろ零れて、激しく叱られた。
食事のあとは、上品な立ち振る舞いのお稽古だ。
「頭から手足の指の先まで、一本の糸が通っていると思いなさい。しなやかに、たおやかに……なんですか、それは! 串刺しにされているのですか!!」
彼が言う糸を意識するほど、ぎこちない人形めいた動きになってしまう。
「腹に力を込めて、手足は軟らかく!」
エファリューはアルクェスのことを、女に不馴れな純朴な青年だと思い込んでいたが、教育係としての彼は女性に触れることを全く躊躇しなかった。
姿勢がなっていないと、脇に手を差し込まれ、背骨を意識させられる。軸がぶれたら、腰を掴んで矯正されるのは当たり前だ。その度にエファリューはくすぐったいやら、わずかに残る女心を刺激されるやらで大変落ち着かない思いがするのだった。
さらにその後は、城を警備する衛士に混ざり、身体の鍛錬に参加させられた。
「しなやかな動きの基礎は、体を支える揺らがぬ芯です。まずはそのたるんだ腰回りから、重点的に取り組みなさい!」
衛士たちから掛けられる、「筋肉は裏切らない!」という謎の掛け声に急かされるように、エファリューは上体起こしを百回やらされた。そして休む間も無く、足腰を鍛えるための上下運動で……エファリューは息も絶え絶えだ。アルクェスからは容赦ない叱咤が飛んでくるが、同等の鍛錬をこなしながらも息一つ乱さぬ姿を見せつけられては、文句の言いようもなかった。
マナーに厳しい昼食の後、ほんの少し自由時間を得たエファリューは、中庭に出て、文字通り草の根を分けていた。
「確か、こういうところにあるのよねぇ……」
生垣の根元の、一際影が濃く、じっとりと土が濡れた辺りに、手を差し入れてごそごそやっていると、指の先に丸く小さな手触りを感じた。
「あった!」
指先で土を掻き、小さな石のようなものを摘み上げる。ちょっと大振りな黒真珠に似た、光沢のある黒い珠だ。
それを噴水で無遠慮に洗って土を落とすと、エファリューはぽいっと口に放り込んだ。飴玉のように、舌の上でころころと転がし、ほっと眉を落とした。
「あ゛〜、沁みるぅ〜……」
喉の奥から、太く汚い声を出してエファリューはその場に座り込んだ。
疲れを癒すためには、魔力で補うのも有効だ。自然の中には時折り、このように魔力が結晶化したものが眠っている。水の魔力なら水の中、風の魔力なら風の通り道に……といった具合だ。
闇の魔法が得意なエファリューにとって、闇を濃くした飴玉の味は格別だ。
たった半日で、使い慣れない筋肉……エファリューにとっては全身に至るまでが悲鳴を上げている。
「ぜぇーったいエメラダは、このしごきを苦にして逃げ出したんだわ」
「ははは、違いないかもしれんなぁ!」
背後の生垣ががさりと揺れ、厳つい体躯をした初老の男が現れた。
手桶に、土のついた園芸道具や鎌を入れて持っている。庭いじりをしていたと見受けられる装いだ。彼は自らを庭師のマックスと名乗り、エファリューに会釈をした。アルクェスと違って、無骨で無駄に動きの大きなお辞儀だ。
「アル先生の行儀への厳しさは、俺もびくびくしちまうよ。だが、残念ながらエメラダ様はお嬢さんと違って、根っからの姫様だ。アル先生が顔を真っ赤にしてお怒りになるなんて、とんと拝んだことがないなぁ」
がははと、マックスは大笑いだ。
そしてやにわに噴水を振り返り、さっと手を翳した。すると、霧雨の如く降る水飛沫に虹が揺らめき、その中にエファリューの姿が映り込んだ。──いや、エファリューとよく似た、別の誰かだ。顔貌は瓜二つだが、柔らかで、儚げに微笑みかけてくる。
「この方が、エメラダ様だ。どうだ? 愛らしいだろう?」
マックスは「何の役にも立たない魔法だが」と、恥ずかしそうに首筋を掻いた。どうやらこれは、彼の記憶が見せる幻のようだ。
庭の薔薇を摘んで笑うエメラダは、無垢そのものだ。
「愛らしい……確かにね。この無邪気で天真爛漫な微笑みは、わたしに似ていなくもないわね。だけど、ちょっとちんちく……じゃない、まるで生まれたての小鹿ちゃんね。こんな幼い時の姿じゃなくて、もっと最近の記憶はないの?」
「これはつい先日のお姿だがなぁ」
「……ちょっと待って、エメラダって何歳なの?」
「十四歳におなりだったはずだ」
エファリューは虹の中の少女に、目を眇めた。確かに似ているが、この純真なだけの幼い姫と、艶やかな二十歳の自分とが、アルクェスの目には同じものに見えているということに驚きだった。
その隣でマックスは吹き出した。
「ははあん。お嬢さんにはエメラダ様が、自分より幼く見えているんだな?」
「当たり前じゃない。実際、ちん……幼いでしょ?」
「安心しろ。誰の目から見ても、そっくりだよ。……寧ろ、お嬢さんの方が姫様よりチビっこに見えるくらいだがな。がっはっはっは!!」
「んまぁっ、失礼ね!」
一頻り笑ってマックスが咳払いすると、虹の幻も消えた。少し離れた所で、アルクェスがエファリューを呼ぶ声がする。
「おっと、アル先生がご参上だ。身だしなみが……なんて言われたくはないから、俺は退散するよ」
手桶の中をガチャガチャ言わせながら、彼は生垣を越える。去り際に、垣根から顔を覗かせエファリューを振り返った。
「エメラダ様が生まれながらに、神女様として育てられたように……。アル先生も、生まれた時から神女様を育てる役目を背負ってきたんだ。エメラダ様がいなくなって、実は相当参ってるんじゃないかねぇ? お嬢さんを育てることで、何とか気を保ってるのかもしれないな。教え方は厳しいだろうが、何とか頑張って、先生を元気付けてやってくれ」
「真っ平ごめんだわ!」
これ以上、契約外の面倒は勘弁してほしいとエファリューは舌を出した。
そうこうしているうちに、アルクェスがやって来た。次は神学の講義だと言う。
「さ、行きましょう……ん!? また爪の中が真っ黒ではないですか! いったい何をやっていたんです! 講義の前にまずは手を洗いますよ。それから爪を整え直して、保湿のクリームを塗って……」
エファリューはうんざり顔を浮かべたが、抵抗虚しく、薄汚れた手を引かれて城の中へ連れ戻された。