美味い話には裏があったけど、やっぱり美味かった①
エファリューは幸せな夢を見ていた。
三食おまけに間食付きで、何もしなくていい生活。ふかふかのベッドで、好きなだけだらだらしていい生活。今までは破綻してきた生活を、これから一生支えてくれる自慢の美青年。
美味しいことだらけでにやにやと、寝顔を歪ませながら昼まで寝続けた。
やがてぱちくりと葡萄色の目が開いて、一番に豪奢な天蓋を捉えた。夢だと思っていたら、本当に極上のふかふかベッドで寝ていたらしいと知り、二度寝を決め込もうと布団を引き上げた。
そして何やら、おかしなことに気付いた。暖かで滑らかな布団の肌触りが、妙に密着して感じられる。肌に直接触れているというのが正しい。エファリューはとても頼りない姿で、ベッドに寝かされていた。
裸で寝る習慣はないから、誰かに脱がされたんだなとエファリューは落ち着いている。さてそれは誰で、どんな目的かと思案していると──。
「お目覚めですか?」
アルクェスの声がして、エファリューは仕方なく起き上がった。青年は紗の帷が引かれた大きな窓辺に立って、寝台に背を向けている。だが念のため、エファリューは胸までシーツを引き上げて、なるべく肌を隠した。
「わたしを、どうするつもり?」
できればこのふかふかな布団を被って一生過ごしたいが、猫を被るのはおしまいだ。夢から覚まされて気付いた。食事に眠り薬を仕込まれたのだと。
エファリューも迂闊だった。空腹すぎてがっついたが、人参のポタージュが出たところで気付くべきだったのだ。眠り草の根を乾燥させた粉末は、橙色に発色する。ちょうど人参の色と味によく似ていて、料理に混ぜ込むと気付かれにくいのだ。酒場なんかで人参料理をサービスされたら、怪しむようにしていたのに、うっかりだった。
アルクェスの美しい笑顔と、美味しい誘いにすっかり浮かれて失念していた。
「どうもしませんよ」
彼はちっとも振り返ろうとしないので、今も笑っているのかは分からないが、声音は随分堅く冷たい印象に一変していた。
「庭でお願いした通り。貴女はこれから一生、わたしに囲われていただきます」
アルクェスの口から、「何もしなくていい生活」の詳細が語られた。それは次の通りだ。
一、エファリューはこれからエメラダと名乗って暮らすこと。
二、昼間だけはアルクェスとともに神殿に出向いてもらうが、ただ何もせず礼拝者を眺めていればいいこと。時々微笑んで手を振るなどすると、尚良しだが応相談。
三、それ以外はこの部屋でぐうたらしていていいこと。
四、月の障りがある間は、神殿に出仕しなくてもいいこと。
二の条件が少々面倒そうだとエファリューは思ったが、確かにほとんど何もしなくていいようだ。別にアルクェスと婚約するわけでもないらしいし、承諾してもいいかなぁなんて、思い始めていた。しかし──。
「エメラダ? それってあなたが最初に、わたしに呼びかけた名よね?」
「ええ、そうです。エメラダ様は、わたしがお仕えする姫様で……」
「はあ、姫ぇ?」
エファリューは耳を疑う。しかし間違ってはいないようで、アルクェスはとんでもない後出しを始めた。
「はい。エメラダ姫様は、我が国クリスティアの第一王女にして、聖神女神殿の信仰対象である神女様の化身であらせられます」
「……で、わたしが?」
「エメラダ様の化身になっていただきます」
エファリューは顔を引き攣らせた。好待遇の裏には訳があって当然だが、こんなにとんでもない前提条件付きだとは……。とても飲めやしないと、豪奢な布団に別れを告げる覚悟を決めたのだが──。
「スフェーンの城郭都市ファン・ネルでは、随分と優雅な暮らしをしていたようですね」
背中しか見えないが、とても美しい笑顔をしているのだろうとエファリューは眉を顰めた。嫌味なくらいに綺麗な笑顔を肩越しに見透かすと、彼の口調は穏やかだが冷たい。
「エファリュー・グラン。二十歳」
アルクェスの長い人差し指と中指に挟まれているのは、エファリューの通行証だ。エファリューはシーツの上から胸を抱いた。遠出する時は失くしたり盗まれたりしないように、素肌に付ける胸当ての、底上げ部材の中に埋め込んでおくのだ。それを彼に引き摺り出されたのかと思うと、かっと顔が熱くなった。
素性は全て調べ尽くしたと彼は言う。
「……その歳にして、あれだけの借金を作るとは、たいしたものです。しかしおかげで、こちらとしては貴女を繋ぎ止める理由ができました」
「まあ。たいそうなご身分の御方が、吹いたら折れてしまうような、か弱い野の花のようなわたしを脅そうって言うの?」
「野の花は踏みつけたくらいで、枯れやしません」
すっぱりと彼は言い捨てる。
「貴女の作った借金は全て、わたしが清算いたしました。もう覚悟を決めなさい、貴女はわたしに買われたのです」
「あら、それはありがとう! だけどわたしは、貴方にはなんの義理もありませんから、逃げ出すことに一切の抵抗も感じないわ!」
「そうですか。それはとても残念です」
アルクェスは通行証を懐にしまうと、代わりに親指と人差し指に何かをつまみ直して、肩越しにエファリューに見せつけた。
薄く透き通った空色の、未熟な鱗だ。
「罪のない命を奪いたくはないのですがね」
「このっ……外道!!」
「金にだらしない咎人に言われたくありません」
さ、どうします──と、彼は嗤った。
選択肢などなかった。
「……わかったわ。あの子の命を保証してくれるのなら、エメラダを名乗ってやってもいいわ」
エファリューはすべらかな音を置き去りに寝台を降りて、アルクェスのもとへ歩み寄る。いつまでも背を向けたままの男に腹が立って、エファリューは彼の肩を掴んで振り向かせた。
「だからとっとと、この名も無きわたしに、姫のドレスとやらを着せてちょうだい」
紗を透かした光に、惜しみなく裸身を晒す。もう彼に対して遠慮も媚びも要らないので、ちっとも恥ずかしくなかった。
寧ろ意外なことに、アルクェスの顔の方がみるみる真っ赤に染まっていく。
「み、みだりに人前で肌を晒すものではありません!」
「なによ、どうせ貴方が脱がせたか、脱がさせたかしたんでしょ?」
「それは……──サ、サラっ!!」
ここに、とどこからともなく赤毛の侍女が現れた。
「姫様にお召し物を!」
「承知いたしました」
大きなため息をついて、エファリューに背を向けた彼は耳の端まで真っ赤だ。
(おやおやぁ?)
サラに、続き間へ連れていかれながら、エファリューはにまにま笑った。エファリューに比べたら些細なものだが、弱みを握っておくに越したことはない。
(裸ひとつで真っ赤になるなんて、意外と可愛いものじゃない)