落っこちて、落とされて。
とんでもなく冷たい空気を切り裂きながら、彗星の如く、エファリューは落下した。
子竜が追い縋るが、エファリューは平気だと微笑んで手を振った。
空を掻いて、できた闇の穴に手を突っ込む。さっきの矢を一本取り出して、矢尻は闇に突き立てた。縄の部分をしっかと手にしたら、投げ出された体を捻って、上体を起こす。
その姿はまるで、黒い風船を手に宙にぷかぷか浮いているようだ。
「あら、これもなかなか楽しいじゃない」
心配そうに寄ってきた子竜に、ここまでの礼を言って、水色の弾力のある頬にキスをした。
「じゃあね。あなたが立派な大人になったら、いつか鱗を貰いに行くわ」
竜の鱗は、鍛冶屋に持っていくと高く売れるし、呪術の道具にも薬の材料にもなる。これに関してエファリューは労を惜しむつもりはない。
子竜は不満そうに低く唸った。親が狩られ、一人ぼっちの雛竜だった時に怪我を治してくれたエファリューは、子竜にとって家族と同じだ。
「冗談よ。友達も家族もいらないけれど、……そうね。あなただけは特別だったわ。ほとぼりが覚めたら、きっと会いに行くから。さあ、気をつけて帰りなさい」
エファリューが風に流され、国境を越えても、子竜はそばを離れようとしなかった。
参ったなぁと思っていたら、突然体がかくりと重力に引っ張られた。
ふと気付くと、東の空が白み始めていて、それに伴いエファリューの闇が薄くなったのだ。矢尻がするりと抜けていく。
風船が割れたかのように、エファリューの体は再び急降下を始めた。
眼下には、緑の丘が見渡せた。いくつも尖塔を持った小さな城がある。遠目には、白く光を跳ね返す神殿のような建物も見えた。
エファリューは城の中庭に向かって、急速に落下していた。
この時、エファリューは自分のことよりも、追い縋ってくる子竜の安全を優先した。もし、見張りの目についたりしたら、子竜は狩られてしまうと、胸がざわざわしたのだ。それは面倒くさいとは思わなかった。
指笛が響き渡る。エファリューの指笛には、思念が込められている。
──大丈夫だから、お帰り。
それは一種の呪いで、子竜は心と体が引き裂かれる思いで、くるりと旋回する。短い尾をしなだらせ、きゅっと一声鳴いて、ファン・ネルの方角へと泣く泣く飛び去った。
それを見てほっとする暇もなく、エファリューは自分の身も守らなければならない。急いで闇を呼び寄せる。
ところが、いつもの要領で手を掻いても、困ったことに全く闇が生まれない。いくら朝陽が昇りつつあるからといって、こんなことは今までになかったことだ。
はっとして辺りを見回し、ここがどこか悟った。
遠くに見えた神殿──あれは隣国クリスティアの国教の総本山、聖神女神殿。その信仰対象は太陽、神女の性質は光だ。
光の加護に満ち満ちたこの地において、エファリューの魔力など無力だ。
なすすべなく、空を切って小さな体が落ちていく。髪紐も弾け飛んで、ミモザの髪がふわりと風に広がった。
「──!!」
男の声がしたが、分厚い空気の膜に覆われて、言葉までは聞き取れなかった。
身を切るような冷たさから切り離され、春風の穏やかさに体を包まれたエファリューは、ゆっくりと羽根のように舞い降りた。
その背に、しっかりと手を添えて抱き止めてくれたのは、なかなか……いや、かなり整った容姿の男性だった。
ものぐさなエファリューでさえ、ちょっとしおらしくなって、髪の乱れを整えてしまったほどだ。
彼はエファリューの葡萄色の双眸を目にするや、端正な顔に驚愕を露わにした。
「エメラダ様!?」
銀糸のような髪を振り乱し、驚きを吐き出すように切羽詰まった問いかけだったが、声自体はひどく潜められていた。
エファリューが腕の中できょとんとしていると、青年は首を振って、深呼吸した。
「いえ、違いますね。わかっています。たいへん失礼いたしました」
彼はエファリューをそっと地に下ろすと、流れるように美しい一礼をして名乗った。
「わたしはアルクェスと申します。貴女は……随分と変わった所からいらっしゃったようですが……」
空を見上げる彼の瞳もまた、澄んだ空色だ。
エファリューは一瞬のうちに彼を値踏みした。
神官が身につける長衣を着ているが、格式高そうな前飾りが垂れていて、しゃんとした立ち姿と相まって必要以上に身なりがよく見える。この城が誰のものであるのかエファリューにはわからないが、明け方に中庭を自由に歩ける者など限られているはずだ。城の見回りをしているにしては、軽装だ。ということは、この城において相当に地位の高い人物──つまり、エファリューひとりくらい容易に養える財はあると見込んで、面倒くさいが猫を被ることにした。
「わたしはエファリューと申します。隣国のスフェーンから、あてのない旅をしていたところ、山中で追い剥ぎにあって、決死の覚悟で飛行術にて逃げて参ったのです……」
こういう時、エファリューのくりくり大きい黒目がちの瞳と、甘えたな声は大いに活躍する。同情を引くのにもってこいなのだ。
アルクェスは心から気遣わし気な色を浮かべて、近場にあった腰掛けにハンカチを引くと、エファリューをそこに座らせた。
「お怪我はありませんか?」
「え、ええ。元気よ」
眉目秀麗な青年に跪かれ、丁寧に話しかけられて、エファリューはちょっとした令嬢気分だ。
「エファリュー殿は……行くあてがないのですか?」
「ええ、そうですの……」
他に語れることは何もない、と言うようにエファリューは悲しげに睫毛を伏せる。
これも、詮索を拒否するための技だ。ファン・ネルの街では通用しなくなってしまったが、このアルクェスという青年は、優しいというか素直すぎるというか、すぐに信じ切った様子で何も聞いてこなかった。
嘘をつくエファリューの良心が珍しくちくちくするほど、穏やかな声音で「大変ですね」と同調している。
そしてこの後、彼は思いも寄らぬ行動に出た。
「エファリュー殿」
跪いたまま、アルクェスはエファリューの両の手を取った。
「このまま、どうかわたしのそばにいてはくださいませんか!?」
言葉だけなら求愛されているように受け取れた。
エファリューはぞぞぞ、と肌を粟立たせた。彼は確かに見目麗しく、恋人にしたら自慢できるような人物に思える。しかし会って数分で求愛とは、エファリューの中では論外だ。
「ご遠慮いたします」
「しかし、行くあてがないのでしたら、ここにいたらよろしいのでは」
「いいえ、絶対に面倒でしょうから」
確かにエファリューは高貴な身分の御仁との出会いを求めていたが、それは無償奉仕してくれる超極太のパトロンを指してのことだ。色恋は御免だ。
ただの平民の男と付き合ったって、なんだかんだ面倒がつきものだというのに、お貴族様にご奉仕なんて絶対骨が折れるに決まっている。
「何も、貴女の手を煩わせることにはなりません」
アルクェスはなおも食い下がった。
「何もしなくていいんです」
ぴくりとエファリューの耳が反応する。
「ただただ其処にいてくれるだけでいいんです。気が向いた時に、ちょっと微笑んでくれる程度で」
ぴく、ぴくり。
「衣食住の保証もいたします! 微々たるものですが、毎月決まった額の報奨金もお約束します。だからどうかお願いいたします! これから一生、貴女を囲う許しをください!」
「その話、ちょっと詳しく聞かせてもらえるかしら?」
破格の好待遇で、一生不自由せずに暮らせるなら願ったり叶ったりだ。
アルクェスは「ありがとうございます!」と心底嬉しそうに頭を下げて、エファリューをそっと立たせた。
「どうぞ、中でゆっくりお話を。そうだ、何か温かいものを用意しましょう。山と空を越えてきたんです、さぞお疲れでしょう?」
しばらくまともな食事をしていなかったエファリューの腹は、お誘いの言葉だけで涎が出そうなほどペコペコだった。
すっかりいい気になって、出された食事にぱくついていたら、猛烈な眠気に襲われた。エファリューは無作法にもフォークを取り落としてしまった。
かくり、かくりと舟を漕ぎ、椅子から崩れ落ちそうになるのを、アルクェスがすかさず支えた。その口許には、先程までとはまるで真逆の冷えた微笑が浮かぶ。
「……いますか、サラ?」
「ここに」
扉の陰から、赤毛を三つ編みにした侍女が姿を現した。
「姫様を寝台へ運んでください。そうそう、身につけたものはすべて……下穿きにいたるまで取り払い、わたしの部屋に届けなさい」
「承知いたしました」