結婚して苗字が変わった新妻が、名前を書くたびニヤニヤしていて可愛すぎる
『大嶺桐花』
嫁は自身の名前を書きながら、なんとも嬉しそうに口元を緩ませる。
俺・大嶺賢一が、嫁の桐花と一緒に住所変更をするべく市役所を訪れた。そんな何気ない一コマでの出来事だった。
桐花は記名した用紙を役所の職員に渡す前に、一度自分の顔の高さまで持ち上げる。そして、
「エヘヘ。エヘヘヘヘヘヘ」
自身の名前を見ては、再度ニヤニヤするのだった。
どうして桐花がこんなにも幸せそうな笑みを浮かべているのかというと、その理由は彼女の苗字にある。
今の桐花は、大嶺姓だ。しかしほんの数日前までは、違っていた。
彼女はつい先日俺と結婚したことで、晴れて「大嶺桐花」になったのだ。
俺と桐花は約2年間同棲していたし、ぶっちゃけ結婚したからと言って生活スタイルが変わるわけじゃない。
同じ家に帰って、同じ食卓で同じご飯を食べて、同じベッドで寝て。そんな生活は、結婚する前からしている。
結局のところ、婚姻届を提出して法的に夫婦だと認められただけ。だから正直な話、結婚したという実感が湧いていなかった。
そんな俺たちにもはっきりと、目に見えて「夫婦になった」とわかるものが一つだけある。それが苗字だ。
桐花はようやく「大嶺桐花」になれたことが余程嬉しかったらしく、結婚初日なんてさながら漢字練習のごとく何度も何度も自分の名前を書き続けていた。
夫婦になって数日経った今でも、それは変わらない。
今もこうして役所の職員が目の前にいるにも関わらず、だらしない表情で自分の名前を眺めている。
そんな桐花の姿を見て、俺はつくづくこう思うのだった。
ウチの嫁、クッソ可愛いな!
同じ苗字になれただけでこんなに嬉しそうな顔をするなんて、どんだけ良い嫁なんだよ! 可愛さレベルを10段階評価で表したら、15くらいいっちゃってるんじゃね? 限界なんて軽く突破してるんじゃね?
しかし俺も良い大人だ。
公共の場でイチャイチャし始めるなんて、そんな非常識な真似はしない。
俺は抱き締めたい或いはチューしたいという気持ちをグッと堪え、ポーカーフェイスを装っていた。つもりだったのだが……
「えーと……お二人は、ラブラブなんですね。羨ましいです」
役所の職員が、俺たちに言う。どうやら俺もニヤニヤを抑えられていなかったようだ。
名前を書くという数秒で終わる行為をたっぷり5分ほどかけて終えた桐花は、ようやく書類を役所の職員に渡す。
……そういえば、運転免許証の住所もまだ変えてなかったな。その手続きにも、早く行かなければならない。
少なくともあと一回、嫁の可愛い姿が拝める。そう思うと、沢山ある手続きもあまり面倒くさいと思わないのだった。
◇
俺と桐花は、同じ会社の同じ部署に勤務している。
謂わゆる職場内結婚というやつで、だから婚約した直後は同僚たちからよく揶揄われたものだ。
上司に開催して貰った独身さよならパーティーは、大いに盛り上がった。しかし残念なことに、もう二度と俺を主役としたパーティーが開催されることはないだろう(桐花と離婚するつもりは毛頭ないということである)。
業務の最中、ふと部長が桐花の名前を呼ぶ。
「遠藤さん、ちょっと来てくれるかな」
遠藤というのは、桐花の旧姓だ。
つい先日まで桐花は「大嶺」ではなく「遠藤」だったので、部長のように間違えてしまう人間がいるのも仕方のないことだった。
部長に呼ばれた桐花はというと……まったくの無反応だった。
「もしかして、聞こえていないのかな? おーい、遠藤さーん!」
部長が声を張り上げて、再び桐花を呼ぶ。それでも桐花は返事をしない。
部長は結構な声量を出しているし、聞こえないなんてことはないだろう。だとすると、桐花はわざと部長を無視している? 一体どうして?
俺には思い当たる可能性が、一つだけあった。
たまたま近くにいたこともあり、俺は部長に耳打ちをする。
「部長。桐花のやつ、多分「遠藤」じゃ反応しませんよ」
「え? ……あぁ。そういえば君たち、結婚したんだっけ」
気を取り直して部長が「大嶺さん」と呼ぶと、桐花は「はい!」と返事をした。
それはもう、嬉しそうな顔で。
自分はもう「大嶺桐花」なのだから、旧姓で呼ばれても返事をしないということか。何それ、めっちゃ可愛いんですけど。
「部長」
「何かな?」
「嫁が可愛すぎるんで、休憩がてらイチャイチャしに行っても良いですか?」
「うん、普通にダメに決まってるよね」
しかしだとすると、このニヤニヤをどうやって処理すれば良いのだろうか?
取り敢えず昼休み、愛妻弁当を「あーん」で食べさせて貰うとしよう。
◇
休日。
二人掛けのソファーに並んで座りながら映画鑑賞をしていると、ピーンポーンと玄関チャイムが鳴った。
「誰かな?」
「宅配便じゃないか? 通販で頼んだ物が、今日届く予定になっていた気がする」
俺が立ち上がろうとすると、桐花が待ったをかける。
「賢一はここでくつろいでて。荷物は私が受け取るから」
そう言うと、桐花は「はーい」と言いながら玄関へ向かう。
途中「大嶺」の判子を手に取り、にへらと笑う姿が、無性に可愛らしかった。
来訪者は、案の定宅配業者だった。
「大嶺さんで間違いありませんか?」
「はい、大嶺です。私は大嶺です」
桐花は無駄に2回も繰り返して答える。
しかもそれだけでは飽き足らず、「もう一度聞いて貰っても良いですか」と懇願して宅配業者を困らせていた。
荷物を受け取った桐花は、受領印を押し、またもニヤッと笑う。
それから部屋に戻ってきて、届いた小包を俺に渡した。
「はい、これ。宛先が賢一になってるよ」
「サンキュー」
「……因みに、何を頼んだの? えっちな本やDVD?」
「そんなわけあるかよ」
仮にそういったものを注文するなら、是が非でも自分で受け取っているさ。それも桐花のいないところで。
届いた荷物は、別に桐花に見られて困るものじゃない。それどころか、是非とも桐花にも見て欲しいものだ。
俺は小包を開ける。
中に入っていたのは……表札だった。
これまでも「大嶺」と書かれた表札はあった。しかし今届いた表札は、苗字だけでなく下の名前も記されている。
俺と桐花、二人分の名前が。
「ねぇ、これって……」
「こんなの別に必要ないことくらいわかっている。でも、表札に「大嶺桐花」と書かれていたら、お前も毎日が一層幸せになるだろ?」
朝家を出る時と、夜家に帰って来た時、桐花は欠かさず自分の新たなフルネームの記された表札を見て、ニヤリと笑うことだろう。願わくば、そんな日常が一日でも長く続いて欲しい。
「ねぇ、今私が考えていることわかる?」
ふと桐花がそんなことを尋ねてくる。
「「ありがとう」か?」
「半分正解。もう半分は……愛してる」
ならば俺の気持ちも、「どういたしまして」と「愛してる」が半々だ。
届いたばかりの表札を眺めながら、この上ないくらい口元を緩める桐花。
そんな彼女に、もう二度と「だらしない」なんて言えないな。だって――
幸せそうな桐花を前にして、俺も負けず劣らずだらしない顔をしていたのだから。