婚約破棄したいなら、こちらから
「きみに伝えなければならないことがある。どうか私と別れてほしい」
と、ある日婚約者である殿下に言われた。
いつになく真剣な表情。何でも他に好きな女性ができたらしい。わたしという婚約者がいながら。
「どんな人なんですか」
「平民の娘で、可憐な女性だ」
お忍びで街へ行った時、一目惚れしたそうだ。それから、度々彼女に会いに行っているらしい。
「性格は?」
「外見通りの慎ましやかな娘だと思う」
「思う?」
「まだ話しかけたことがない」
「ええ……?」
でも会いに行っているのでしょうと問えば、何でも遠くからこっそり姿を見ているだけなそうだ。
「それってストーカーっていうやつでは……」
「違う。彼女の方も私に気づいて、目が合う」
怯えているんじゃないですかと言えば、また違うと怒られる。
「微笑まれたことも、ある」
「ふーん……」
言葉も交わさず、視線だけで想いを交わす両想いってやつですか。へぇ、そうですか。
「と、とにかく、私はきみではなく、あの娘を妃に据えたい」
「うーん……まぁ、わかりました」
「わかってくれたか!」
「はい。でも、わたしから振らせてほしいです」
「……きみから?」
「だって殿下から捨てられるなんて、今まで頑張ってきた婚約者としてのプライドが許せませんもの。繊細な乙女心も深く傷つきます」
だから、わたしからあなたを捨てたいのです、と笑顔で提案すると、殿下は思いもよらなかったというように目を丸くさせた。
「それでですね、わたしにうんと好きな人がいるという」
「いるのか」
間髪入れずに聞かれ、いないですよと答える。
「だからそういう設定で、駆け落ちしたい」
「するのか」
「だからしませんって。もう! 最後まで聞いて下さい」
殿下はムスッとした顔でとりあえず黙ってくれた。
「ええっと、それでとにかくわたしが他の男性を愛してしまって、一緒になるから、殿下は捨てられると世間に思わせてほしいんです」
そうすれば、わたしのプライドは守られ、捨てられた殿下も想い人を妃に据えることができる。めでたしめでたし、な結末だ。
わたしはてっきり殿下も「素晴らしい! さすがだ!」と褒められると思っていたが、「……しばらく考えさせてほしい」と断られてしまった。
建設的な意見を申し出たつもりだっただけに、肩透かしを食らった気分になる。いや、いいんですけどね。あなたが言ってきたことですし。
それから数日経っても殿下はこのことをどうするか教えてくれなかったので、ひょっとしたらいろいろ悩んでいらっしゃるのかと思い、「殿下。わたしの駆け落ち相手をこちらで見繕っておきました」と準備万端であることを告げた。
「……なんだって?」
ふふ。殿下ったらまさかわたしがそこまでしてくれるとは思っていなかったのか、とても驚いた顔をしていらっしゃる。
「あ、相手は誰なんだ!」
「私の義弟です」
「義弟!?」
「ええ。ちょうどこの件を相談したら、じゃあ僕がその役を請け負います。あらいいのって聞いたら、いいですよって二つ返事で引き受けてくれたので」
「……きみたちはそういう関係なのか」
「ええ? 違いますよ」
彼は立派な我が家の家族である。
「でも血は繋がっていないんだろう」
「まぁそうですけど」
だからこそ、駆け落ち婚も納得できるかなと思ったのだが。ほら、禁断の関係ってやつ。背徳感たっぷりの。
しかし殿下は「だめだ」ときっぱり言い放った。
「えー……どうしてですか?」
「義理とはいえ、姉弟だときみの家にもあれこれと言われる可能性がある」
「家族はみんな承知の上です」
これも、殿下が本当に好きな人と結婚するためだと力説すれば、両親は最後には泣いて納得してくれた。弟も熱のこもった眼差しでやり遂げましょう姉上、と賛成してくれたのに……。
「絶対にだめだ!」
殿下はやっぱり却下したのだった。
「相手はこちらで決める。だからきみは余計なことをするな」と言われて、また放置である。
仕方なく、「殿下。今度こそ、あなたが納得してくれる相手を用意できました」と告げた。
「なんだと!?」
お茶の誘いに嬉しそうに応えてくれた殿下は椅子から転げ落ちそうになるほど驚いた。
「あ、相手は誰だ!? まさかきみの弟が実力行使に……」
「いえ、違います」
「じゃあ誰だ!」
「ええっと殿下の護衛騎士の……」
「護衛騎士……あいつか! きみたちはそういう関係だったのか!」
「いえ違いますよ」
そんな青筋立てて怒らないでほしい。
「以前殿下と会った帰り道で、浮かない顔をしていたらどうしましたって声をかけてくださって……経緯を話したら、それなら俺がやりますって……殿下?」
苦虫を噛み潰したような顔をなさってはせっかくの美貌が台無しである。
「……いや、それで?」
「それで……殿下のことで相談に乗ってもらっていたら、いつの間にかお互いにどうしようもなく心が引き寄せられて」
「引き寄せられて!?」
「って設定ならどうだろうって。相談に乗ってもらったことは今までにもありましたし」
「ふ、ふうん……今までにも」
殿下。ティーカップを握る手が小刻みに震えています。
「だって殿下は忙しいって、誰か別の者にしてほしいとおっしゃっていましたから」
「……」
仕事なら仕方ないと思っていたが、それが実は意中の女性のもとへ足を運ぶので忙しかったんだとわかった今、ちょっと、いやだいぶ、いやいやかなりがっかりしたけど……。
殿下もその時の自分を思い返しているのか、非常に気まずい顔をしている。
「まぁ、もういいんです。これで彼に協力にしてもらえば、殿下も、」
「だめだ」
しかし殿下は前回と同様、またしても却下してきた。
「どうしてです?」
「彼の家にも迷惑がかかる」
「その点も大丈夫です。彼は孤児ですから何も問題ありません」
努力と実力だけで殿下の護衛騎士にまでなったのだからとても立派な青年だ。わたしが惚れるのも、まぁ仕方ないと周りも思ってくれるだろう。
「うっ……し、しかしまだ若いんだ! やはり背負うリスクが大きすぎる!」
「そうですか? でも、わたしより年上ですし……」
「いいやダメだ! 若い! そんなの誤差だ! 駆け落ちした果てに信頼を失い、職を失って、お先真っ暗だ!」
「そこはほら、わたしの実家で養うことにして……」
というかあくまでも駆け落ちする振りなのだから後で上手いこと仕事に戻せばいいだけだ。
「わたしと一緒になれるなら、騎士のお仕事でなくても構わない、って言ってくれているんですよ?」
まだどうしようかと話し合う段階なのにすごく真摯に寄り添ってくれて。もし上手くいかなくても俺が最後まで守りますと手を握りしめてくれて……
「絶対にだめだっ!!」
こうして護衛騎士との駆け落ちも認められなかった。
「殿下」
「なんだ」
「殿下がわたしに振られる作戦ですが」
「ああ、またその話か……」
なぜか機嫌が悪く、うんざりした顔をされる。
「何ですかその態度は」
殿下が好きな子と一緒になりたいって言い出したから、こちらは必死であれこれと考えてあげているのに……本当に別れる気あるのかしら。
「今度は宰相閣下に打診しました」
「宰相……公爵だと!?」
「はい」
「女好きでこれまでいろんな女性と浮名を流してきたあの公爵に、バツイチで子持ちの男に、きみは駆け落ちしてくれと、わたしをどうか攫ってと迫ったのか…!?」
「いや、そんな鼻息荒く迫られましても…」
殿下はわたしの声など聴こえていない様子で、信じられない顔をしている。
「な、なんでよりによってそんな相手を選んだんだ!」
「だからこそ、です」
「だからこそ、だと?」
「はい。ほら、公爵ならさもありなん、って感じで世間の方々にも納得していただけるかと。元からクズな人がクズなことしても、ああ、あの人またこんなことしたのねぇ、やれやれ、って感じでそこまでダメージないかと思いまして。これなら私もどちらかというと被害者として見られる可能性もありますし」
年齢も若くないし……でもかっこよくて、王族の血も引いていらっしゃる方だ。宰相でなくなっても、死ぬまで困らず食べていける。閣下も、仕事はしばらくしたくないとおっしゃっていたらからちょうどいい。
「ね。今度こそ、何も問題ないでしょう?」
「ま、まて、」
「閣下も意外と乗り気で、私でよかったらぜひ、って、あ、婚約指輪まで用意してくれたんですよ。ほら、あっ!」
殿下が突然それを奪い取り、ぽーいと勢いよく宙へと投げやった。指輪は大きな弧を描きながらぽちゃんと庭の池へと落ちて沈んでいった。あまりにも綺麗なクリーンヒットにわたしはポカンとする。
一方殿下はいい仕事した、というように額の汗を拭っている。
「な、なんてことなさるんですか! とっても高価で可愛らしいデザインのやつだったのに!」
「それがあの男の手口だ! 騙されるな!」
「別にいいじゃないですか。騙されるのが計画なんですから」
それにけっこう、嬉しかったのだ。異性からの贈り物ってあんなに心がときめくものなのね。
「あんなもの私がいくらでも買ってやる!」
「そういう問題じゃ……わっ」
いつの間にか殿下が目の前におり、わたしの手を握りしめてくる。真剣な瞳で、名前を呼ばれる。
「駆け落ち話はお終いだ。きみは予定通り私の妃となる」
「ええー。でもそれじゃあ殿下の好きな人が、」
「もういい。きみのことで頭がいっぱいになった」
だからもう他の男の話はするなと言われ……なんだそれ、と白けた気分になった。
「殿下。そんなのあんまりです」
ガタンと席を立ち わたしは蔑む目で彼を見下ろした。殿下はそんな態度をとられるとは思っていなかったのかびっくりしている。
「自分から別れたいなんて言い出しておいて、もういいなんて、まるでわたしの気持ちを弄ぶかのように……馬鹿にしています」
「い、いや、決してそんなつもりじゃ、」
今さらそんなこと言われてももう遅い。
「殿下なんて、こちらから捨てさせてもらいます」
この場を立ち去ろうとすれば、我に返った殿下が椅子を倒しながら、転びそうな勢いで追いかけてくる。
「ま、待てっ、待ってくれ!」
腕を掴まれるも、その手をわたしは払いのけた。傷ついた顔をされるが、許してやるものか。
「わたしのことなど放って、さっさと好きな人を追いかければいいでしょう」
さようなら、と冷たく背を向けても、わたしの足は前へと踏み出せなかった。殿下がみっともなく腰に縋りついてきたからだ。
「殿下」
「悪かった。これからはずっときみだけを想うから。だからどうか私を捨てないでくれ!」
わたしを一心に見つめる殿下。どれくらい互いに見つめ合っていただろうか。わたしはゆっくり腰を屈めて、涙を浮かべる殿下と同じ目線になる。そして、にっこりと笑った。
「殿下。これで当初の目的が果たせましたね」
「……へ?」
間抜けな顔をする殿下にそっと顔を寄せて、頬にちゅっと口づけした。
「……え?」
頬に手を当て、さらに間の抜けた顔をする殿下に蕩けるような笑みを浮かべる。
「もうわたしと別れてほしいなんて酷いこと、おっしゃらないでくださいね」
ようやく揶揄われたと気づいた殿下は怒ったように顔を赤くして、だがわたしの微笑に何も言えなくなったように口をぱくぱくさせて、わかったと涙目で約束してくれたのだった。そして改めて好きだと告げられた。
かくして殿下が他の女性と添い遂げることはなく、逆にわたしに捨てられそうになって必死に縋りつく姿を他の人間にばっちりと見られ、王子はあんなにも婚約者のことを愛しているのだという噂が広がって、名前も知らない殿下の想い人も勝ち目がないと諦めて、わたしは無事に婚約破棄を免れたのだった。めでたしめでたし。
ちなみに結婚前に婚約指輪を池に投げ入れると、その男女は末永く幸せになれるという。わたしたち夫婦のように。
おわり