瓢箪の巫女 ~ 猫
ゆらり、と影が揺れた。
暖をとるために起こした、小さな焚き火。そのそばに座り、揺れる炎を一人眺めているのは、二十代半ばの美しい女。
旅の巫女・玲。
「本降りになってきたのう」
玲は洞窟の外に目を向け、雨音に耳をそばだてた。
日が傾き始めた頃から、雨が降り出した。
晩秋の雨は冷たい。あと少しで森を抜けるところだったが、雨宿りにちょうどよい洞窟を見つけ、今夜は早々に野宿をすることになった。
「……遅いのう」
洞窟の外は、夜の闇に包まれ始めていた。
待ち人は、共に旅をしている傭兵剣士・多々良。
薪を拾ってくると出て行って、もうずいぶん経つ。早く戻って来ればよいのにと思いつつ、玲は炎に木の枝を投げ込んだ。
ぱちり、と炎の中で枝が爆ぜる。
濡れて帰って来るであろう多々良のために、少し火を強めておこう──そんなことを考えていることに気づき、玲は顔をほころばせた。
一人ではない。
それが、本当に心強い。
剣の腕もさることながら、やたらと頑丈な体の多々良。旅の共として頼もしいことこの上ない。
だが。
(冬を越せば……多々良ともお別れかの)
出会ってから、まもなく五カ月。成り行きとはいえ、こんなに長く一緒に旅をするとは思わなかった。
それゆえ、別れを思うと、ちくりとした寂しさが胸をつく。その先も共に旅ができれば──そんなふうに考えかけて、玲は慌てて首を振った。
(いかんいかん、何を考えておるのじゃ、妾は)
玲は傍らに置いた大きな瓢箪を見つめた。
死者のための鎮魂の酒。
それを入れる、神の力が宿る瓢箪──玲の罪の証。
結わえた鈴は、静かなままだ。神は知らぬふりをしてくれているらしい。
玲はほっと息をつき、寂しげに笑った。
(あの男を、妾の罪に付き合わせるわけにはいかぬ)
やがて王となる男。
傭兵でしかない多々良を、そう評した豪族がいる。出会う人の誰もが、多々良を信頼し、心を開く。その器の大きさは本物だと思った。
そんな男を、いつまでも付き合わせてはいけない。
多々良とは、成り行きで一緒に旅をしているだけ。この冬は多々良の村で世話になることにしたが、冬が終われば、玲は一人で旅立つつもりだった。
(もう十年も一人だったのじゃ……元に戻るだけじゃろ?)
なぜ自分に言い聞かせているのか──その理由から目を背けつつ、玲は火にくべようと、置いていた木の枝に手を伸ばした。
何かが、音もなく忍び寄って来る気配を感じた。
ハッとなって、玲は気を引き締めた。
考え事をしていて気配に気づくのが遅れたかと、玲は冷や汗をかきつつ腰を浮かせた。
だが、洞窟の入口に立つ小さな気配を見て、玲は「おや」と目を丸くした。
「猫……?」
玲のつぶやきに、ミャオ、と鳴いて、猫が洞窟に入ってきた。
人を警戒する様子がない。さてはこの辺りの村で飼われている猫が、山中に迷い込んだか。そう考えていると、猫はぶるりと体を震わせて水を飛ばし、すぐそばまで来てじっと玲を見上げた。
「おぬし……迷うたのか?」
そっと手を伸ばしてみると、猫は逃げる様子もなく、素直に撫でられている。やはり人に慣れているようだ。
「雨に濡れて、冷たかろう」
玲は火に当てていた手ぬぐいを取り、猫の体を拭いてやった。
猫は、気持ちよさそうに目を細めた。ざっと水気を拭き取ってやると、ニャオ、と鳴いて玲の膝に飛び乗って来る始末。
これは相当、人に可愛がられ慣れているようだ。
「ふふ……」
膝に飛び乗ると、猫は小さく鳴いて体をこすりつけてきた。
まるで甘えるような仕草に、玲は思わず笑顔を浮かべる。
「これこれ。おぬし、野生はどこへ捨ててきた」
「ニャオ」
「やれ、仕方ないのう」
クククッ、と笑いながら、玲は優しく猫を撫でてやった。
猫は気持ちよさそうに目を細めた。その顔、たまらなく可愛い。
「さては一人森をさまよい、さびしかったのじゃな?」
「ニャオ」
「そうよな……一人は寂しい、な」
猫がじっと玲を見た。
その視線に、玲はため息混じりの笑顔を返す。
「ふふ……聞き流しておくれ」
「ニャオ」
「しかしおぬし、いい毛並みをしておるのう」
すでに冬毛となっており、もふもふとした手触りが心地よい。しっかり食べているのだろう、肉付きも良かった。
「昔、妾が住んでいたところにも、おぬしのような猫がいてのう」
食料庫を狙うネズミ対策にと連れて来た、三匹の猫。三者三様の性格で、それぞれに可愛かった。社で暮らす巫女たちの間では「どの猫が一番か」なんて争いもあったぐらいだ。
「ほれ、ここじゃろ?」
玲が肩のあたりを優しく押してやると、猫は「みゃーぉ」と満足そうに鳴いた。
「これでも妾は、猫たちに一番懐かれておったのじゃ。猫のことは、よーく知っておるぞ?」
「ニャオ」
玲の撫で方が気に入ったのか、猫は「もっと撫でろ」と催促するように鳴いた。よしそれならばと撫でてやると、やがて猫は喉を鳴らし始めた。
「おぬし、なかなかの甘えん坊じゃの」
玲の膝の上で、すっかり気を許した猫。何やら庇護欲のようなものをそそられて、玲は猫を膝に抱え、思い切り撫でてやった。
「ほーれほれほれ。どうじゃ、ここじゃろう?」
「ニヤォーン……」
「そうか、満足か。この甘えん坊め」
ほれほれほれ、と。
久々に触れた猫の可愛らしさに、玲は夢中になって撫で回した。猫も思い切り体を伸ばし、自分からお腹を見せてくる始末。
「ほれほれ、ほーれ」
「にゃおん……」
「なんじゃ、今度はこっちか。ほれほれ」
と。
撫で回され悦に入っていた猫が、ぴくりと耳を立て、素早く体を起こした。
「どうしたのじゃ?」
猫が、じっと洞窟の入口を見ているのに気づき、玲もそちらに視線を向けた。
はたして。
「た……多々……良……」
洞窟の入口に、枯れ枝を山と抱えた多々良が立っていて、じっと玲を見ていた。
あ、う、と口ごもる玲に小さくうなずき、多々良は黙ったまま洞窟に入ってきた。
拾ってきた枯れ枝を火のそばに置き、一度入口まで戻って水気を払う。そしてたき火を挟んだ玲の正面に、どかりと腰を下ろした。
その間、無言。
いたたまれず、玲は多々良に問いかける。
「い……いつ、戻ったの……じゃ?」
「うむ、そうだな」
玲の問いかけに、多々良はニヤリと笑う。実に楽しげな笑顔だ。
「猫たちに一番懐かれていた、という自慢のあたりだな」
つまり、猫を撫で回していたところは、一部始終を見られていたということで。
あわわ、と慌てる玲。
そんな玲を見て、ニカッと破顔する多々良。
「そうか、玲は猫が好きか。俺の村にも猫はいるはずだ、楽しみにしていてくれ」
「そ、それは……う、うむ、楽しみにしておこう……かの」
こほん、と咳払いをし、なんとか立ち直ろうとした玲。
だが。
「いやしかし、猫と楽しげに戯れる美女……うむ、いいものを見せてもらったな」
続く多々良の言葉に、玲の頬が熱くなる。
「い、いや、これは、じゃな……」
「玲のあんな無防備な笑顔は初めて見たな。乙女のようで、実に可愛らしかったぞ」
「なっ……!?」
さらに続いた多々良の言葉に、玲の心がドキリと跳ね、顔から、ぼふん、と火が噴き出した。
「いつもあんな笑顔でおれば、世の男どもはイチコロだな。いやあ、眼福、眼福♪」
「え……ええい、そのニヤケ顔、やめんか!」
ニヤニヤと笑う多々良に、玲が思わず叫ぶと。
玲の声に驚いたのか、猫がぴょんと玲の膝から飛び降りて駆け出した。
そして、少し離れたところで立ち止まると、振り返り、玲と多々良を交互に見て。
「ニャーオ」
どうぞお二人でごゆっくり。
そんな感じで一鳴きし、そのまま洞窟の奥へと去っていった。