ターザン~異星の能力を獲得した少年
五、修行
翌日山にもどると、仙人は彼を奥多摩湖につれて行った。観光客が多く訪れる湖ではなく、そのずっと奥にある湖とも川とも区別のつかないところだった。
「ここは海抜千メートル位で、湖の水温はあまり上がらない。夜は十五度くらいに下がる。水深は深くて足は立たない。そこの流木につかまって三日間飲まず食わずで過ごすのだ。どうだ、やる勇気があるかな?」
「やってみます。でも、大小便はどうするのですか?」
「水の中に出せばいい。大便は魚がよろこんで食ってくれる。小便は汗と同じで、腎臓でろ過される分だけ汗よりきれいなものだから、東京都の水源ではあるが、問題はない。さあ、全部脱いで素っ裸になって入れ。三日後に迎えに来るから、それまでは水を飲まずにがんばれ」
仙人はそう言いおいて、山を登って行った。虎三は仙人の後姿が見えなくなるまで見送ってから全裸になった。水は澄んで深く、朝からつよい日差しに照らされているにもかかわらず、肌に冷たく感じられた。首までつかって、ミズゴケの生えたふとい流木につかまった。下を見ると、湖の底は石がごろごろしていて、小魚が数匹見えた。真夏とはいえ、海水浴場とちがって山の湖は水温がひくい。夜はもっと冷えるであろう。三日間も水に浸かっていて心臓は大丈夫なのか。経験がないため不安が先にたつ。海で遭難して荒海にほうり出された人のことを思えば、真夏だし、三日間と定められているだけしあわせだ、と彼は思いなおした。夜中は睡魔に襲われて流木から手をはなした瞬間もあったが、あわててつかまり直した。
朝日がのぼりだすと、闇夜の孤独感からは解放されたが、真夏の太陽にじりじりと焙られるくるしみを味わった。空腹感ものどの渇きも半端ではなかった。水は飲む気になれば目の前にあるのに、飲めないからよけい辛い。気の力を得なければ、アリスンにはとうてい勝てない。気を身につけるための修業なのだから、死んだ気になって耐えるしかない。昔の忍者はきっとこういう修業を積んだのであろう。たったの三日間くらい耐えられないで、世界チャンピオンになれるわけはない、と自分に言いきかせて三日間の水行はおわった。
四日目の早朝、日の出とともに仙人が現れた。
「よくがんばったな。水から出てよろしい。すぐ衣服を着てわしについてこい」
仙人はそう言うと、くるりと背をむけてスタスタと山にむかって歩き出した。虎三はタオルがないので、ぬれた体のまま衣服を身につけると、あわてて仙人のあとを追いかけた。仙人が立ちどまったのは山の中腹であった。樹齢何百年かの大木を眺めあげていたが、やがてだまってうなずいた。
「この木に登れ。なるべく高いところまで登って、木の股に腰をおろすんだ。水の中で一歩前進したから、ここで三日間を過ごすことで二歩前進できる。雷が鳴っても、暴風が吹いても、けっして降りてはならん」
そう言いおいて仙人は山をおりて行った。眠気と喉のかわきと空腹についてのアドバイスは何もなかった。虎三は仙人の後姿を見送って、ふらつく足で大木を登りはじめた。十五メートル位登ったところに恰好の枝をみつけて腰をおろした。この高いところで三日三晩を眠らずに過ごすのかと思うと、さすがに心細くなった。ちょっとでも眠れば、まっさかさまに落下するだろう。落ちれば確実に死ぬであろう。十八才になりたての彼にとって、死は恐怖そのものであった。大木の幹につる草で体をしばりつければ眠れるだろうけど、それをやったのでは修行の意味がなくなってしまう。絶対に眠るまいと自分に言いきかせて一日がはじまった。
眠くなると、木の枝の上に立ったり、座ったりをくりかえして、一晩をまんじりともせずに過ごした。山の夜はシーンと静まりかえって不気味だったが、空気は澄んで気持ちがよく、仙人の棲家にふさわしいと思った。翌日は午後から雨が降りはじめ、夕方にかけて豪雨に変わり、雷も鳴って騒々しい夜になった。雨水が頭から顔をつたわって口元に流れてきたが、彼はぐっとこらえて水を飲まずにたえた。唇がぬれたことはせめてもの救いだった。雨は明け方にやんで、まもなく風が吹きはじめた。夕方から風はしだいに強くなり、又雨がふりだしてきた。どうやら台風らしき様相を呈してきた。強風と豪雨は一晩中つづいた。強風が通りすぎる瞬間は大木の幹にしがみついていないと、吹き飛ばされる恐れがあった。おかげで眠るどころでないことは、睡魔とのたたかいが、最大の課題である彼にとってはむしろ幸いであった。
激動の一夜があけると、うそのように朝日がのぼった。三日目は平穏な一日だったが、睡魔との戦いはかえって辛かった。なんどか滑り落ちそうになったが、かろうじて木の幹にすがりついて樹上にとどまれた。苦しい三日間がおわって朝を迎えると、仙人が木の下から降りてくるよう怒鳴った。彼はホッとして降りはじめた。
「どうやら雨水を飲まずに耐えたようだな」
まるでどこかで見張っていたような言い方であったが、仙人はどこにいてもすべてを見通す能力があるのだろう、と彼は考えた。仙人は自分の洞窟の前に彼をつれてきた。洞窟の正面のわずかな空き地に、一メートル四方くらいの竪穴が掘ってあった。
「この穴に入れ。おまえが入ったら、身動きができないように土をうずめてやる。虫が顔を這ってもたえるのだ。ここで三日間をすごせば、お前の体の中の毒があらかた出切るだろう。しかし、土の中だからといって眠ることはゆるさん。眠りそうになったら、この板でお前の頭をたたくが、百回もたたくとおまえの頭がよけい悪くなるから、わしに百回も叩かせないように努力しろ。ここで三日間がんばったら水だけは飲ませてやろう」
仙人はひとりでしゃべりまくった後、穴のまわりの土をかけて、虎三が首から上だけを出した生き埋めの状態にしてから、洞窟のなかへ入って行った。断食も七日目ともなると空腹感はあまりなかったが、のどのかわきは四六時中彼をくるしめた。このまま水を飲まずに生きていられるのだろうか。船が漂流して、一ヶ月ちかく尿だけを飲んで生還した人の例はきいたことがあったが、水分を九日間もぬいた人の例は聞いたことがなかった。
睡魔も彼を一日中苦しめた。水の中と樹上生活は、一瞬たりとも眠れば命にかかわる環境だったが、土中生活は睡魔とのたたかいであった。日の高いうちは気が張っていたが、暗くなると気のゆるみもあって、ふっと気がつくと瞼が塞がっていることがたびたび出てきた。仙人に迷惑をかけてはいけない、と自分にいいきかせて目に力を入れてがんばったが、しだいに瞼の力がなくなってゆく自分を意識していた。
月夜の晩で、秋の虫がやかましいくらいに鳴いていたが、いつの間にか聞こえなくなっていた。その時、仙人の長い板がとんできて脳天をぴしりと打った。彼はびくっとして目をひらいた。仙人はうしろにいて、彼を見守っていてくれるようであった。土中にしっかり埋められているため、首を回すことができないので、仙人が立っているのか座っているのか分からなかったが、仙人が見守っていてくれることをありがたいと思った。彼はうっかり眠ってしまったことを心の中で詫びて、ふたたび前方をにらんだ。
その時、三十センチくらいの巨大なムカデが首筋から顔へ這い上がってきた。ぎょっとしたが、刺されないためにはじっとしていることがベストだと考えて目だけ閉じた。ムカデは顔から頭に這いあがり、やがて後頭部から首筋へおりて何事もなく去っていった。刺されなかったことにホッとしたが、手で顔をかきむしりたい衝動に襲われた。しばらくすると、大きな蛾が飛んできて額にとまった。首をはげしく振って追い払いたかったが、首までうずめられているのでゆっくり左右にふることが精いっぱいだった。蛾は額にはりついたままいっこうに立ち去ろうとせず、かなりの時間とまっていたがやっと立ち去ってくれた。彼は情けない気持ちになってきた。自分に生気がないから、虫どもは単なる物体だと思っているのであろう。
この山中のことだ、何が近寄ってくるかわからない。もしマムシでも近寄ってきたらどうしよう。じっとしていれば咬まれることはないと思うが、這い上がってこられたら気持ちの悪さはムカデの比ではないだろう。頭の上はあたたかい草むらと同じだから、居すわられてしまう恐れがある。この夜はなにごともなく過ぎたが、翌日の夜は本当にマムシが顔のまえに近寄ってきた。マムシは数十センチもある大物だった。彼はのこりすくない全身の力を目にあつめてマムシを睨みつけた。マムシは彼の目を見ると、生きている人間であることを悟ったのか、顔のまえを横切って草むらへゆっくりと入って行った。それを見送って彼は大きくため息をついた。
三日目の夜中、今度は大きな牡の猪がのっそりとあらわれた。体重が百キロはあろうかとおもわれる大物で、牙をガチガチと打ち合わせて、すごい鼻息を顔面にふきかけてきた。彼はとっさに「こらっ!」と怒鳴っていた。動物と話し合う能力をわすれていた。大猪は死体だとおもって近寄ってきたらしく、突然の怒声におどろいてとびのいた。そして、彼の目をみると慌ててかけだして行った。彼はこの衰弱した体から声が出たことにわれながら驚いていた。飲まず食わずにくわえて、眠らずに九日目をむかえた自分の体にまだエネルギーが、わずかながらも残っていたことに、生命力の不思議さを思わざるをえなかった。シベリヤ狼が二週間も餌にありつけずに飢えていても、トナカイを見つけると、不眠不休で三日間も追跡をして、疲れ切ったトナカイを捕食する、ということを本で読んだことを思い出していた。
「そうだ、おれは狼になるんだ。アリスンなんかに負けるもんか!」
彼は自分を鼓舞して朝をむかえた。日の出とともに仙人が現れた。
「よくがんばったな。今掘り出してやるからな」
と言いながら、板切れをつかって虎三のまわりの土を三分の一ほどどけてから、太いつる草をかれの両脇の下にむすびつけて、そのツルをうしろの大木の枝にひっかけた。仙人がそのツルにぶら下がると、徐々に虎三の体が土の中から現れた。三日ぶりに地上に降り立った彼は、さすがに足元がふらついていた。
「この崖の下に湧水があるから、そこで水を飲んでよろしい。ついでに体と衣服も洗ってこい。ただし、あと四日間の修業が終るまでは食べ物はだめだ。草一本、虫一匹も口にしてはならん」
仙人は崖の下を指さしてそう言った。虎三の空腹感はすでに限界を超えていたが、とりあえず水を飲めることにホッとした。湧き水はつめたく、空っぽの胃袋にしみわたった。これほどうまい水はかつて飲んだことがなかった。崖のうえに戻ると、仙人は
「こんどは呼吸法を伝授する」
と言って、山の頂上のすこしひらけた空き地に彼をつれて行った。山は千五百メートル位の高さかとおもわれたが、洞窟が千二、三百メートル以上の高さであったから、頂上まではわずかな距離であった。眼下にひろがる樹海を見わたしながら、仙人は呼吸法の説明をした。すなわち、足の裏から息を吸い上げて、ひざ、肛門までひっぱり上げ、背中を通して、頭のてっぺんまで息を吸い上げて、てっぺんから吐き出すのだという。要は鼻から少しずつ長く吸って、最後は口から吐き出すのだが、足の裏から吸い上げることをイメージして、頭のてっぺんから吐き出すようにイメージすることであった。
「はじめはうまく行かないだろうが、慣れると足の裏から吸い上げることが実感できるようになり、体中を通って頭のてっぺんから吐き出すことを実感できるようになる。おまえの体は九日間の苦しい修行で、体に気が通るようになった、呼吸法はその仕上げだ。試しにわしの『気』を受けてみろ」
仙人はそういって二歩下がった。虎三はふらつく両足をひらいてふんばった。正面に立った仙人が「エイッ」と低い声で叫んだ。その瞬間、虎三の体は後方に二メートルほど飛んで仰向けに倒れた。彼は起き上がろうとしたが、強い電流に感電したように、全身がしびれてすぐには起き上がれなかった。数秒後にのろのろと起きあがった彼は
「気というものがよくわかりました。気の威力でアリスンを倒すのですね」
と、やっとの思いで言った。
「この呼吸法を一日百回、三日間やるのだ。四日目はわしの『気』を丹田にぶち込んで仕上がりじゃ。三日の間水は飲んでいいが、食べ物はだめだ。木の実や小動物が目につくだろうが、もう少しの辛抱だ、つよい意志をもってやり通せ。夜はここで寝て、四日目にわしの洞窟に来るのだ」
仙人はそう言いおいて飄然と去っていった。虎三は
「足の裏から息を吸い上げろというけど、そんなことを言ったって、実際は鼻から吸うのだから、足の裏は関係ないんだが・・・」
とぶつぶつ言いながら足を見つめていた。息を吸ったり吐いたり、普段より大きく呼吸をしていると、土踏まずのあたりがむずむずし始めた。何度かやっていると、足の裏全体がビリビリし始めた。
「アッ、これだ。こんなことってあるんだ。仙人は九日間の修業で気が通るようになっているといったが、おれの体は生まれ変わろうとしているんだ」
彼は大きくうなずいた。息を鼻からほそくながく吸い上げて行くと、ひざのあたりが抑えつけられたように感じられ、息が太ももを通って肛門に達し、そこから背中を通って、首筋から脳に達し、脳天からでて行く感覚がわかってきた。そのコツが掴めると、面白くなってきた。足の先から脳天まで気が通りはじめてみると、修行しだいでは仙人のように、敵に手をふれずに吹っ飛ばすことができるようになるかもしれない、と思った。
しかし、そうなるには何十年もかかるだろう。水も飲まずに生きていられるようになるには、さらに何十年もかかるだろう。自分はアリスンにパンチを当てて倒せればいい。そこまでできるようにさえなれれば・・・。彼は祈るような気持ちで呼吸法をやりはじめた。しかし、疲れきった体で一日百回の呼吸法はたいへんな重労働であった。なんどかへたり込みながら、暗くなるまでにやっと百回の呼吸法をこなした。山の頂上は空気が澄んですずしく、気をマスターするには最適のような気がした。
夜は草のうえに横になって死んだように眠った。朝は日の出とともに起き出して、呼吸法に取り組んだ。四日目の朝、目をさますと仙人の洞窟をめざして山を降りた。仙人は洞窟の前で待っていてくれた。仙人はにこりともせずに彼を迎えて、「エイッ」という低いが底力のこもったかけ声をかけた。その瞬間、風圧のようなものを感じて彼は三メートルも飛んで倒れた。足のしびれは前回より激しく、起きあがるのに二十秒近くかかった。やっとの思いで起きあがった彼に
「よく修業ができたな。三日間の呼吸法修行でさらに気が通るようになった。さあ、仕上げだ」
と、言いながら彼に近づくと
「両足をひらいて踏んばれ」
といった。彼はもう一度飛ばされるのかと思って、身構えた。仙人は近寄ってきて彼の鳩尾のあたりに軽く手を当てて「ウッ」と言った。彼の腹部に電流のようなものが走った。体中が熱くなった。顔を真赤にした長身の虎三を見上げて、仙人の顔にはじめて笑顔があらわれた。
「これで完成だ。おまえは世界チャンピオンに勝てるだろう。いや、誰が来ても負けないはずだ。勝てば、とんでもない大金が転がり込んでくるが、その金を世の中のためになることに使うのだ」
「何をやればいいのでしょうか?」
「それは自分で考えろ。金は使い方によっては身を滅ぼす元になる。正しく使えば天国へ行かれるし、間違った使い方をすれば地獄に落ちる。天国だ地獄だのと言っても、お前にはよく分からんだろうが、わしの域に達すれば、霊界が見えるようになる。この大宇宙の中のちっぽけな地球に住んでいることを実感できるようになる。金だ、名誉だ、女だ、飲み食いだ、と人間は目の前のちっぽけな事しか見えないものだが、わしには悠久の輪廻が見える。はるか何万光年の星の人々とも交信できる。毎日が楽しくて、わしには人生が何百年あっても足りんのじゃよ」
仙人はそう言って、にっこり笑って虎三を送り出してくれた。