静寂は物語る
絵は言葉よりも雄弁だ。その造形や色彩は、全人類の共通認識を超越して個人に届く。あやふやな分、届く人には凄まじい威力になる。
『お姉さんは、絵を描いているのですね』
それは、彼女においても同じことのようだった。
常に宙を見つめて揺蕩うその瞳は、わずかな光を感じる程度なのだという。
『はい……あ、匂いますか?』
数週間アトリエに籠っていた私には、シンナー臭がこびりついている。
私たちは、広い県民会館で出会った。同じ敷地内で、盲導犬に関するセミナーがあったようだ。ラブラドールレトリバーが大きく印刷された資料が、彼女の腕からすり抜けた。それを拾うところから、私たちは始まったのだ。
『ふふ。目が見えない分、鼻は利くんです』
その時の私は、恐らく人生で一番嫌な奴だったと思う。私が何か月も掛けたグラデーションが、コントラストが、伝わらないんだ。至極勝手な絶望を抱いて、自分の作品を彼女の前に差し出した。
『触ってみてくれませんか』
執念深く重ねて抉った油絵具のでこぼこに、その人の手が伸びるのを、息をつめて見つめた。
『……つるつるしてる。わっ、ざらざらです』
私の絵を、彼女の手が縦横無尽に駆け巡る。視線は宙を向いていたけれど、そこに私の絵があることは明らかだった。柔らかく上がった口角に、こちらも頬が緩む。
それ以来、私は凹凸を意識して作品を作るようになった。
「ちょっと、さぼってるでしょ。分かるんだからね」
ほとんど毎日アトリエに顔を出す彼女は、私の怠け癖によく効いた。
「うー、ちょっと休憩、ゲームしないと死んじゃうんだよ」
ああ。これは、良くなかった。鮮やかな画面で敵を視認した、私の意志で動くキャラクターが構えを取っている。
「そうなんだ」
彼女は平坦な声音で呟いて、数回机を叩いて絵の具を見つけると、それを背中に隠した。
「どーっちだ」
握りしめた両手が出される。
「え、な……」
「どっちに入ってるかゲーム。遊んでくれないと死ぬ」
「……こっち」
左手で、右手に触れた。ハズレだ。正解の右手を握って、それでも足りなくて抱きしめる。
「ごめん」
「いいよ。また絵を描いてくれたら」
絵の具が混ざる音、筆が布を滑る音。たまに、彼女が座り直した時の衣擦れと、私の息切れみたいなため息。何より雄弁な静寂だった。