距離感が掴めない
翌日、スティーヴンは普段より早めに帰宅した。
「おかえりなさいませ」
ミラとジェームズ、そして使用人達がスティーヴンを出迎えた。ジェームズは挨拶を終えるとスティーヴンの側へと寄る。
「ちちうえ、だっこ!」
ジェームズは両手をスティーヴンに伸ばした。ミラは初めて見る息子の行動に驚いたが、それを受けた夫の行動にも驚く。スティーヴンは屈むとジェームズを抱きかかえたのだ。確かに一昨日も王宮で見た光景だったが、父子の距離の縮み方が早すぎて彼女は理解が追い付かない。
「ははうえ、あそぼ」
ジェームズがスティーヴンに抱っこをされながらミラに笑いかける。彼女は困ったような表情を浮かべた。
「もうすぐ夕食の時間よ」
スティーヴンの帰りが遅いので、ジェームズは先に夕食を済ませて、父親におかえりなさいと挨拶をした後で入浴して就寝というのが流れだ。しかし今日は未だ夕食の準備が整っていない。
「やだ、あそぼ」
「夕食の時間までならいいではないか」
スティーヴンの物言いがミラには面白くない。父親らしく振る舞って欲しいと思っていたが、急に父親面されると妙に納得がいかなかった。しかしジェームズに罪はない。彼女は息子の楽しそうな表情を曇らせる気などなかった。
「少しだけよ」
「やった! ちちうえ、え、みて」
「絵の善し悪しは私にはわからないがいいか」
子供に対して真面目に答えるのかと思いながら、歩き出したスティーヴンの後をミラはついていく。流石に子供部屋は把握していたらしく、足取りに迷いがない。
子供部屋に入ると、スティーヴンはジェームズを下ろした。ジェームズは机の上に置いてあった紙を父親に見せる。そこには大小よっつの顔らしき丸が描かれていた。
「ジミー、ははうえ、ちちうえ」
ジェームズはひとつずつ指で丸をさしながらスティーヴンに説明をする。
「もうひとつは何だ?」
「おとうと!」
ジェームズの言葉にミラは固まる。しかしジェームズはそのような事に気付くはずもない。
「あのね、かぞくなかよくすると、おとうとできるの。だからなかよくしよ」
ジェームズはスティーヴンに満面の笑みを向けた。ミラは夫が何を言い出すか不安になりながら二人を見守る。
「妹は嫌なのか?」
夫の返しに気になる所はそこなのかとミラは戸惑う。問われたジェームズもきょとんとしている。
「いもうと?」
「私には弟が二人いるがどちらも可愛くない。妹の方が仲良く出来るのではないか。陛下もサマンサ殿下を大切にしていらしたし、リアンの所も娘が生まれて息子二人が可愛がっていると聞いたが」
父親の言葉にジェームズの理解は追い付かず首を傾げた。ミラはため息を飲み込んで口を開く。
「スティーヴン様、もう少し子供に理解出来るように話して下さい」
「あ、あぁ、すまない」
スティーヴンは素直にミラに謝った後でジェームズに向き合う。そして少し考えてから息子をまっすぐ捉えた。
「弟が生まれたらジミーは我慢が出来るか。母上は弟にかかりきりで今までのようにジミーと遊べないが、それでもいいのか」
「ジミー、おとうととあそぶ!」
スティーヴンが息子を説得しようとしているのかミラは判断に困った。必ず出産出来ない事を暗に言いたいのかもしれない。しかしジェームズは父親の言葉の意味を理解出来ず、ただ要望を口にしている。スティーヴンは表情を和らげた。
「今は私と遊ぶか」
「うん。ははうえも!」
ミラは考える事を一旦やめて、ジェームズの望むまま一緒に遊ぶ事にした。
我儘はあまり言わないジェームズでも、食べむらはある。それでもこの日の夕食は家族三人が余程嬉しかったのか完食をした。その後も遊びたいというのを何とか宥めて、ジミーは使用人に連れられて入浴へと向かい、スティーヴンとミラは居間のソファーに向かい合わせで腰掛けていた。
「ジミーは本当にいい子だな。私を父親として受け入れてくれる」
「えぇ、それは私も意外でした」
ミラは内心複雑だった。挨拶しかしていなかった父と息子の距離が急に縮まっている。父親らしく振る舞って欲しいとは思っているが、時間がかかると思っていた。余程王宮で兎を見たのが楽しかったのか、遠慮をしなくていいとジェームズが察したからなのか、家族仲良くしようとしているのか、彼女には判断出来ない。
「ミラには感謝してもしきれない」
「急にどうなされたのですか」
ミラはスティーヴンの感謝の言葉がむず痒く、素っ気なく対応した。ジェームズはあっさりと順応しているが、彼女は夫との距離感を掴み切れていない。
「いや、感じた事は言葉で伝えようと考えを改めた」
「左様でございますか」
「私は女性に好かれる質ではないと自覚があるから、ミラも違うと思い込んでいたのだ。仕事以外何も出来ない私との夫婦関係を継続してくれて有難いと思う」
「離婚しなかったのは私の都合であり、スティーヴン様の為ではありません。それよりお仕事は大丈夫なのですか」
珍しく昨日一日休んでいたのだ。その前も仕事を滞らせていたはずなのに、いつもより帰宅が早かった。ミラはそれが不安で仕方がない。
「あぁ。やるべき事は片付けてきた。仕事を終わらせずに陛下が帰宅の許可を出すはずがない」
スティーヴンに説明されてもミラは納得出来ない。最近のエドワードは彼の仕事中に夫婦の話し合いの時間を設けたり、息子と動物見学を許可したりしているのだ。
「陛下は執務に妥協などしない。それ程疑うなら直接尋ねても構わない」
「陛下は気安く接する方ではありませんので遠慮致します」
「陛下に気兼ねなど要らない。それに陛下は私よりもミラを信用している」
スティーヴンの言葉がミラには信じられなかったが、彼は冗談など言ったりしない。
「スティーヴン様が陛下に一番信用されていると思っておりましたが」
「私もそう思っていたのだが、どうも違うようだ」
「何かありましたか?」
「ミラと離婚したら帝国へ追放すると言われた」
「追放?」
ミラは信じられず言葉を繰り返す。いくら何でも離婚しただけで侯爵家当主を追放するとは彼女には思えなかった。
「あぁ。私を事故死扱いにして、ジミーを当主にすると。ミラは王妃殿下の為に必要だが私は要らないと」
内容を聞いてミラはナタリーの言葉を思い出す。確かエドワードが強硬手段に出ると言っていた。スティーヴンにとって何が一番辛いかといえば職を失う事。間違いなく彼の尻に火をつけただけの方便だと彼女は判断し、思わず笑みを零した。
「何がおかしい」
「いえ。スティーヴン様は陛下にとって、とても大切な人なのだなと思いまして」
「今の話のどこから、そう判断出来るのか」
「陛下がそのような事を本気で仰せになるはずがないではありませんか。仕事が出来なくなっていたスティーヴン様に喝を入れただけですよ」
ミラに指摘をされスティーヴンは少し考える。そして納得したのか小さく頷いた。
「陛下はたまに本気か冗談かがわからない」
「スティーヴン様でもわからない事があるのですか」
「自分に向けられている感情がわからない。ミラが実際私の事をどう思っているのかもわからない」
「スティーヴン様が私の事をどう思っていらっしゃるのか私もわからないので、それはお互い様ですね」
「今更過ぎるが会話を重ねるべきなのだろう。その為に寝室を使ってもいいだろうか」
ミラはスティーヴンの言葉に眉を顰めた。結婚当初に別々で寝ると彼に言われて以来、夫婦の寝室で彼女は休み、彼は自室のベッドで寝ている。
「雰囲気が足りません」
「いや、その雰囲気を作るにはまず夫婦の寝室で会話をするべきではないだろうか。もしここでそのような雰囲気になったとして、私はどうしていいかわからない」
スティーヴンの言葉にミラは納得するしかなかった。仮に一階の居間でいい雰囲気になったとして、二階の寝室までどう移動すればいいのか彼女もわからない。夫婦の寝室は二人の私室の間にあり、廊下に出ずとも出入り出来る構造だ。一緒に寝るのが嫌なら夫の部屋に追い出せばいいのである。
「わかりました。お好きにどうぞ」
「あぁ。では風呂に入ってくる」
「えぇ、ごゆっくり」
今の会話で何故入浴になるのかミラには全くわからない。元々会話は続かなかったし、仕方がないのかもしれない。彼女は部屋を出ていく夫を見送って、距離感がわからないと頭を抱えた。




