当主夫人と執事
夕食後、ミラはスティーヴンに出すハーブティーを指示した後、ギルバートと自室で向かい合って座っていた。テーブルの上には彼女が王宮で購入したものが広げられている。
「勝手な事をして悪かったわ」
「こちらは旦那様に八つ当たりの意味で購入されたのでしょうか」
「友人と楽しく選んだものよ。どれも気に入っているの」
ミラは最初こそ戸惑ったが、思い返すと楽しい時間だった。自分に似合うものを選ぶ事自体が新鮮で、緋色のワンピースをはじめ購入したものは全てあの時間ごと大切にしたいと彼女は思っている。
「奥様が気に入っていらっしゃるのでしたら何も問題はありません。奥様の予算はまだまだありますから、今後も気にせず買い物をして頂いて構いません」
「まさか、返していたのを残しているの?」
「奥様の予算は旦那様の妻という肩書に対する報酬です。私が勝手に手を付けていいものではございません」
ギルバートはにこやかに微笑んだ。ミラが使わないからと返した予算はかなり積みあがっている。ミラは帳簿を確認していたが、その項目はただ貯蓄とされていた為に彼女は把握出来ていなかった。
「貴族の妻は無報酬でしょう?」
「いいえ、旦那様は奥様の支えがなければ仕事も出来ない駄目男という事が判明致しました。今後は奥様の予算を増やしましょう」
「いいわよ、使い切れないから。それよりも駄目男なんて表現は良くないわ」
「旦那様は私が何を言おうと聞き流されますから平気です」
ギルバートは平然としている。ミラは夕食時の会話を思い出した。
「そう言えばギルバートの名前を知らなかったと聞いたけれど」
「確かに名前を呼ばれた事がない気もしますが、問題ありません」
「ないの?」
ミラは思わず聞き返す。名前を覚えられていない事を流されるとは思っていなかったのだ。
「えぇ。中途半端に干渉されるよりは、何もされない方がこちらも動きやすいですから」
「それはそうかもしれないけれど、当主と執事の関係でしょう?」
「私は奥様を当主だと思っております。旦那様は給金を運んでくる居候でしょうか」
スティーヴンも大概だと思っていたが、ギルバートもなかなかだとミラは思った。公爵家嫡男だった男に居候とは辛辣である。
「ここはスティーヴン様が生まれ育った屋敷よ」
「レスター家は昔から冷めた家でした。奥様はこの家に嫁いですぐ大奥様を亡くされて大変苦労をされたにもかかわらず、私共にいつも優しく温かく接して頂き感謝の言葉もありません」
「私は自分に出来る事をしただけで、感謝されるような事はしていないわ」
「奥様は昔から自己評価が低くて困ります。リスター家は奥様なしでは回らない事を覚えておいて下さい」
「スティーヴン様とギルバートがいれば大丈夫でしょう?」
「いいえ。奥様がいなければこの家はありません。レスター公爵家からリスター子爵家になった時に、旦那様は何の危機感も抱いておられませんでした。レスターの所領はこちらの管轄外でしたから仕方がないとしても、どれだけの人間の生活を支えているかを旦那様は理解されていないのです」
レスター公爵家時代の所領収入は当時当主であったスティーヴンの父親が完全掌握していた。故にスティーヴン夫妻の自由に出来る金は彼の給金のみという事情は変わっていない。レスター家が取り潰された時も、スティーヴンの父親に仕えていた者は多かれ少なかれ国家反逆罪に関わっており、裁かれた者も多い。一方スティーヴンは一人で全てを抱え込んでいた為に彼の使用人は全員無罪であったが、それを証明する発想が彼にはなかった。当時ギルバートはスティーヴンの従者でしかなかったので表立って動けず、それを救ったのは紛れもなくミラである。
「根は優しいと思うのだけれど、常識と思考力が足りないのよね。私がもう少し話す努力をするべきだったわ」
夫婦として語り合う時間が少なすぎたのだろうとミラは思う。スティーヴンも話す事がなかったのではなく、黙る事を選んだのかもしれない。彼女は夫と楽しく会話をしようと努力はしなかった。それが黙っていてほしいという態度に見えてしまった可能性はある。それで子爵家になった時も黙っていたのではないかと彼女は考えた。
「そのように考えられるのは奥様だけだと思います」
「そうかしら」
「えぇ。旦那様は陛下中心の方ですから」
「それは否定しないけれど」
「ですが、奥様は特別なのかもしれません」
「どこが?」
ギルバートの言葉にミラは冷めた声で返した。それに対し彼は優しく微笑む。
「奥様の事は結婚当初から名前で呼ばれます。妻と認識されていた証拠でしょう」
「いくら何でも結婚相手の名前くらい普通は覚えると思うけれど」
「普通は執事の名前を覚えるものですよ」
ギルバートにそう返されるとミラは何も言い返せない。
「それに奥様がお戻りにならなかった日、すぐに気付かれました。無表情ではありましたが内心とても焦っておられたと思います」
「焦っていたならすぐに迎えに来るのではないかしら」
「旦那様は己の感情で行動する事は苦手ですからね。それは奥様もそうだと思いますけれど」
「私はもう我慢をしないと決めたの。スティーヴン様の為ではなく、自分の為に生きようと。勿論皆の生活は守るから安心してね」
ミラは微笑んだ。自分の中で決意はしたがいつ揺らぐかはわからない。だから彼女は使用人達にも気持ちを告げて後押しして貰おうと思ったのだ。その気持ちをギルバートは受け止めた。
「奥様が戻られた時、普段とは違う華やかな雰囲気で私は嬉しく思いました。居候など気にせずジミー様と楽しく暮らせるよう、私共も精一杯勤めさせて頂きます」
「あのような方でもスティーヴン様は私の夫なの。居候扱いはやめて頂戴」
「奥様のご希望でしたら従いますけれど、本当に宜しいのでしょうか」
「えぇ。そう言えば当主として家の事に関わりたいとも言っていたけれど、とりあえず断っておいたわ。それでいいわよね?」
「勿論です。ですが一体どのような風の吹き回しでしょうか」
「家族の一員として当主の仕事をするという結論に達したみたい。それなら今までは何だったのかという話なのだけれど」
ミラは小さくため息を零した。一体どういうつもりで今まで暮らしていたのかをスティーヴンに問い質すべきか彼女は迷っている。
「先日、旦那様には奥様がどれ程の仕事をしているか知って頂く為に嘆願書をお持ちしました。何か考える事があったのでしょう」
「あら、それを見て私を迎えに来たのかしら」
「ですが、奥様は元々帰るつもりだったとハンナから聞きましたが」
「ジミーの為よ。あの子には何の罪もないのに大人の都合で悪い事をしたわ」
「急に弟が欲しいと言い出していましたね」
「誰の入れ知恵なのかわからないのだけれど困ったものよね」
ミラはそう言いつつも表情が柔らかい。スティーヴンに甘い雰囲気など作れるのかは疑問だが、期待していないと言ったら嘘になる。彼女は夫が変わる事を望んでいるのだとギルバートはその表情で察した。
「奥様、言葉の割に困った様子がないのですけれど」
「ジミーも兄弟が居た方が人として成長出来るだろうとは思っているわ」
「旦那様には弟君が二人いらっしゃいます」
「スティーヴン様はブラッドリーがお義父様に付き合いきれずレスターを捨てた時、ガレスへ逃げるのを黙認したわ。こちらへ戻ってきた時も責めなかった。一応弟思いと言えるのではないかしら」
「ただの無関心ではないでしょうか」
無関心と言われればミラもそう思わなくはない。しかしブラッドリーは軽率な所があり、口を封じた方が安全ではあった。それでも家を捨てたブラッドリーが悪いと責める事は出来ない。王家を裏切る父親に嫌気が差して、王家を守る赤鷲隊に腰を下ろしたのは公爵家の人間としては正しいのだ。それをわかっていてスティーヴンは黙認したのだと彼女は思っている。
「スティーヴン様はどうであれ、ジミーはジミー。出来れば何不自由なく整えてあげたいの」
「ジミー様の為に奥様が犠牲になる必要はないと思いますよ」
「言ったでしょう? 私はもう我慢などしない。嫌な事はしないわ」
「奥様が納得されているのでしたら私は何も申しません。奥様とジミー様が笑顔で暮らせるのであれば何も問題はありませんから」
「心配をかけて悪かったわ。ジミーの為にも自分の為にも笑顔で過ごしたいの。これからも頼むわね」
「勿論でございます。精一杯勤めさせて頂きます」
ギルバートは真面目な表情をミラに向け、彼女は頷いてそれを受け止める。これで家を空けて溜まってしまった諸事は全て片付いた。あとはスティーヴンとの事だけ。彼女はとりあえず明日の夕食後、夫がどう出るかを見てから考えようと決めた。




