夫婦の話し合い
ミラは約束の時間より早めに指定された部屋に入った。静かな部屋の中でソファーに腰掛けて息を整える。不本意な言葉は言わない、彼女はそう自分に言い聞かせた。
暫くして扉を叩く音がした。ミラが返事をするとスティーヴンが無言で入ってきて、ミラの向かいのソファーに腰掛ける。彼女は夫がまともな格好をしていて安堵した。エドワードに伝えた通り、昨日使用人宛に手紙を書いたのだ。三日分の服装を事細かく指示し、その通りの格好である。
「私に出来る事なら対応する。だから屋敷に戻ってきてもらえないだろうか」
元気だったかなどの言葉はなく、用件を告げるスティーヴンの声色は淡々としている。焦りなどは感じられない。ミラは夫から視線を外した。
「具体的に何をして頂けるのでしょうか」
「私はミラが何を望んでいるのかわからないから、何をするべきか教えてほしい」
「陛下の気持ちはおわかりなのに、私の事は何もわからないのですね」
ミラは仕事と私のどちらが大切かなどとスティーヴンに聞く気はない。むしろ国王の側近である以上は仕事を優先するべきだと思っている。だが、多少家庭の為の時間があってもいいのではと思う。
「女性に疎くて申し訳ない」
「男女の問題ではないと思います。スティーヴン様は私に興味がないのでしょう。興味のない女性の機嫌など取らなくても宜しいと思いますよ」
ミラは自分の受け答えが正しくないと思いつつも、己の口から出る言葉が止められない。見た目はエミリーが整えてくれたので綺麗になっている。しかしそれに対してスティーヴンは何の反応もない。彼女は少しだけ期待していた自分の愚かさを隠すように本音を押し殺す。
「興味がないわけではない」
スティーヴンの淡々とした物言いに、ミラは視線を彼の方に向けた。無表情な視線とぶつかり、彼女は冷めた視線を返す。興味が少しでもあれば普段と違う事には気付くだろうが、やはり彼は何も気付いていなさそうだった。
「興味があるのでしたら、もう少し会話が続くと思うのですけれど」
「仕事以外はよくわからない」
「それはつまり、仕事以外に興味がないという事ではありませんか」
ミラは視線を伏せた。距離を置いてみてもスティーヴンの反応は変わらない。エドワードに言われて渋々説得を試みようとしているのか、彼から誠意も感じられない。人生の半分をこの男と共に過ごしたと思うと、彼女は自分の人生が虚しくなってきた。
「だがミラがいないとその仕事さえ上手くこなせない」
「侯爵家当主として随分と情けない話ですね」
「ミラが嫌だと言うのなら無理強いをする気はない。陛下は何とか説得する」
「私が居なくても仕事が出来るのなら明日からしっかりして下さい。全てを私のせいにされるのは困ります」
ミラはスティーヴンに不満気な表情を向ける。彼は申し訳なさそうにした。
「これは私のせいだ。それはわかっている」
「左様でございますか。私が望んでいる事も本当はわかっていらっしゃって、ですがスティーヴン様にとって都合が悪いから、わからないふりをされているだけなのでしょうね」
ミラはスティーヴンを真正面から睨みつける。彼女は悔しくて、何も変わらない状態で帰るものかと意地になった。
「ミラが望んでいるのなら、私に不都合などない」
「ジミーは弟が欲しいと言っていました」
スティーヴンは眉を顰めた。ミラも唐突なのはわかっている。それでも出来るのならやってみろと、言わずにはいられなかった。
「それは私がジミーを説得しよう」
ミラは言わなければよかったと後悔をしたがもう遅い。何故進んで自分の心を抉ってしまったのか。父親らしくないスティーヴンの答えなどわかっていたのに、息子の願いなら聞いてくれるかもしれないと、どこかで期待していたのだ。
「それほど私を抱くのが嫌ですか。はっきりと陛下にそう申し上げれば宜しいですわ」
「嫌だとは言っていない」
「ジミーを説得するなら、そう仰っているのと同じです」
ミラは虚しさよりも苛立ちが勝ってきた。スティーヴンは珍しく視線を彷徨わせている。それが彼女をより苛立たせた。そもそもジェームズの時に義務的な態度をしてくれれば、彼女は貴族だからと割り切っていられたと思っている。全ては目の前の男が優しくしたのが悪い、彼女は自分の態度を棚に上げてそう判断をした。
「陛下に言われて跡継ぎの為に私を嫌々抱いたのなら、態度にも示して下さればよかったのです」
「嫌々ではなかった」
「ですが、陛下の願いは聞けてジミーの願いは聞けないのでしょう?」
「嫌々だったのはミラの方だろう?」
ミラは責任転嫁された気がしてスティーヴンに不満気な表情を向ける。最初は確かに国家の為だと割り切っていた。しかしそれを態度には出さないように気を付けていた。十年何もなかった夫婦が一緒に寝るのだから雰囲気くらいは必要だろうと、彼女なりに考えて対応したのだ。
「最初は急にそのような事と戸惑いました。ですが、ジミーを授かり育てていく中で、子供のいる人生を歩めてよかったと思えたのです。あと何人か子供が増えたらより楽しいでしょう。スティーヴン様にとっては煩いだけなのかもしれませんが」
「煩いとは思っていない。接し方がわからないだけで」
「陛下からの依頼もわからないと逃げられるのですか? 必死に考えられますよね? 私とジミーには関心がないから考える事もなくわからないで片付けてしまうだけでしょう?」
「いや、だが」
スティーヴンは何か言いかけてやめた。言い淀んだのがミラは気にくわない。
「何でしょうか。私もスティーヴン様の全てを存じ上げているわけではありません。言葉にして頂けないとわかりかねます」
「ミラは辛そうな顔をしていたではないか」
「私がいつ辛そうな顔をしましたか」
ミラはスティーヴンの前では常に夫を支える妻として振舞っていた。辛そうな顔などした記憶はない。彼は気まずそうに視線を伏せた。
「私が抱いている時だ。回数を重ねるほどミラが辛そうで、陛下に言い訳を考えていた時にジミーを授かったかもしれないと聞いて安心した」
ミラは一瞬で苛立ちが消えた。スティーヴンが出産後に抱かなかったのは、自分の態度のせいだったと彼女は理解してしまったのだ。素直に接していれば変わったのかもしれない。今から訂正すればと思うものの、この状況で素直に言う勇気が彼女にはない。
「多分耐えている表情が辛そうに見えたのでしょうが、辛くはありませんでした」
「苦痛に耐えてまで子供を産む必要はないだろう」
「耐えていたのは快楽です」
スティーヴンは不審そうな表情でミラを見つめる。彼女はつい零した本音に自分で驚き、一瞬迷ったものの開き直る事にした。
「私だけが悦んでいるなど悔しいではありませんか。スティーヴン様はいつも無表情で無言。ですから私も義務を果たしている体にしようと。わかっていますよ。スティーヴン様に惚れた私が悪いのです。笑いたければお好きにどうぞ」
ミラは一気にまくし立てて顔を背けた。言葉にしたものの、本気で笑われたら辛い。スティーヴンの性格からして笑わないとは思うが、呆れた表情を見るのも彼女は嫌だった。
しかし一向にスティーヴンは言葉を発しない。ミラも何を言えばいいのかわからないが、彼を困らせた自覚はあった。勢いで告白されて対応出来るような男でない事など彼女はよくわかっている。自分が口を開かない限りこの沈黙は続くのだと、彼女は諦めた。
「そろそろ執務に戻られてはいかがですか」
「戻って来なくてもいいと陛下に言われている」
「それでは屋敷に戻られたら宜しいのではないでしょうか」
「ミラはどうするのだ」
ミラはスティーヴンから顔を背けたまま、無言を通した。出来れば王宮に残りたいのだが、エドワードがこの場を用意した以上、既に部屋が片付けられている可能性がある。
「一緒に屋敷に帰らないか」
「スティーヴン様は乗馬で通っておいででしょう。一緒になど無理ではありませんか」
「馬車を呼べば一緒に帰るのか」
「嫌です」
ミラが視線をスティーヴンに戻すと、そこには困惑した表情があった。彼女はこの状況で帰ると思われていた事に驚いた。どう考えても気まずく、一緒に帰る選択肢を彼女は持てない。
「それは時間が必要という事だろうか。それとも離婚する決意を固めたという事だろうか」
「戻った所で以前と何か変わりますか?」
「ミラが本当に望むなら子供の件は対応する」
「無理して抱いて頂かなくて結構です。これ以上私を惨めにさせないで下さい」
ここで泣けばスティーヴンにも少しは響くのかもしれない。そう思ってもミラの瞳は乾いたままだった。悲しい気持ちより怒りの方が勝っていたのだ。
「無理はしていない」
「左様でございますか」
「先程の言葉と今の態度が合わなくて、どう受け止めていいのかわからない」
「それでしたらお一人でゆっくり考えられたら宜しいと思いますよ」
「ミラはこれからどうするつもりなのか」
「さぁ。早くお帰り下さいませ」
スティーヴンは少し迷った後、言葉を発する事なく部屋を出ていった。扉が閉まるのを確認してミラはソファーへと身体を預ける。感情的にならないでおこうと思っていたのに、言わなくていい事を口走ってしまった。これでは息子にどう説明すればいいのか答えが出ない。彼女は自分がどうしたいのかさえわからなくなっていた。
 




