何もわかっていない夫
「おかえりなさいませ」
スティーヴンは帰宅時にいつも聞こえる声が足りなくて周囲を見渡す。だがやはり二人は見当たらない。
「ミラとジミーは?」
「王妃殿下からの要望で奥様はジミー様と共に暫く王宮で寝泊まりをされるそうです。旦那様にはお話が通っていらっしゃらなかったのですか?」
スティーヴンは執事の問いに頷く。彼は何も聞いていなかった。それでも王宮事情には通じている。現在シェッド帝国からの重要参考人が地下室に匿われているので、それ絡みかもしれないと彼は判断をした。ミラのように帝国語が話せる女性はレヴィ王国では珍しい。
「王妃殿下からの要望というのは間違いないのか」
「はい。薔薇の封蝋をされた書面を頂いております。確認されますか」
スティーヴンが頷いたので、執事は封筒を差し出した。その封筒は封蝋が壊れないように、ペーパーナイフで封を切ってある。封蝋はナタリーの物で間違いない。内容も一応確認しておこうと、彼は手紙を開いた。
――執務が重なり、また身重の為に滞りなく公務をする事が難しい状況をミラが気付いてくれ、手伝いを申し出てくれました。リスター侯爵家の皆様には申し訳ありませんが、暫くミラを側に置きたく思います。 ナタリー ――
スティーヴンはナタリーの筆跡を記憶していないが、内容に不審な点は見当たらない。執務が重なりというのも帝国からの重要参考人の事だろうとスティーヴンは判断をする。この話はエドワードが水面下で進めていて、それを彼は知っていたがナタリーには知らされていなかった。ナタリーにしてみれば突然降ってわいた話だ。元々妊娠中という事で公務自体は減らしてあるが、それでも全てをなくすわけにはいかない。補助を望むのは自然だと彼は思い、手紙を畳んで封筒と共に執事に返した。
「王妃殿下のもので間違いないようだ」
「旦那様は毎日王宮へ出向かれるのですから、一緒に通われれば宜しいと思うのですけれど」
執事は何処か不満そうに零した。スティーヴンは毎日王宮へ乗馬で通っているが、馬車を使っても問題はない。彼の中でやっと違和感が生じた。
離婚の二文字がスティーヴンの頭の中に浮かぶ。その準備と相談の為にナタリーを巻き込んだと考えて、ミラの性格からそれはないと、すぐにその可能性を消す。エドワードからナタリーに話が伝わって、何か相談をしているのかもしれない。
「旦那様?」
「私は王妃殿下の執務に詳しくない。朝晩するべき事があるのかもしれない」
「王妃殿下の希望でしたら断れませんけれど、出来る限り早くお戻りになられるよう是非お願いして頂けないでしょうか。屋敷内が滞ります」
「ミラが居ないと何か問題があるのか」
スティーヴンは執事が何を言いたいのかわからなかった。ミラとジェームズが揃って家を空け、自分は仕事の為にほぼ家にはいない。むしろ楽が出来るのではとしか思えなかった。その雰囲気を読み取って、執事は無表情にスティーヴンを見る。
「旦那様が宜しいのであれば、私達は問題ございません」
スティーヴンは一人で夕食をとった。向かいの席にミラが居ないのは何だか不思議な気分だった。たまにミラが話す事はあっても基本的には静かなのだ。それでも存在がないだけで落ち着かなかった。
夕食を済ませ、入浴後スティーヴンは自室に戻ると、いつものハーブティーがない事に気付き、呼び鈴で使用人を呼んだ。
「お呼びでございましょうか」
「いつもの茶は?」
「本日は奥様からの指示がないのでご用意しておりません」
スティーヴンはハーブティーがミラの指示によるものだと知らなかった。彼はいつからハーブティーを飲むようになったのかと必死に思い出す。
「今から用意してくれ」
「茶葉は何に致しますか」
「いつもので」
「奥様からの指示は毎日違いました。ですから指定して頂かないと対応致しかねます」
使用人の問いにスティーヴンは困惑する。そう言われると毎日違ったような気がするが、どれが何なのかは全くわからない。
スティーヴンの困惑を感じた使用人は、少々お待ち下さいと言って一旦下がった。そして暫くしてからカートを押して戻ってきた。カートの上には何十もの瓶が並んでいる。
「こちらで全てになります。どれになさいますか」
瓶にはそれぞれ名称が書かれてあるが、スティーヴンには違いなどわかるはずもない。
「どれが一番多かった?」
「私は指示されたものをお出しするだけですので、統計は取っておりません」
スティーヴンは文句を言おうかと思ったが、自分も何の味が多かったかなどわからない。使用人は何が多かったか本当はわかっているが、あえて出す気はなかった。ミラがいつも夕食中にスティーヴンを観察し、何がいいかを決めていたのだ。そのミラの気持ちを大切にしたかった。
「ミラが一番好んでいたものはどれだ」
使用人は一瞬迷った。勿論ミラが好きなものはわかっている。だが、それをスティーヴンにここ三年で出した事がない。しかしミラが指示をしなかったという事はスティーヴンが苦手なのだろうと、素直に申告する事にした。
「奥様が好まれていたのはラベンダーですが、旦那様に出した事はありません」
「それでいい」
「かしこまりました。ご用意致しますので一旦失礼致します」
使用人は一礼するとカートを持って一旦下がった。そして再び戻って来ると、ハーブティーと水差しとグラスを置いて部屋を辞していった。水差しとグラスは口直し用にと使用人のせめてもの気遣いである。
スティーヴンはカップを持ち上げて首を捻る。最近はなかったと思うが、昔は飲んでいたような気がする。そして一口飲んで、また首を捻る。最初の頃は出てきた気がするのだ。それがいつなのかと必死に記憶を辿り、四年近く前だと思い出した。
ミラは元々茶会を催す側だった為、茶葉とハーブには詳しかった。しかし茶葉の方が詳しかったのだ。ハーブに拘りだしたのは子爵になってからである。スティーヴンにハーブティーを出すようになったのは、仕事の疲労で落ちるように寝ていた夫が、仕事量が減って眠れなくなっていると気付いた為だ。精神状態で好む香りが違うので、ミラはそれを毎日見極めて指示していた。
スティーヴンはこれではないと思っても、何が飲みたいのかはわからない。仕方なく飲み干すと、ベッドに身体を預けた。
祖母の思惑を考えようとしても、どうしてもスティーヴンには思いつかない。同じ派閥に年頃の娘が居た、ただそれだけに思えた。しかしミラが王宮に留まったのはエドワードの指示としか考えられない。王宮で寝泊まりをする貴族など、彼は聞いた事がなかった。だが、離婚した場合、出ていくのは自分の方だと言われた。王宮に留まるのが何故ミラなのだろうか。
スティーヴンは寝返りを打つ。今まで彼はエドワードに忠実に仕えてきた。エドワードを誰よりも理解していると思っている。だが、ミラを王宮に留めたエドワードの思惑が彼にはわからない。距離を置いて頭を冷やせという事なのかもしれないが、彼にはこれ以上冷やす部分がない。どちらかと言えば、ミラの方が怒っていたような気がする。
スティーヴンは再び寝返りを打つ。エドワードに言われた、家族を見直せという言葉。それをミラに告げた時の態度。あの時、興味がないと言われたのが彼は引っかかっていた。興味がないわけではない。女性として愛しているかと言われると、違うだろうと思うのだが、離婚したいわけではない。彼はジェームズが生まれて、家族になったのだと思っている。だが、夫としても父親としても振舞えていない自覚はあった。それ故にジェームズを連れて離婚したいと言われたら、仕方がないとしか思えない。
この夜、スティーヴンは唸りながら、結局一睡も出来なかった。




