- 始まりのはじまり - (4)
【境界】の中は無音である。
【魂】や【想】は音もなく通り抜けるだけだし、【境界守】は独り静かに坐すだけで、声を出すことなど久しくない。
静かなとても静かな【境界】に、曖昧でぼんやりとただ在るだけの疎まれている【境界】の中に、突如声が響き渡った。
≪あなた方も、行き来すればよいのではありませんか?≫
人間はおろか神にすら見向きもされなくなった彼らには、久しく……否、【境界守】になって初めて耳にする、生命ある者の声であることにまず驚いた。高くもなく低くもない平坦な口調だが、どこか愉しげで心地よい声であった。
『我らが……行き来……?』
小さな村の片隅にある泉の【境界守】が思わず呟いた。ぽこりと小さな泡が泉から湧き出たような幽かな呟きだったが、伝わったのか応えがあった。
≪そうですよ。でも、あなた方すべての【境界守】が一度に動いてしまうと、混乱が起きかねません。それに、あまり遠くの【境界】へ渡るのもよろしくはないでしょう≫
≪例えばですよ……村から町、町から国、さらに聖域とされる四つの地へと、【境界】は大きくなりますから、村の方は町へ、町の方は国へ、国の方は聖域へと行き来してはどうでしょうか?≫
他の【境界守】の声が聞こえたことにも驚いたが、応えのあったこと、さらに告げられた内容に面食らった。が、町に鎮座する祠に祀られていた【境界守】は、とっさに返した。
『我らの役目は、【魂】と【想】を管理するのみである』
≪ええ。【魂】が此岸と彼岸、【想】が夢と現を行き来するのを管理するのですよね。ですから、あなた方が引き連れて次の【境界】へ引き渡すのですよ。そして、別のものを引き受けてともに戻るのですよ。動いてはならぬとは、命じられていませんでしょう?≫
≪【魂】のほうが安定していますから、こんな感じにしてみてはいかがでしょうか。各村の方は、日を定めて彼岸へ渡る【魂】を連れて町の【境界】に渡り、此岸に戻る新しき【魂】とともに己の【境界】へと戻るのです≫
≪各町の方は、村から渡ってきて留めておいたものと、己の【境界】に直接来たものを連れて国の【境界】へ、国の方々は聖域へと渡り、また別のものとともに戻るのです≫
≪聖域の方々は、すべての【魂】を彼岸へ送り出し、此岸に戻るものを受け入れるのですよ。そうすれば、あなた方は常に独りではないではありませんか≫
まるで洪水のように、次から次へと流れてくる声が唐突に収まると、静寂が戻った。
彼らは最初驚くばかりであったが、次第にその提案について考え始めた。
独りで……否、声を発し返ってくる幽かな声を聴きながら。
……できるやもしれぬ……だがしかし……いや、それよりも……
泡沫のような声が、あちらこちらの【境界】で生まれては消えていく。
次々とあがる声を聴いていた聖域の【境界守】は、小さな笑い声に気づくと、
『して、いかようにするのか、此岸の者よ?』
氷雪が襲いかかりそうな低く重い声で問いただすと、【境界守】たちはいっせいに沈黙し、愉しげな笑い声だけが残った。
≪ふふっ……。あぁ、失礼致しました……≫
ふぅっと吐息が小さく響く。
≪いかように、とは?≫
『小石を投げ入れて波紋を起こすのみで、見もせぬのか。我らの声が聴こえたであろうに、いかように始末をつけるのかと問うておる』
問いかけに被さるように、いくつもの声があがる。
≪音のない【境界】にこれほどの音色が聴けるのかと……。それで?≫
知りたいことはなにかと愉しげに問いかけられた。
『そもそも、【魂】は留めておけるのか? 彼岸へ渡るものは大丈夫やも知れぬが、此岸に戻る新しきものは無理であろう?』
国の【境界守】は、真っ先に思いついたことを訊ねた。
≪時を止めた生命が彼岸へ渡るには、月日がかかるものと此岸では認識されていますので、一時的に留めておいても問題はありませんよ。ただ、新しき生命を一つの地にまとめて戻すのは不自然になりますから、それだけを気をつけられればよろしいでしょう。滞りなく行き来できればよしとされているだけで、通す数など定められていませんでしょう?≫
確かに定められておらぬと、納得した声があがる。
『【魂】はそれでよいにしても、【想】はどうする?』
代替わりしたばかりの町の【境界守】が、次に疑問を呈した。
≪【想】は絶えず動くもの。留めることはできませんので、以前のようにそれぞれの【境界】から彷徨わせればよいのですよ≫
『我ら村に坐すものは、行くだけで来てくれるものがおらぬのはつまらん。それに、聖域のものは来るものを待つのみだ。不公平ではないか!』
別の村の【境界守】は甲高い声を荒げ主張し、いくつもの声が同意するなか、低く重い声が遮った。
『我ら聖域のものは、動くことはまかりならぬ。しかし我は、来てくれるものがいるだけでもよいと思う』
『来るものがおらぬのは寂しいが、我は行き来できるだけでも十分嬉しい。それ以上望むのは、贅沢であろうと思うのだが』
最初に言葉を呟いた村の【境界守】が言うと、それにも同意する声があがる。
『さて、この不公平をいかようにされるかな、此岸の者よ?』
別の聖域の【境界守】が、春の息吹のような軽やかな声で問いかけた。
≪……そう、ですね。不公平……ですよね。……うーん、どうしましょうか……村同士で行き来する? でもそれでは、あまり変わりはないし、……聖域の方は動くことはどうしてもできぬし……うーん……うーん……≫
先程までとは違い歯切れも悪くなり、ついには黙り込んでしまった。
いたたまれなくなったのか、不公平を主張していた村の【境界守】たちは、口々に前言を翻し始めた。
『のう。先に我が同胞が言うたが、行くことができるだけで十分であるよ』
『さよう。それに我らの坐す村は、町や国よりは此岸の者にさほど疎まれておらぬ。つまり寂しくはない。だからそれ以上は望まぬよ』
『だが、聖域の同胞は動けぬし、【魂】も【想】もさほど行き交わぬ。そちらの不公平をなんとかしてくれぬか?』
『来てくれるものがいるだけで、よいと言うておるのに』
低く重い声が制するも、そうしてくれと言い始めた。
だが、それらの声を遮るように、夏の轟雷のようながなり声で三人目の聖域の【境界守】が憤然と言い放つ。
『我らはすべての【境界】と繋がっておる! なのに、通る道を定めるのはおかしいであろう! 造った道を消せというのかっ!?』
轟いた言葉の嵐に、驚いた彼らも確かにと賛同した。
『応えよ! 此岸の者よっ!!』
≪造られた道を消すのは、確かに酷なことかもしれません。しかし、余りにも多いために、あちらこちらと【魂】や【想】が流離っているのも事実です。これでは滞りなく【境界】を管理しているとはいえないのではありませんか?≫
静かに紡ぎだされた言葉は的を射たものだったのか、いくつものうめき声があがるなか、
≪確かに次々と道を造った責は我らにあるが、見向きもせぬものにも責があろう。だが、まあ少なくすることに異議はない……が、それは後でよい。それよりも、我も動けぬことに不満はないが、来てくれる同胞が限られるのも少々寂しくは思う。まずはこれをどうにかしてくれぬか?≫
軽やかな声で二人目の聖域の【境界守】は、再度問いかけた。
此岸の者はしばし黙していたが、やがて静かに己の考えを紡ぎだす。
≪これもまあ不公平なことに違いはありませんが……まず、村の方は町に、町から国に、国から聖域に日を定めて行き来することでよいですか。一つの【境界】は一つの【境界】にしか行き来できません。村同士、町同士という繋がりもなくなります。また、地域によって村や町の数に偏りもありますが……≫
造った道のほとんどを消すことになると告げてきた。
『うむ、惜しいが仕方のないこと。よしとする』
数多の賛同する声があがる。
≪次は、村の【境界】には来られる方がおりませぬが……≫
『我らは行くことができればそれでよい! ほかの地に比べ我らの【境界】は小さいゆえに、此岸の者にあまり疎まれておらぬ。むしろ我らを認識できぬのに、供物を置く者や語りかけてくる者もおるくらいだ。それを我らは町の同胞に伝える愉しみができるというだけで十分である』
遮るように告げた村の【境界守】に、それでよいと次々と声があがる。
≪そうですか? それなれば、聖域の【境界守】の……≫
『来てくれるものがいるだけで、よいと……』
『どうにかするというなら、してもらおうではないかっ!』
『不公平なこととやらを聞くだけでもいいではありませんか』
低く重い声を遮るように、他の聖域の【境界守】がやり込めるのを黙して聴いていたが、静かになるとどこか申し訳なさそうな口調で紡ぎだす。
≪おそらくというか、まあ絶対ですけど。聖域の方々以外には不公平なことになるでしょう……神ですら手を出せぬほどの聖域の方々が動けば、此岸に影響が出ることは確かでしょうし、彼岸にも及ぶかもしれません。ですので、別の【境界】へ行くことは叶いません。されど、年に一度。使いを出すことはできませぬか? 此岸にいるわたし宛に……。それを受け取り、わたしは聖域に馳せましょう。束の間の時をともに愉しく過ごせるものを持参して……≫
紡ぎだされた内容に彼らは心底驚いた。確かにこれは不公平だが、できるのか? いや、できるからこそのことだろうが、なぜそれまでに?
低く重い声が、困惑したようだがどことなく愉快げに、
『確かに我ら以外のものには不公平ではあるな。しかしまあ、来るものを拒みはせぬが、どう思うかな、我が同朋よ?』
我のもとにも来てほしいとは思うが、人の住まぬ聖域に此岸の者が訪れるのはよいことだ、と賛同する声があがるなか、国の【境界守】の一人が問いかけてきた。
『されど、そなたの住む地にも【境界】は在ろう。【境界守】にも逢うこともあろう? そこにも不公平が生じると思うのだが?』
≪まあ、そうですね。此岸から陸続きに聖域へ向かうのも時がかかりますので、できればあなた方が造られた道を通らせて頂けたらと。まあ、おこぼれでも頂戴したと思ってもらえればよろしいのではないかと……≫
それはよい、と嬉しげな声が響き渡る。
『されど我らを撰したもの、とりわけ神々に断りを入れなくでもよいものか? とはいえ、伝える手など我は持っておらぬがな』
幾分声をひそめた軽やかな声が、勝手に決めていいものかと問いかけた。
≪あぁ。必要ありませんよ。わたしの方で伝えますから……≫
悪巧みでもするような笑みを含んだ応えに、やや引きつりながらもがなり声を抑え気味にして、
『のう此岸の者よ。そなたは終りのあるものであろう。いずれは時を止め彼岸へ渡り、我らのもとに来ることは叶わなくなるであろう。なれば我らは再び坐すことに飽きてしまうであろうよ』
≪もちろん、いずれは彼岸へ渡る身です。ですが、いささか時はかかりますが、わたしは忘れることなく再び此岸に戻ってきますよ。その間の何年かは、待たせてしまうことになりましょう。あるいは、代わりに別の者をあなた方のもとへ向かわせることにしましょう≫
その次、……さらに次、と飽くことがなければよきこと……と、彼らは喜んだ。
『我も問いたきことがあるがよいかな?』
浮かれ始め、ではそれでと手打ちしそうな同胞に水を差すように、ずっと沈黙していた四人目の聖域の【境界守】が、木枯らしのような冷え冷えとした声で割り込んできた。
『なにゆえに、我らのことにそこまでする? そなたになんの利がある? そなたは終りあるものなれど、我らのみならず神とも対等に渡り合えるほどの者なのであろう。なれば【境界】を消し去れば此岸の益にもなろうになぜせぬ? それに我はそなたの纏う気に覚えがある。我らを【境界守】に撰し、己もまた【境界】に縛られ続け、飽いて狂うてとうとう彼岸へ渡った同胞に連なるものであろう。なのに……』
『ちと、黙らぬか』
『我の愉しみを潰すでないわっ!!』
『む……愉しみだと……』
立板に水の如く己が生じた疑問を、同じ聖域の【境界守】が遮ってきた。
『然り。その方と同じことを我も思うたが、一度に問うてはつまらぬではないか。これから先、我らのもとに来たときに、少しずつ問うていけば退屈せずにすむであろうに』
『まさしく』
『うむ! 然りっ!』
『だが、我は……』
『『『黙らぬか!』』』
言い合う聖域のものたちを尻目に、確かに…なにゆえ…と他のものたちも口にし、【境界】の中がざわつく。
≪なにゆえに、か……≫
これまで聴こえてきた愉しげな心地よい声とは真逆な、陰々と震え上がるような声が、低くこもるような嗤い声とともに響いてきた。
瞬く間に無音となり、彼らは各々坐しながら姿なき声の主を探すかのように、恐る恐る此岸に通じる道の先を窺った。
『……っ! そなた……!』
何かに気づいたのか、陰気な笑い声をやめさせようとしたのか、四人目の聖域の【境界守】は呼びかけたが、続けられなかった。己だけでなく、周りでふわふわゆらゆら流離っている【魂】や【想】ですら動きを止め、凍りつかせるほど冷ややかな眼差しを感じたのだ。
(これは、先程までと同じものかっ!? しかし、だからこそ、なにゆえなのか解せぬ……。いや、そうではなく、どうにかせねば……我のせいで……いかようにしたものか……!)
慄きながらもどうにかしなくては、と考えるも何一つ浮かばない。
だが、いつしか嗤い声も眼差しもなくなり、何事もなかったかのように【境界】は静寂になっていた。
≪……ふぅっ……≫
小さな吐息が幽かに耳に届き、
≪なにゆえ……でしょうねぇ……ただ、知ったからには……あなた方のあげる悲痛な声を聴いたからには、どうにかしなくては……と思ったからでしょうか。それに……≫
『それなればよい』
静かに、己の感情を抑え込むような声を急いで遮り、冷え冷えとした声を奔らせた。
『問いたきことは多々あれど、今はそれだけでよい。のう、我が同胞よ?』
うむ…、然り…、よきこと……。すべての【境界守】が次々と是と応えていく。
『では……、我ら聖域のもの以外には不公平なれど、よしとするか?』
『否はない』
『そのように』
『うむ! よいっ!』
…………。
『では……始めようかのう!』