第三十六話 奈落の番人
「ルシファーは死んだんでしょうか……?」
俺は落ちていったルシファーの頭部を眺めてそう呟いた。
「どうでしょうか。あそこまでレベルの高い相手と会ったのは、私も初めてなので。悪魔は元々頑丈ですから、案外まだ生きているのかもしれません。まさか私も、あの悪魔が生首になっても喋ることができるとは思っていませんでした。見失う前に回収して、確実にトドメを刺しておくべきでしたね」
ルナエールが足許に広がる虚空へと目線を落とす。
「なっ……!」
「とはいえ、頭だけの姿になっては、流石の奴も何もできないでしょう。この何もない空間を、ただただ落ち続けることになるでしょうね」
「そうですか……」
ほっとしたような気がするが、しかし同時に、あんな奴でもそれは流石に可哀想だったようにも思う。
「しかし、『テメェら舞台人形とは違う』……ですか。上位存在からしてみれば、人間もドラゴンも古代の悪魔も、大した違いはないでしょうに」
俺は溜め息を吐いた。
プライドの塊のような悪魔であったルシファーは、所詮は自身らが上位存在の駒に過ぎないという事実が受け入れられなかったのかもしれない。
だからロークロアで最も強い存在となって、この世界の幕を自身で下ろすことで、自分は他のロークロアの住人とは違う、舞台人形ではなかったと証明したかったのかもしれない。
ルニマンも元々暴力性こそ有していたものの、ヨーナスとの修行の旅の中では、信仰心によってそれを抑え込めていたのだという話であった。
彼を狂気へと駆り立てたのは、信じていた全てが上位存在の筋書きでしかなかったという残酷な真実である。
ルニマンは自身の暴力性を肯定できる哲学が欲しかっただけだと本人も認めていたが、しかしそうであったとしても、ロークロアの真実さえ知らなければ、師匠であるヨーナスを殺めるような真似はしなかったはずだ。
そうした意味では、ルシファーもルニマンも、上位存在達の被害者であるといえるのかもしれない。
どちらも大量殺人を目論んでいた奴らであり、実際過去にも似たような事件を起こして隔離されるに至ったような奴らだ。
奴らを許す気持ちなんて欠片もないが、しかしそれでも、同情しない気持ちが欠片もないわけではなかった。
それに俺も、奴らと全く無関係な立場であるわけではないのだ。
上位存在に支配されている世界でアイデンティティを得ようと暴走した奴らと、自分とルナエールの身を守るためにロークロア全土を巻き込んで上位存在との戦いを選んだ俺。
ただ平穏に暮らしたいロークロアの民からしてみれば、そう大きな差はないのかもしれない。
「ア……ア……」
ふとそのとき、何かの鳴き声が聞こえてきた。
「ん……?」
鳴き声へと目を向ければ、足場だったクリスタルの断片が宙に浮いており、そこに何か不細工な肉塊が乗っかっていた。
本当に不細工な肉塊としか言いようがない。
四つの目玉があり、そこから短い前脚と後ろ脚が伸びている。
ともかくその奇妙な四つ目の肉塊は、俺達へと何かを訴えかけるように、懸命な表情で見つめてきていた。
「ヘンな蛙ですね。何故こんなところに……?」
ルナエールが首を傾げる。
ふと俺は、蛙の顔に見覚えがあることに気が付いた。
「……まさかサタンなのか?」
神聖都市ルーペルムで、ルニマンが人間を鼠にしたのを見たところであった。
人間を鼠にできるのであれば、悪魔を蛙にできてもおかしくはない。
ルシファーは、そういうことをしそうな奴だった。
ルナエールがさっと飛んでいき、四つ目の蛙を手で掬った。
「どうやら、何かしらの呪いを受けているようです。ただ、ルシファーのお陰で足場が消し飛びましたからね。ひとまず地下九十九階層に戻ってから、解呪を試みましょう」
◆
俺達は地下九十九階層へと戻った。
そこでルナエールが白魔法を用いて解呪を試みると、蛙はあっという間に全長十メートル程ある、大悪魔へと変化した。
元のサタンの姿へと戻ったのだ。
「ありがとうございます……。このサタン、もはやこれまでと覚悟しておりました。ルナエール様とカナタ様には、感謝の言葉もありませぬ……!」
六つ腕の大悪魔が俺とルナエールへとペコペコと頭を下げる。
こんな身なりで腰が低くならないでほしい。
脳が混乱する。
「カナタ……お知り合いですか?」
不思議そうにルナエールが俺へと問う。
「え……《地獄の穴》の番人ですよ! お、覚えていないんですか?」
「私は会ったことがないかもしれません」
ルナエールが気まずげにそう口にした。
「ありますよ!? お、覚えていらっしゃいませんか! 二度も会ったのに! 二度も!」
サタンが必死でアピールする。
……そういえばルナエールは、俺が弟子を卒業したときも、サタンの存在については教えてくれなかった。
ルナエールはあのときには既にサタンについては忘れていたのかもしれない。
「我、最近ルナエール様が《地獄の穴》から出たときにも会いましたからね!」
「……そういえば、地下百階で魔物に道を塞がれたので、遠目から《超重力爆弾》を放ったような気がします。でも、さすがにアレではないでしょうし……」
「それ我ですよ。めっちゃ頑張って避けたせいで、あの下に飛び込むことになって危うく戻ってこれなるところでした」
か、可哀想に……。
サタンがゴホンと咳払いを挟んだ。
「……と、とにかく、ルシファーの奴を倒して、杖を取り返してくださってありがとうございます。危うく《地獄の穴》の魔物達で地上が氾濫してしまうところでした」
「あのルシファーって何者なんですか?」
「ロークロア創世の際に、世界の調整役として招かれていた悪魔ですよ。我の前任者ですね。ただ、与えられた権限を悪用してロークロアを破滅させようとしたため、大罪人として別次元へと幽閉されていたはずです。あんな奴を引っ張り出してくるなんて……上位存在は、果たして何を考えているのやら……。まさか本気で、ロークロアを見捨てようとしているのか……」
サタンが落胆した様子でそう口にした。
本当に形振り構わず、といった形だ。
「《地獄の穴》の管理はサタンさんに任せて大丈夫なんですよね?」
俺が問うと、サタンは勢いよく頷いた。
「ええ、ええ、《黙示録の黒杖》を取り戻してくれてありがとうございます。これで再び結界を強め、中の魔物が外に溢れ出ないように管理することができます。ただ、既に外に漏れ出た魔物については、我ではどうしようもないのですが……」
「その分は恐らく、外で待機している組がどうにかしてくれていると思います」
フィリアにノーブルミミック、ポメラにヴェランタがいるのだ。
魔物の供給さえ止まれば、すぐに片が付くだろう。
「しかし……ルシファーが百階層の床を壊してくれたお陰で、またゆっくりと昇らなければならなくなってしまいましたね。本当は奥の祭壇から直接外まで転移できるはずでしたのに」
恐らく最短で突っ切っても、来たときと同様に三日は掛かるはずだ。
ナイアロトプ達が何を仕掛けてくるのかわからない状態で、また三日掛けて《地獄の穴》を這い上がるのは、できれば避けたいところであった。
「でしたら問題ありませんとも」
サタンが大杖の尾で床を突く。
魔法陣が広がり、下階層から大きな音が聞こえてきた。
「今、何が……」
「《黙示録の黒杖》は、この《地獄の穴》を管理するためのものでしてね。これで地下百階層の床が元に戻りましたよ。奥の祭壇へ行けば、《地獄の穴》の外まで出ることができます」
俺とルナエールはサタンに見送られ、地下百階層の通路を歩く。
「これでついに上位存在とも決着が付いたかもしれませんね、カナタ。創世期の悪魔よりも強い手駒が相手の手札の中にあるとは思えません。きっと他の方達も、布石を回収し終えているはずです。これで今度こそ、上位存在は打つ手なしになったはずです。後は、向こうがどう出てくるのか……」
俺は首を振った。
「……恐らく、最後の一人が控えています」
ルニマンが最期にこう言ったのだ。
『ロークロアに、呪いあれ! 願わくば、他の御二方が世界を滅ぼしてくださるよう、祈っておりますよ……!』
他の御二方と、はっきりと口にしていた。
恐らく、ルニマン、ルシファーに並ぶ、最後の奥の手をナイアロトプは持っているはずだ。
前の二人からして、きっとロクな人物ではないはずだ。
ルニマンもルシファーを、ロークロアを破壊しようとした大罪で、数千年に渡って異次元へ幽閉されていたようだった。
三人目もきっと同様の大罪人なのだろう。
そしてその者との戦いが、俺とナイアロトプとの最後の戦いになるはずだ。
もっとも……よしんば俺が勝ったとして、それが本当にこのロークロアが上位存在の魔の手から逃れることに繋がるのか、それは全くわからない。
俺はゆっくりと深呼吸をして、それから目を見開いた。
「ルナエールさん……絶対に、ナイアロトプから逃げ切ってやりましょう。俺……この世界の各地を見て回ったら、ルナエールさんの傍に置いてもらうって約束、忘れていませんから! あいつを出し抜いたら、否が応でも守ってもらいます!」
「カ、カナタ!? た、確かに、交換条件のような形にはなっていましたけれど、それは言葉の綾のようなもので……え、えっと……! だ、第一、私なんかが一緒にいたら、カナタも冥府の穢れのせいで、まともな生活が送れなくなってしまいます。ですから……」
ルナエールが顔を真っ赤にして、あたふたと狼狽える。
「俺はそんなことより、ルナエールさんと一緒にいたいんです!」
俺はがっちりとルナエールの手を掴み、彼女の前に立った。
今の間に、いや、今だからこそ言っておくべきだと思ったのだ。
何せこの先、一寸先は闇なのだ。
俺達がどれだけ奮闘しようが、上位存在の方が圧倒的に有利な戦いなのだ。
どれだけ足掻いても全て無駄で、もしかしたら俺達はただ、ロークロアを破滅に追いやろうとしているだけなのかもしれない。
だから、言いたいことは、今すぐにでも言うべきだった。
「え、えっと、あの、その、で、でも……私……わ、私も、カナタと一緒にいたいですけれど、でも……」
ルナエールが慎重に言葉を選ぼうとするのを、俺は彼女の目の前でただじっと待っていた。
「私は……!」
「もしかして我、邪魔でしたか?」
背後より、見送りについて来ていたサタンが声を掛けてきた。
ビクリとルナエールが肩を震わせ、背筋を真っ直ぐに伸ばす。
「カ、カナタ、とにかく今は、皆への報告を急ぎましょう! 外がどうなっているのかもわかりませんから!」
ルナエールが俺の手をすっとすり抜け、大慌てで逃げるように先へと向かっていく。
祭壇を昇っていくルナエールの背中を見つめながら、俺は溜め息を吐いた。
「……サタンさん、あと一分黙ってることってできませんでした?」
「す、すみません、甘ったるい空気に耐えられなくて……」
サタンが申し訳なさそうに頭を掻いた。