第三十話 地獄の蓋(side:ルシファー)
ロークロアの空を飛ぶ、一人の悪魔がいた。
その背丈は二メートル以上はある。
灰色の体表を有しており、背からは大きな翼を伸ばしていた。
「上位存在の遣いなのは気に食わねぇが……一万年振りのロークロアだ。派手に荒らしてやるよ」
大地を見下ろして、邪悪な笑みを浮かべる。
彼はルシファー。
ルニマン同様に、ロークロアの大罪人として異次元に隔離されていた《久遠の咎人》の一人である。
元はロークロア創世の際に、世界の管理者として産み落とされた古の悪魔の一柱であった。
だが、その身勝手かつ残酷な管理を問題視され、『このままではロークロアを滅ぼす』として、ロークロアより隔離されていたのだ。
ルシファーが向かう先は、ロークロアの世界に降り立ったときより決まっていた。
「やっぱしまずはあそこに行かなきゃならねぇよなァ。後悔するなよナイアロトプ、何してもいいって言ったのはテメェだぜ? 愚図だった後輩ちゃんの成長も見届けてやらねぇとならねぇからなァ」
ルシファーは高度を引き上げ、遠くへと目を向ける。
広大な森の奥地に、老朽した神殿跡が見えた。
その遺跡を見つけると、ルシファーは口端を吊り上げ、牙を覗かせた。
「来た来た来たァ! この魔力の感じ……《地獄の穴》で間違いねェ。この世界ぶっ壊すなら、ここしかねェよなァ! 地上に深淵の魔物共を放って、全て台無しにしてやるよォ!」
ルシファーが目指していたのは《地獄の穴》であった。
《地獄の穴》の地下深くには、地上に出すわけにはいかない高レベルの魔物達が封印されている。
この地の封印を解けば、ロークロアは高レベルの魔物達で溢れることになる。
「あん……?」
ルシファーが上空より眺めていると、遺跡の物陰より、黒い輝きを帯びたゴーレムが現れた。
顔には円形の仮面が付けられている。
ゴーレムは一体ではなく、遺跡のあちこちから姿を現す。
この様子では、内部にも相当数潜伏しているようであった。
ゴーレム達は上空のルシファーを感知しているらしく、彼の方へと顔を向けていた。
「……《地獄の穴》をゴーレムが管理? あの視線……まさか、この俺様を、挑発してやがるのか?」
黒いゴーレム軍団はヴェランタの配置したものであった。
上位存在が《地獄の穴》に干渉してくることはヴェランタの想定内であった。
そのため彼の《神の祝福》である《万能錬金》を用いて、警備のためにゴーレム軍団を用意したのだ。
更に周囲の地面が盛り上がったかと思えば、蜘蛛を模した形をした、大型のゴーレムが姿を現した。
こちらも単体ではなく複数である。
円形の仮面を付けており、顔の下には大きな魔力結晶が埋め込まれている。
蜘蛛のゴーレムの魔力結晶が光を帯び、上空のルシファー目掛けて魔力の塊を放つ。
ルシファーはそれを手で払い除けるが、立て続けに他の蜘蛛型ゴーレムが光を放ってくる。
ルシファーは高度を上げてゴーレムの攻撃を躱す。
「チィ……一体一体が、レベル千近くありやがるな、鬱陶しい……」
ルシファーは舌打ちを鳴らし、左腕を掲げた。
手の先に黒い炎が浮かび上がったかと思えば、それは無尽蔵に膨れ上がっていく。
あっという間に、全長百メートルにも及ぶ黒い炎の球体へと変化した。
「ブチ死ね! 炎魔法第二十五階位《没する大妖星》!」
ルシファーが腕を振り下ろす。
黒い巨大な炎球が大地へと落ちていく。
《地獄の穴》の入り口である遺跡に触れた瞬間、大爆発を引き起こした。
周囲数百メートルに渡って地表が深く抉れる。
範囲内の木々は跡形もなく消し飛んでいた。
《地獄の穴》の表に出ていた遺跡も消失しており、跡には巨大な穴だけが残されていた。
当然、ヴェランタのゴーレム軍団など、ただの一体も残っているはずがなかった。
「カハハハハ! そんな玩具で、俺様を止められると思ってたのかよ! めでたい頭だなァ!」
ルシファーは高笑いを上げると、翼を畳んで一気に急降下をし、穴の中へと飛び込んでいった。
《地獄の穴》の内部へと侵入したルシファーは、そのまま翼を広げて低空飛行し、高速で最奥部へと目掛けて突き進んでいく。
道中の多種多様な《地獄の穴》の魔物達も、ルシファーの敵ではなかった。
遮る魔物達に対し、彼は足さえ止めることなく、翼で弾き飛ばし、鉤爪で抉り殺した。
「こんなに広かったか。身体慣らしがてらだと思ってたが、流石に面倒だな」
ルシファーを中心に魔法陣が展開される。
「時空魔法第二十階位《暗黒門》」
ルシファーの身体が黒い影へと変わり、高速で真下へと落ちていく。
影となったルシファーはそのまま《地獄の穴》の地面を透過して、次々に下の階層へと飛び込んでいく。
そうしてたったの数刻の内に、《地獄の穴》の最奥部である、地下百階層へと辿り着いてしまった。
虚空が広がっている中、クリスタル状の大きな通路が先へと続いている。
時空魔法で影へ変わっていたルシファーが、その姿のままクリスタル状の床の上へと落ちた。
クリスタル状の通路の先は、王座へと続いている。
そこには《地獄の穴》の主である大悪魔、サタンが鎮座していた。
サタンは目前に巨大な影が落ちたのを見ると、四つの大きな眼を細め、王座より立ち上がった。
「何者だ? 《地獄の穴》には、特殊な上位存在の結界が施されておる。転移や透過など、この地を司る我以外にできるはずが……」
「おいおい、俺様を忘れたのか? 舐めたことを口にしてくれるじゃねぇの。元々ここは俺様の管轄地だぜ? 随分と偉くなったな、サタン」
影が元の形を取り戻していき、ルシファーへと変わった。
サタンはその姿を目にして、目を見開いた。
「ル、ルシファー!? 馬鹿な、上位存在が貴様を解放するわけがない!」
「飽きたんだってよ、ナイアロトプちゃん。このロークロアはもう、俺様が好きに遊んじまっていいってよ」
「馬鹿な……上位存在が、このロークロアを見捨てたというのか! そのようなこと、起こるはずがない!」
「おいおい、俺様がここにいる時点でわかるだろうがよ。俺様だって、上位存在様の命令には刃向かえねぇんだからよォ。ま、テメェの《地獄の穴》の管理の役割もこれまでってわけだ」
ルシファーがお道化たように肩を竦める。
「テメェはセコセコと上位存在連中の言うこと聞いてたんだから、ロークロアがぶっ壊れた後も別の世界に雇ってもらえんだろ。悪魔が新規世界の調整に入るのはよくあることなんだからよ。オラ、とっとと《地獄の穴》の管理権を寄越せよ。アレが欲しいんだよ」
「…………」
サタンは足許の虚空へと視線を落としたまま、沈黙した。
サタンもルシファーが権限の濫用でロークロアを狂わせ、別次元へと幽閉されたことを知っている。
彼が別次元より戻ってくるためには、上位存在の意向以外に有り得ない。
そして上位存在がルシファーをロークロアに改めて遣わしたということは、このロークロアを見限ったということである。
上位存在に見限られた世界は滅びるしかない。
「どうした、さっさとしろ。テメェをぶち殺して回収してやってもいいんだぞ?」
ルシファーがサタンを睨み付ける。
サタンは沈黙したまま腕を振るった。
彼の手に、髑髏の装飾の付いた大杖が握られる。
この《黙示録の黒杖》こそ、《地獄の穴》の王である証である。
上位存在が展開した《地獄の穴》を制御する結界を、細かく調整する力がある。
《黙示録の黒杖》さえあれば、《地獄の穴》の魔物達を地上へ解放することも容易い。
そうすればロークロア全土が文字通り地獄と化すだろう。
「一万年前から変わらずノロマだな。勿体振ってないで早くそいつを……」
サタンが《黙示録の黒杖》をルシファーへと構えた。
「我の使命は……この《地獄の穴》を統率し、ロークロアの地を守護することである!」
大きな魔法陣が展開され、その中央より、巨大な炎の竜が現れた。
真っ赤な炎の竜は、一直線にルシファーへと向かっていく。
「馬鹿が、その使命を出したのが上位存在だろうがよ」
ルシファーが呆れたように口にする。
地面を蹴って翼を広げて飛行し、あっさりとサタンの放った赤い竜を躱す。
そのままサタンの横を通過し、彼の背後に立った。
サタンの六本の多腕の内、三本が宙を舞った。
擦れ違い様にルシファーが切断したのである。
《黙示録の黒杖》も、既にルシファーの手に渡っていた。
「ぐ……ぐぉおおおおおお!」
サタンが悲鳴を漏らし、腕の切断面を押さえてその場に屈む。
「テメェ如きが俺様に敵うわけねぇだろ、あァ? 舐めてんの?」
ルシファーが《黙示録の黒杖》を、サタンの頭へと突き付ける。
「こ、殺すがいい!」
「はぁ……ま、俺様に突っかかった時点で自殺みたいなもんだわな。死を覚悟した奴を殺すのって、なんかスッゲー詰まらねぇじゃねぇかよ」
ルシファーが魔法陣を展開させる。
「死霊魔法第十四階位《蛙呪変鏡》」
「なっ! あ、あが……!」
サタンが光に包まれていく。
サタンの十メートル程あった身体はみるみる内に小さくなり、黒いぶよぶよとした、四つ目の肉塊に変わった。
短い手足で、何かに脅えるようにどたどたと動く。
「オエッ……オ、オエッ」
ぽかんと開いた口が間抜けな声を漏らす。
それは嘆きか、嗚咽のようでもあった。
ルシファーは杖の尾で地面を突く。
「ハハハハハハ! そんなにこのロークロアが好きなら、特等席で見せてやるよ! この世界が地獄へと変わる様をな!」
ルシファーは笑い声を上げると、王座へと豪快に座った。
「ひ弱な地上の奴らが、《地獄の穴》の魔物で溢れた世界でどうするのか楽しみだぜ! テメェもそう思うだろう、サタンよ?」