第二十八話 コキュートスの王
「結構長かったな……」
地下九十六階層から地下九十九階層・深部までの移動に、ほぼ丸二日を費やしていた。
魔物の強さは多少違う程度で結局鏡の悪魔程の敵は出て来なかったが、道のりが異様に長いのだ。
《地獄の穴》では深ければ深いほどに階層の範囲が広いとは聞いていたが、ここまでだとは思っていなかった。
俺は手に持っていた、丸焼きにしたラーの太腿を齧る。
見かけは人型に近いが、しっかりと鶏肉の味がする。
鳥とは思えない程に脂も乗っている。
鳥臭さだけはどうしようもないが、特に調理もせず、焼いただけでこれだけ美味しいのはなかなかありがたい。
そういえば昔、ルナエールにこれを食材にすると言われてドン引きしてしまった記憶がある。
「俺もすっかり慣れたもんだな」
俺はラーの太腿を投げ捨てた。
目前には、地下へと続く階段があった。
これまでとは明らかに違い、階段が透き通った青いクリスタルでできていた。
神殿は終わり、虚空が広がっている。
黒い空間に、ただ光を放つ階段が続いているのだ。
階段を降りると、大きな長い通路が続いている。
「歓迎するぞ、欲に終わりのない人間よ。この世界の最奥地まで辿り着いた、貴様の執念が業そのものだ」
奥から声が聞こえて来る。
俺が向かって歩いていくと、更に声が続く。
「何を求めてここに来た? 不老不死の霊薬があるとでも伝わっていたか? 貴様らの信じる架空の神が、ここに救いがあると宣ったか? それとも、ただの探究欲求でここまで来たと、そうほざいて見せるか?」
奥に、巨大な黄金の玉座が見えた。
そこには、全長十メートルほどある大柄の化け物が座っていた。
体表は黒くてゴツゴツしており、腕が六つある。
顔には四つの目玉があり、頭には大きな巻き角がついていた。
口許は大きく裂けており、歯茎が剥き出しになっている。
恐ろしい化け物であり、同時に王としての威容を併せ持っていた。
……ルナエールから、こんな化け物がいるなんて聞かされていない。
ただ、地下百階に行けば外に出られると聞いていただけだ。
俺は足を止めて、ただその圧倒的な存在を眺めていることしかできなかった。
「どれであっても、愚かしい。我が名はサタン。この《地獄の穴》を司る、神に近しき悪魔なり。過去一万年で、ここまで到達した人間はお前で五人目だ。だが、生きて我が《地獄の穴》より出られた者は一人もいない」
化け物……サタンが、腕を振るう。
「出でよ、我が半身!」
サタンの手に巨大な黒い杖が握られる。
髑髏で装飾された、不気味な杖だった。
サタンがニマリと笑い、立ち上がった。
まずい、臨戦態勢に入った。
俺も咄嗟に剣を構えた。
短距離転移の連打で逃げるしかない。
「ここまで来られた褒美をやる」
サタンが杖を持つ腕を掲げ、残りの二組の手で印を組んでいた。
知識として知っている。
印は集中力を上げたり、魔力の流れを制御して魔法陣を補佐する力がある。
ただ、かなり特殊な体系の技術であり、一部の国の人間と悪魔しか使わないのだという。
ルナエールは魔法陣に専念した方が人間は効率がいいはずだと言っており特に教えてはくれなかったためあまり詳しくはないが、ただ一つ分かることがある。
わざわざ印を使ったということは、片手間に使う魔法ではなく、全力の攻撃が来るということだ。
「人間では理解の及ばぬ、神域の炎でその身を焼き焦がし、魂諸共消え去るがよい!」
まずい……範囲攻撃であれば、半端な転移よりガードに専念した方がマシかもしれない。
攻撃の種類を見極めようとサタンの展開する魔法陣を見たが……どこか見覚えがあった。
あれ、これなら……俺も使えるかもしれない。
ルナエールに教えてもらった魔法の中にある。
こ、これなら、相殺させた方が確実か……?
俺もサタンの魔法陣を追い、魔法陣を展開していく。
「炎魔法第二十階位《赤き竜》」
サタンが高らかに叫んで杖を振る。
ほぼ同時に、俺もサタンへ向けて剣を振った。
「炎魔法第二十階位《赤き竜》」
サタンの杖と俺の剣先から放たれた巨大な炎の竜が、お互いを目掛けて飛んでいく。
「な、なんだと……? 人の身で、この域の魔法を操るとは!」
サタンが四つの目を大きく開く。
「だが、無駄なこと! 同じ魔法であれば、魔法力の差が如実に出る! 憐れなことよ……半端に力があるがために、我が恐ろしさを正しく理解することになる」
俺から出た炎の竜が、サタンの炎の竜と正面衝突した。
「見よ、それが我と貴様の力の差だ!」
サタンが大声で叫ぶ。
そのとき、サタンの炎の竜を、俺の炎の竜が食い破った。
サタンは大口を開けて間抜け面を晒した。
「なんだ、並の悪魔に毛が生えた程度か……」
魔法の位階が高めなのは驚いたが、ほとんど《歪界の呪鏡》の悪魔と変わりがない。
魔力から逆算するに、せいぜいレベル3500程度ではなかろうか。
「な、並の悪魔だと……?」
サタンは呆然としていたが、すぐに自身を庇う様に杖を掲げた。
「わ、我を護れ!」
赤い竜の前に魔法陣が展開され、その頭部を遮った。
「残念であったな、この杖の護りがある限り、我に魔法は通用せんぞ!」
俺は迷わず、剣を構えて直進した。
魔法耐性があるなら、剣で斬ればいいだけだ。
今のでわかった、魔法の位階が高いのも、魔法耐性も、恐らくあの杖のお陰だろう。
本体は大したことがない。
本当にまずい相手がいるのなら、ルナエールが止めなかったわけがないのだ。
サタンの顔が引き攣った。
「こ、こんな者がいるなど聞いていない! どこから出て来た! い、一度止まれ! わかった、我も杖を降ろそ……」
そのとき、サタンを護っていた魔法陣の光が鈍くなり、四散した。
恐らく、杖の力によって防げる許容範囲を超えたのだ。
「なっ……!」
魔法の耐性も、そこまでではなかったらしい。
恐らく、限界が所有者の魔力依存なのだ。
サタンを炎の竜が呑み込んでいった。