第三十四話 《赤き権杖》
「さあ、《軍神の手》……これを使いなさい。貴方ならば、前所有者とは比べものにならない程に、かの精霊の力を発揮できるはずよ」
アリスはコトネの手に、押し付けるように真っ赤な杖……恐らくは、《赤き権杖》を握らせる。
コトネはそれを受け取ると、がくんと肩を震わせ、頭を押さえる。
「……杖から、声が、する。知らない言語だけど……私には、わかる」
コトネが虚ろな目でブツブツと呟く。
「コトネさん……?」
コトネの様子が明らかにおかしい。
アリスに操られて言動がちぐはぐにはなっていたが、重ねて《赤き権杖》から何らかの干渉を受けているようだった。
「あんなのと会話できるなんて、フフ、思っていた以上なのね。私の見込みに間違いはなかったわ。上位存在の干渉もあったのでしょうけれど、王家も本当に愚物ばかりのようね。本質も知らずに、こんなものを英雄様に持たせようだなんて。できればこっそり回収したかったけれど、最早その猶予はないようね」
アリスは満足げに笑う。
「さあ、私の《軍神の手》よ、おやりなさい! かつてたった一体で世界を崩壊させた邪精霊の、その圧倒的な力を見せてやるのよ!」
アリスの宣言に、コトネが《赤き権杖》を掲げる。
「炎魔法第十五階位《炎神の怒り》」
コトネの周囲に、巨大な無数の魔法陣が展開された。
アリスはそれを見回し、表情を失ってぽかんと口を開けていた。
だが、すぐに不気味な笑みを取り戻した。
「凄い、凄いわよ《軍神の手》! まさか、人類種の限界とされた、第十三階位を簡単に超越するだなんて! 《軍神の手》! 《赤き権杖》を完全に制御した貴女は、最早、上位存在とも並ぶ存在になったのよ!」
アリスのけたたましい笑い声が響く中、魔法陣から巨大な炎の塊が現れ始める。
塊は、苦悶の表情を浮かべる巨大な人頭を模しているようだった。
あっという間に建物全体に燃え移っていく。
姿を現した炎の塊は、その一つ一つが、俺とベネットに照準を向けていた。
「な、何がっ、何が起きてるんだ? 僕は、何を目前にしているんだ? ここは、地獄なのか……?」
ベネットは茫然と立ち尽くしていた。
構えていた剣を持つ手も、だらりと床へ垂れていた。
最早自分には一切の抗う術がないと、コトネの魔法を見てそう認識してしまったようだった。
コトネが《赤き権杖》を下ろす。
大量の炎の塊が、俺目掛けて飛来してくる。
「馬鹿な子ね。大人しくしていれば、上位存在もここまで躍起になって貴方を消しには来なかったでしょうに」
俺は《英雄剣ギルガメッシュ》を天井へと向けた。
「炎魔法第二十階位《赤き竜》」
俺を中心に、巨大な赤の魔法陣が展開される。
巨竜を模した豪炎が現れる。
竜は周囲を飛び交い、飛来してくる人頭の炎を呑み込み、建物の壁を崩し、天井を完全に破壊して空へと飛び立っていった。
「第十五階位程度じゃ、奴らには届きませんよ」
俺はそう言い、アリスを睨んだ。
アリスは強張った笑みのまま硬直していた。
「ど、どうなった? 生きている……? えっと……助かったのか?」
地面にしゃがみ込んで震えていたベネットが、そうっと俺を見上げ、恐々と首を伸ばす。
「もう、諦めてください。今のではっきりしたはずです。その杖では、俺は倒せませんよ。コトネさんはあなたの道具ではありません、早く解放してください」
俺が歩いて近づくと、アリスは背後へと退いた。
「う、嘘……どうして? どうしてこんな、ぽっと出の転移者が、これだけの力を……? これじゃ、《赤き権杖》があったって……」
「それとも、あなたを殺せば解除されるんでしょうか?」
俺は《英雄剣ギルガメッシュ》をアリスへと向けた。
アリスは信じられないものを見る目で、俺の刃を睨み付ける。
死霊魔法は扱いが複雑なものが多い。
コトネは生きているはずだが、魂をアリスに捕まれているような状態だ。
下手にアリスを殺せば、コトネが廃人になりかねない。
どうにかアリスを生かしたまま捕えたかった。
「そう……そういうこと。フフ、フフフフフ、アハ、アハハハハハ! 貴方、そこまで上位存在から嫌われていたのね!」
アリスが恐怖を押し殺すように、自身の指を噛む。
手が、彼女の血に汚れていく。
怯えるように彼女の肩が震えていた。
「いいわ、なら、とことんやってあげるわ! 《軍神の手》! 邪精霊の、《赤き権杖》の封印を完全に解きなさい! 武器の真髄を発揮するための制限が一切ない貴方には、それができるはずよ!」
アリスの叫び声に、コトネが空いた天井へと《赤き権杖》を掲げる。
《赤き権杖》より、赤黒い強い光が放たれた。
周囲一帯を塗り潰して行く。
まだ何かやるつもりなのか……!
俺は《英雄剣ギルガメッシュ》を宙へと向けた。
空中に、巨大な何かが現れていた。
それは《赤き権杖》のように毒々しい赤で全身が覆われていた。
まるで濃い塗料で厚く塗られた岩のようだった。
形状としては、柱に大きな老人の顔がついた、真っ赤な彫像だった。
老人の顔に表情はなく、目は硬く閉ざされている。
頭には、十字架のついた冠が乗っていた。
不可解な姿だったが、敢えて言うならば、チェスのキングを思わせる姿だった。
化け物の周囲は、空間が歪んでいた。
光が出鱈目に曲げられているかのようだ。
「なんだ、アレは……?」
明らかに、そいつはこの世界において異質な存在だった。
「フフ、さすがの貴方も、怖いでしょう? ねぇ? 私だって怖いもの。レッドキング……かつて上位存在が、他の世界を終わらせるのに用いたとされている、最悪最凶の大精霊よ。こんなものを、それと知らずに宝物庫に抱えて、挙句の果てに雑魚に持たせて外に持ち出したなんて、本当に傑作だと思わないかしら?」
アリスは蒼褪めた顔に、大きく口を開けて笑みを浮かべていた。
「カカッ、カナタ、あ、あれ、あれ、精霊、なのか……?」
ベネットが俺のローブの裾を引っ張り、ぐいぐいと不安げに引っ張る。
「わかりませんが……鏡の悪魔ではなかったようで、少しだけほっとしました」
「なっ、何を言ってるんだ!」
俺はちらりと魔法袋へ目をやった。
一瞬、まさか《歪界の呪鏡》から悪魔が逃げたのかと錯覚した。