01 助けてくれたのは心優しい変質者でした。
この物語は以前投稿した「探偵はハーブボイルド」を新しく書き直したものです。
今までの続編とは異なりますのでご注意ください。
霧が立ち込める中、若い女性が一人、狭い路地を走っていた。
片手でスーツケースを引っ張りながら、息を切らし、必死な顔をして走っている。
彼女は追われていた。何者かは分からないが、鋭利な刃物を持った人物にである。明らかに殺意を持っていた。
女性はここ、ランドン市の地理を知らなかった。外国から来たばかりだからだ。
おまけに酷い濃霧で先がどうなっているのかよく見えない。逃げるにしては最悪の状況である。
それでも逃げる他に方法は無かった。逃げる事、それだけが彼女自身の身を守る唯一の手段であるからだ。
逃げて、逃げて、ひたすら逃げ続けて、彼女はとにかく生き延びようとした。
しかし、追手からはまるで逃げられない。それどころか、ジワリジワリと距離を詰められていく。
「キャッ!」
女性は短い悲鳴を上げて転倒した。走り過ぎてすり足ぎみになっていたところを、小さな出っ張りにつまづいてしまったのだ。
すぐに立ち上がろうとするが、転倒した際に両膝を打ち、痛みで思うように立てない。
追手がそれを見逃すはずが無かった。走る速度を上げ、一気に距離を詰める。
濃霧の中で手にした刃物、ナイフがギラギラと輝いていた。まるで獲物を狙う怪物の目のようにである。
何故自分がこんな目に……女性は自身の運命を呪った。と同時に、自分はもう助からない、ここで死ぬと覚悟した。
彼女は恐怖で身を丸めた。目を固く閉じ、その目からは大粒の涙がこぼれる。
そんな彼女を追手は冷徹に追い詰めた。もう目と鼻の先だ。
走る速度は緩まない。このままの勢いでナイフを突き刺すつもりらしい。
「助けて……誰か……」
ナイフが迫る中、女性は蚊の鳴くような声で呟いた。
こうして彼女の短い生涯に幕が閉じられるかに思えた。しかし、そうはならなかった。
「待て!」
若くてハリのある男性の声が響いた。その声に追手は動きを止める。
声は女性の耳にも届いた。助かったのか、そう思い、ゆっくりと目を開け、上半身を起こす。
少し先の方に人影が見えた。2人。
濃霧のせいでよく見えないが、1人はガタイが良く、もう一人は細いのだけは分かる。
「そこまでだ! 『切り裂きジャック』!」
先ほどの声が響き、ガタイが良い人影が追手を指差す。どうやら彼が声の主であるらしい。
切り裂きジャックと呼ばれた追手は逃げようとした。女性の隣を素通りし、奥へと走り抜ける。
すると、細い人影が何かを投げるような動作をした。何かが凄い勢いで飛んでくる。それは空気を切り裂くような轟音と共に女性の近くを通り抜け、逃げる切り裂きジャックの背中を直撃する。
「ギャッ!」
切り裂きジャックは汚らしい悲鳴を上げて倒れた。声で分かったが、どうやら男であるらしい。
そしてぶつかった何かは女性の近くへと転がる。彼女が何気なく拾ってみるとそれはロリポップ・キャンディーであった。なぜ飴なのか、彼女は理解に苦しむ。
「さあ、ヘイヤ君。フィニッシュといこうじゃないか!」
「うん!」
細い人影が少し高い声を出すと、ガタイが良い人影は返事をした。ガタイが良い方は『ヘイヤ』という名前らしい。
ヘイヤは女性の方へ、正確には切り裂きジャックの方へと向かって走りだした。
と同時に風が吹いた。強風だ。この風で霧は薄くなり、ヘイヤの姿が次第にハッキリと見えてきた。
自分を助けてくれたのは何者か。そう思った女性は目を見開き、彼の姿をよく見ようとした。
初めに見えた彼の姿。それは筋肉であった。ボディビルダーのように鍛えられた筋肉の持ち主であった。
しかしそれだけでは無かった。変態であった。モッコリとしたブーメランパンツ、オシャレなネクタイ、無駄に紳士的なシルクハットを身に着けている。見えた瞬間、女性は口をアングリと開ける。
この筋肉モリモリマッチョマンの変態は、女性のそばを通り抜けると、依然倒れたままの切り裂きジャックのすぐそばまで接近し、無理矢理立たせた。
そして彼の頭を掴むと自身のパンツの中に無理矢理押し込む。そのまま彼の腰に腕を伸ばして引っこ抜くようにして持ち上げ、軽く跳んでそのまま尻餅を着くように落下した。
彼の頭を打ちつけられる鈍い音が辺りに響く。
「んがぁー!」
脳天を石畳に打ちつけられ、さらに野郎の股間を押し付けられた事による精神的苦痛で、切り裂きジャックは悲痛な叫び声を上げる。そして糸の切れた操り人形のようにぐったりとした。
「成敗!」
ヘイヤはパンツから切り裂きジャックを追い出すと、マッスルポーズをキメながら叫んだ。
「にひひ。今日も快調のようだね」
細い男が近寄って来て、ヘイヤに話しかけた。さっき飴を投げた男だ。
服装はまともだ。スーツ姿。しかし、目を見開き、ニヤけ顔をしている様子は、やはり異常感がある。
「いいアシストだったよ、チェッシャー。おかげで簡単に捕まえる事ができたよ」
ヘイヤはぐったりとした切り裂きジャックを肩に担ぎながら、細い男へサムズアップしてみせた。
「なーに、相棒として当然の事をしただけさ」
細い男は返事をした。彼は『チェッシャー』という名前らしい。
「さて、大丈夫かい?」
ヘイヤはしゃがみ込んで女性に話しかけた。
「い、嫌……」
女性は相手が恩人だと分かっていながらも、その変態っぷりに思わず後ずさりしてしまう。
それを見た彼は悲しい顔をするどころか笑顔になった。
「大丈夫だよ。僕はこんな見た目だけど悪い人じゃないよ。安心して」
諭すように、ゆっくりとした口調で彼は言う。
「彼の言葉が信じられないかい? なら僕ちんが保証しよう」
チェッシャーはそう言うと、ジャケットから紙片を一枚取り出し、女性に差し出した。
彼女は恐る恐るそれを受け取ると、そこに書かれていた文章に目を通した。
『王立魔術大学 魔道エネルギー学 教授 トーマス・チェッシャー』
名刺であった。それも肩書きだけなら、かなり地位の高い人である。
「きょ、教授? それも王立魔術大学の?」
女性は思わず声を出す。
「そうさ。僕ちんと彼は相棒でね。よくこうやって悪い奴を捕まえたりしてるんだ」
チェッシャーはニヤけ顔を一層強めて言った。
「でも、どうして教授であるアナタがそんな事を?」
女性は質問する。
「それはね――」
チェッシャーが言いかけたところで、辺りにサイレンが響いた。パトカーの音だ。警察が近くに来たらしい。
「おっと、ようやく来たようだね。じゃあ、続きは後にしよう。彼を引き渡したり、事情聴取をしたりとこれから大変だからね」
そう言ってチェッシャーはククッと笑った。
◆◆◆
一時間後、警察から解放された三人はおしゃれなカフェのオープンテラスにいた。
チェッシャーの提案で、お話しながら、ちょっと早いランチタイム……という事になったのである。
カフェの場所はいかにも中心地といった通りに面していて、ビルが連なって建っているのが見え、たくさんの人々や自動車が行き交っている。
そんな場所にあるため、もちろん客はたくさんいた。そしてその客の全てが、人の姿をした動物であった。
獣人。一言で言えばそうだ。しかし、その呼称はこの世界では使われず、代わりに『ズーマン』と呼ばれる。
では人間が何故一人もいないのかというと、遠い昔に絶滅したからだと言われている。
しかし、実際のところはよく分かっていない。今もどこかで生き残っているという話もある。
ヘイヤもチェッシャーも、もちろんズーマンである。ヘイヤは野兎であり、チェッシャーは黒猫だ。
そしてさっき殺されかけた女性も、またズーマンだ。綺麗な毛並みをした黄色の狐である。
「ほう。『ユカ・ヤマセ』ね。それが君の名前かい?」
「はい」
チェッシャーの問いに、狐のユカは頷いて答えた。
「この国には、観光でかい?」
「いいえ。留学です。と言っても今回は住む場所を探しに来ただけなんですが……」
「へぇ、留学だなんて凄いなぁ」
ヘイヤは驚いた様子で話に入ってきた。
「勉強のためとはいえ、一人で外国にだなんて僕にはちょっと無理かな」
彼は感心した様子で頷く。
「友達と、ナオミって名前なんですけど、一緒に凄い魔法使いになろうって約束したんです。彼女はもう、少し前からこっちに来ているはずなんで、私も頑張らなきゃって思って来たんです」
ユカは答えた。もう慣れてしまったのか、彼と話す事にもう抵抗を感じない。
「友情か……いいな。僕って友達が少ないからさ……」
ヘイヤはため息交じりに呟いた。ユカは『そりゃ、そんな恰好してたらそうだろうな』と思ったが、可哀想なので黙っておく事にした。代わりに紅茶を一口飲み、その言葉が出てこないように飲み込む。
「あ、美味しい!」
豊かな香りが鼻を抜け、ハッと目覚めるような爽やかな味が口の中を通り抜ける。ユカはその感動から思わず声が出た。
「そりゃそうさ。ここ、ロングラウンド国は紅茶で有名な国だからね。そして魔法でもね。君がこの国を選んだのはそういう事だからだろう? ユカ君」
そう言ってチェッシャーも紅茶を一口飲む。
「あ、はい。そうです」
「なるほど。それで? 君の言う『凄い魔法使い』というのはどんな魔法使いなのかな?」
チェッシャーは顔を近づけた。
「え? えっと……悪い人がいたらドカーンと魔法を放って退治したりとか、困っている人がいたら魔法でちょちょいと解決したりとか……」
「ふぅん……具体的には?」
「え? それは……その……」
ユカは口ごもり、答える事ができなかった。今の答えで十分だと思っていたからだ。だから、それ以上に具体的な事と言われても答えようがなかった。
「……ふぅ、やれやれ」
チェッシャーは呆れた様子で息を吐くと、目の前にあった卵のサンドウィッチを手にし、一口で半分程食べた。
「今のが面接だったら、君は間違いなく不合格だったよ。言っちゃ悪いけど、君の目標はとにかく薄っぺらい。何をしたいのかあやふやだし、そもそも魔法というものを勘違いしている」
「そんな……」
「君の名前から察するに、君は極東人、ヤマト国の人だね。あそこは科学に物凄い力を注いでて、その分魔術については疎かな国だっていう事は知っているよ。でも、魔術に関する資料が全く無いわけじゃないだろう?」
チェッシャーはここで紅茶を一口飲む。
「君のお国事情を差し引いてもだ。君は間違いなく魔法を、いや魔術を知らな過ぎる。正直言って、留学するのは早すぎたね。もっと基礎を学んでから出直す事をお勧めするよ」
「うぅ……」
ユカは俯いて涙ぐんだ。チェッシャーに言われた事がグサグサと心に刺さり、イガグリのようになってしまったからだ。
「チェッシャー! ちょっと言い過ぎだよ!」
ヘイヤが声を荒げる。
「そうかな?」
「そうだよ! せっかく夢を叶えようと思って来たのにあんまりじゃないか!」
「夢……ね。そんなのを夢と呼んでいいのかい?」
「え?」
ヘイヤはたじろぐ。
「小さな子供じゃあるまいし、ああなりたい。こうなりたい。そんな事を言っているだけで、中身が伴っていない、張りぼて。そんなの本当に夢って呼んでいいと思うかい?」
「それは……」
「夢というのは、終わりの無い目標なんだ。何になろうとし、なったら何をして、そしてどこへ向かうのか。それがハッキリと定まっている物、それを夢と呼ぶべきじゃないのかい?」
「……うん」
ヘイヤが小さく頷くと、チェッシャーはため息をついた。
「僕ちんだって、あまり厳しい事は言いたく無いさ。自分らしくないからね。でも、今の魔術の立場を考えたら、少しは厳しい態度で接さなければならないのさ。だって僕ちんは魔術大学の教授だからね」
チェッシャーは残ったサンドウィッチを一気に口に入れ、紅茶で流し込む。
「あの……今の魔術の立場ってマズいんですか」
未だ傷心の状態ながらも、彼の言葉に引っかかりを感じたユカは訊ねた。
「それも知らないのかい? ……まあ、いいさ。君が本気で魔法使いになりたいと信じて、少し授業をしてあげよう」
チェッシャーは軽く咳払いをすると、話し始めた。
「まずは君に質問しようかな? 3つ、『科学』な物を挙げてもらえるかな?」
「えっと……インターネット、スマートフォン、自動車」
「ふむ、良い感じだよ。これらは現代社会を生きる上でとても重要なものさ。今挙げなかったのも含めてね。とにかく、科学は文明を支える上で無くてはならないものっていうのはお分かりかな?」
「……はい、分かる……と思います」
「よしよし」
チェッシャーは小さく何度も頷く。
「では『魔術』はどうかな? 何のためにあると思う?」
「えっと……あると便利だから?」
「それってつまり?」
「え? ……わ、分かりません」
「ふぅむ……」
チェッシャーは少し残念そうな声を出した。
「惜しかったね。答えは『文明を支える上で無くてはならないもの』さ」
「え! それって……」
ユカは目を丸くする。
「そう、科学と同じさ。魔術はかつて文明を支えてきた。必要不可欠なものだったのさ」
「へぇ……」
「ところがだ。魔術を使いこなすには生まれながらの才能が必要なのさ。だから、格差が生まれた。それを埋めるために科学が誕生したってわけさ」
「魔術があったから科学があるって事ですか?」
「その通り! 科学は魔術の模倣から始まった。 魔術のメカニズムを解析して、『誰もが自在に扱う事ができるもの』であるように作り替えたのさ。こうして今では科学の方が重宝されているのさ」
「……全然知りませんでした」
ユカは自分の無知に恥ずかしさを感じた。
「さて、これで今の魔術の立場というものが少しは分かったかな? 『才能を必要とする魔術なんかより、誰もが等しくチャンスのある科学の方がずっといい』。多くの人達はそう思っている。でも、忘れてはいけない。魔術がなければ科学は成り立たない。そして科学ではまだできない事が魔術にはあるってね」
「忘れちゃいけないものが忘れられようとしているって事ですか?」
「そういう事」
チェッシャーはユカの額をつついた。
「だから、今魔術を学ぼうとしている者に求められているのは、本気で学ぼうという意思を持ち、後世に伝えていく責任感を持っている事さ。今の君のように遊びや趣味で習おうとしている人はいらないのさ」
「……すいません」
ユカは頭を下げた。
「謝る事は無いさ。自分が無知であると気づいた。それは成長の大きな一歩だよ。問題はこの先さ。自分には資格が無いと思って諦めるか、それとも学ぼうとする情熱を持つか、君は選ばなきゃいけないよ」
「……はい」
「さて、授業はこのくらいにしておこうかな? この後大学で講義が入っているし、そろそろ行かなきゃね」
チェッシャーは腕時計を見ると席を立った。
「あー、そうそう。せっかく来たんだから、軽く観光でも楽しむといいよ。というわけで、後は頼んだよヘイヤ君」
「うん、任せて」
ヘイヤが返事をすると、チェッシャーは足早に去っていった。
「あの……大丈夫ですか?」
チェッシャーが見えなくなったところでユカは訊ねた。
「大丈夫大丈夫。僕は探偵だからね。街は僕の庭さ」
「え! 探偵?」
ユカは目を丸くし、思わず大きな声を出してしまった。
「うん。君を襲った切り裂きジャックは僕達が何日か前から追ってたんだけど、なかなか動かなくてね。で、たまたま君が標的にされたところに駆けつけたってわけさ」
「そう……だったんですか……」
ユカは少し頭が混乱した。
変態なのに探偵、探偵なのに変態。どんな人生を歩んだらこんな人物になれるのか、全く分からなかった。
「ま、とりあえず。チェッシャーに任された以上、僕は君のためにとっておきの場所へ案内してあげるよ」
キュウリのサンドウィッチを食べながら、ヘイヤは言った。
本当に大丈夫なのだろうか。
ユカは正直なところ、不安しか感じなかったのだが、流れに押されてしまい、首を縦に振るしかなかった。