第一章 祥武堂〈6〉
臨虎は、翌日の朝にも随分早く来ていた。まだ日が顔を出して間もない時間帯である。
導聞としてはもう少し寝ていたかったが、せっかく修業熱心な弟子なのだ。そういう弟子のためにはこちらも積極的になりたいものだ。そういうわけで、寝ぼけて自分にしがみついてくる星火をやさしく振りほどき、服を着て臨虎の修業につきあった。
今日も当然ながら『大架』の練習。
やはりというべきか、彼の習得速度は驚くべきもので、導聞も舌を巻くほどだった。他の拳法ですでに基礎を養ったからという理由以外にも、生来の才能もある。何より、修業を苦にせず行えるほど「意欲」が強いのだ。上達するしない云々よりも、修業そのものを楽しんでいる。こういった類の者は、たとえ凡人でも成長が早い。それを才能のある人間がやっているのだから、その成果は推して知るべし。
導聞も、「教え甲斐」というものがどういうものであるのかを早速理解しつつあった。弟子は教わるだけではなく、師に新たな感覚を無意識に教えているのだ。教え教わりの相互関係が成立していた。
今はまだ一人だけだが、いずれはもっと弟子を増やしたい。あらためて、そんな意気込みを持った。
陽が垂直になるまで修業に明け暮れ、一度休憩。
椅子に座りながら師弟で談笑している最中に――「ソレ」は起こった。
「失礼するぞ」
怜悧な響きを持った女声とともに、正門が乱暴に開かれた。
開放された二枚の扉から、見知らぬ四人組が足を踏み入れてきた。
一人の女性を先頭に、三人の男が付き従っている。
「『祥武堂』はここだな?」
先頭の女性が、厳しい低音でこちらへ問うた。
見た感じ、二十代半ばほどの若い女性だ。麗人然とした気品ある美貌だが、翡翠色の瞳は研ぎ澄まされた刃物のように鋭く、底冷えする光を持つ。濃い茶色の髪は後頭部で束ねられ、腰まで滑らかな尾を垂らしている。
手首足首までの素肌を覆う、上下ともに濃い紫色の服装は比較的ゆったりとした作りだが、内部にある女性的曲線美は隠しきれていない。凸する所は適度に出て、引っ込むべき所は極限まで絞り込まれている。けれど、柔弱さは感じられない。細い身体の中に何かを凝縮させたような、そんな力強さをなんとなく思わせる。
突然の来訪者に唖然とした様子の臨虎と星火をよそに、導聞は落ち着き払ってその女性の元へ近づいた。明らかに彼女があの三人を主導しているだろうから。
「いかにも。ここが『祥武堂』です。何かご用ですか?」
呼びかけもせずにいきなり入ってきた遠慮の無さからは一度目を背け、自然な感じで話しかけた。
その女性は鋭い翡翠の眼差しをさらに細め、名乗った。
「私の名は宮森森。『仙踪林』という武館で【刮脚】を教えている」
――この人、「苗字」がある。
まず頭に生まれたのはそんな感想だった。
「僕はこの『祥武堂』の館長、導聞です。あなたは、その……『旗族』の方ですか?」
右拳を包む抱拳礼を交えた挨拶に、身元の確認も付け加える。
『旗族』というのは、この国における特権階級だ。朝廷から『旗』と『姓』を賜っており、庶民には無い「苗字」があるのが特徴だ。
目の前の旗族の令嬢は、そっけなく言い返した。
「ああ。だが気にする必要はない。私にとって『姓』など、生まれ持った付属物に過ぎん。武術家は功夫が全て。家柄で威張り散らすことほど醜い所業はない」
「そうですか。ありがとうございます。それで、ここへどのような用事が――」
おありで? と続けようとしたのを、臨虎の驚いた声が断ち切った。
「貴様らは、昨日のっ!?」
彼は女性――森森の連れてきた三人の男たちを指差しながら、その紅顔可憐な顔立ちに驚愕と敵意を表していた。
「知り合いなのかい」と尋ねる前に、森森のかんばせに宿る険の色が更に強まった。
「そうだ小僧――貴様が昨晩姑息な手段で叩きのめした、我が門弟たちに他ならん」
蔑むような、糾弾するような強い口調。
対し、臨虎は硬直していた。その顔からは「何を言っているのか分からない」とでも言いたげな感情が見て取れる。
「な、何を言っている? 意味が分からんぞ! 姑息な手段で叩きのめした? ボクは昨日の夜、そいつらに絡まれていた女を助けようと――」
「嘘つくんじゃねぇぞ! 「お近づきの印に」とか言って痺れ薬入りの茶を飲ませて、「【刮脚】など大道芸だ」とか叫びながら俺らを一方的にボコ殴りにしたじゃねぇかよ! 平定官が駆けつけてくれなかったら、俺ら半殺しにされてたんだぞ!」
「ふざけるんじゃない! よくもまぁそんな嘘八百をホイホイ考えつくものだな! この二枚舌が!」
「あぁ!? んだとテメェ!」
「――静まれ」
森森の凍てつくような一言とともに、罵り合いが打ち切られた。あの気丈な臨虎ですら顔を強張らせている。
「私は門外漢の貴様より、門人を信じる。当然の優先順位だ」
「ふん、由緒正しい『仙踪林』も落ちたものだ。門人や面子を守ることだけに執着しすぎて、善悪の判断すらままならぬときた」
「……何だと?」
森森の口調に剣呑さが宿る。
今のは流石に言い過ぎだ。
「臨虎、やめなさい」
「しかし師父!」
「臨虎」
「……分かりました」
納得がいかない様子だったが、渋々そう頷く一番弟子。
導聞はパチン、と手を叩き合わせ、全員の注目を集めた。
「一度話を整理しましょう。森森さんによれば、臨虎は昨日その三人に一服盛ってから一方的に乱暴を働いた。けれど臨虎によるとその話はでっちあげ。本当はその三人に絡まれていた女性を助けるために動いた。両者の意見が完全に食い違っている。そういうことですね?」
「食い違ってねぇよ。俺らの話が本当なんだっつーの」
三人の男のうちの一人がそう噛みついてくる。導聞は「まあまあ」と落ち着かせてから、
「そこまでは分かった。次に森森さん、あなたがその三人を連れてわざわざここまで足を運んだ理由が知りたい」
旗族の子女はふん、と鼻を不遜に鳴らし、
「知れたこと。貴公の弟子と、ここにいる三人のうちの誰か一人を戦わせる。不意打ちを食らってそのままでは我が門の面子に関わるし、この連中も浮かばれん」
「え? ちょっと待ってくださいよ。師母が戦ってくれるんじゃないんすか」
やや焦った様子で訊く男に、森森は淡々と答えた。
「馬鹿を言え。弟子のケンカに師が出ろと? お前たちは卑怯な手段でやられたのだろう? なら、正々堂々と取り返すべきだ」
「そ、そう……ですけど」
強気な態度が一転、後ろめたそうな態度へ変化する三人。
その反応を見た導聞は仮説を立てた。
きっと、みんな分かっているのだろう。臨虎には勝てないと。
なぜ臨虎の実力を知っているかというと、それはきっと戦ってみて思い知ったからだ。しびれ薬を盛られていたなら、まともに立ち合うことはできない。まともに立ち合わねば純粋な実力は計れない。
そうなると、あの三人は限りなくクロに近い。
今の導聞の仮説通りであるなら、さっさと臨虎を戦わせてしまえばいい。向こう側が望んでいるのは正々堂々の試合のみ。それを受け入れてしまえば、試合の結果にかかわらずこの問題は一応終息する。さらに臨虎はその相手を容易く叩きのめすだろうから、こちら側は無傷で済むはずだ。
――けれど、それを選ぶ気はなかった。
「あなた方の主張は理解した。……が、応じるつもりはない」
導聞のその発言に、【刮脚】の者たちがざわついた。
「森森さん、あなたが自分の弟子を信じるように、僕も自分の弟子を信じようと思う。だからそちらの提案には乗れない。もし乗ってしまったら、僕は臨虎を信じていないことになってしまう」
「ならばどうするというのだ」
「僕が戦いましょう」
森森が細めていた目を微かに見開いた。
畳み掛けるように導聞は続ける。
「臨虎の主張の真偽は別にしても、あなたたちと僕たちとの間に問題を持ち込んだことは事実。弟子の不始末は師の責任ということで、僕が代わりに試合に応じましょう」
「……詭弁だな。細やかな立ち振る舞いから分かるが、貴公の功夫は並外れている。この三人ではまとめてかかっても歯が立つまい。それでは対等な勝負とは言えん」
導聞は森森を指さし、活き活きとした表情で、
「そう! そこなんですよー。僕が戦うとなると、こう言ってはなんですがその三人では相手として役不足すぎます。ならばその三人の師母であるあなたの方が、立場も実力も十分ふさわしい。そうは思いませんか?」
「我ら師同士で戦うのが筋、とでも言いたいのか」
「そこまでは言いませんよ。ただ、僕は師としての責任を取るべく拳を振るわなければなりません。そうすると、そこの三人に牙を向かなければならないのですが――それをどうか、あなたが止めてはくれないですか?」
こちらの意図を察したであろう森森は、初めて笑みを見せた。好戦的な微笑みを。
「……この狸が。面白い屁理屈を考えるじゃないか」
「恐縮です。それで、どうしますか? 後はあなた次第です」
「いいだろう、導聞とやら。癪だが、貴公の口車に乗ってやろう…………お前たち、巻き込まれたくなければ壁の隅に退避していろ」
師母の指図に、三人は慌てて従った。
「臨虎、星火、君たちもね」
導聞がそう告げると、
「ほどほどにね、あなた」
星火は小さく笑い、素直に端っこへ避難した。
けれど、臨虎だけはその場を動かなかった。ひどく申し訳なさそうな顔で、
「申し訳ありません、師父。ボクのせいで……」
「気にしなくていい。君は何も恥ずかしい事はしていないんだから。それより、君も早く下がって」
「……分かりました。それと、気を付けてください。その女は普通じゃありません。手加減なんて考えたら師父でも危険です」
「了解した。ありがとう」
そう告げると、臨虎はようやく星火と同じ場所へ避難してくれた。
中庭の中央に男女が向かい合う。森森の背丈は、こちらより少し高かった。
二人は右拳を左掌で包み、それぞれ名乗りを上げた。
「――【刮脚】、宮森森」
「――【空霊把】、導聞」
始まった。
◆◆◆
科霖は今日も茶館で給仕として働いていた。
決して広いとはいえない店内。茶器やら茶葉やら茶受けやら銚子やらを運びながら、客席と勘定台の間を幾度も往復する日々。
毎日毎日それを繰り返す。一見すると、ひどく退屈に映るかもしれない。
けれど、いろんな茶葉の香りに包まれたこの店で働くことが、科霖には幸せだった。
科霖は茶を愛していた。
茶とは非常に奥深い。同じ茶葉でも、淹れ方や待ち時間、茶器の種類、茶受けによって千変万化に味わいを変える。一つの学問を名乗ってもよいくらいだ。
科霖の夢は、いつか自分の茶館を持つことだった。この店で働いているのは、その足がかりである。店の女将さんもそんな科霖のお茶に対する熱意を認め、茶の何たるかを教えてくれている。
よく仕事中、そんな自分の夢が叶った所を妄想する。女将さんのように涼やかな微笑みを交えて茶を上品に振る舞う。そんな女性になる夢を。
客席に座るのは一人の小柄な少年。三つ編みをした赤髪で女の子っぽい容姿だが、どこか勇ましい雰囲気を持った彼。そんな彼が自分の出した茶を口にし、とても優しい笑みで「美味しい」と言ってくれる——
「きゃ!?」
そんな甘ったるい妄想は、前へすっ転んだ衝撃で吹っ飛んだ。
大丈夫か、と呼びかけてくる客に対して「す、すみません」と上ずった声で謝る。ホコリを叩きたいが、ここでやると茶葉に入る可能性があるので一度外へ出る。
ホコリを払いながら、科霖は顔を真っ赤にして自分を恥じていた。
——もお、あたしったら。
転んだ事もそうだが、最たる理由はあの少年との妄想だ。
昨日、柄の悪い男達に絡まれていたのを助けてくれた、臨虎という少年。
昨日助けられて以来、あの少年の顔が寝ても覚めても離れない。
……ハッキリ言おう。自分は彼に恋をしてしまっていた。
容姿に惚れたのか、強さに惚れたのか、助けてくれた優しさに惚れたのか、理由は分からない。もしかするとその全てかも知れない。
けれど、「恋」という感情だけはハッキリ自覚していた。
彼にもう一度会って話してみたい。もっと彼のことを知りたい。初めて茶以外の物事に心惹かれていた。
そういえば、彼は『祥武堂』という武館の門弟らしい。武術の事は詳しくないが、聞いて回れば見つかるだろう。昨日のお礼も兼ねて、お茶にでも誘ってみようかな——
「おい、聞いたか。『仙踪林』の話」
ふと、そんな話し声が耳に入り、思考が中断される。同じ茶器を囲う二人の客が、なにやら話している。
『仙踪林』という名は、武術家ではない科霖でも知っていた。帝都でも有数の規模を誇る大手の武館で、【刮脚】とかいう拳法を教えているらしい。
おまけに、昨日自分に絡んできた三人の男達が所属している武館。
失礼だと思いながら、さりげなく近づき、聞き耳を立てた。
「なんでも、新しく出来た『祥武堂』とかいう武館が、『仙踪林』と揉めたらしいじゃないか」
「ああ。『祥武堂』の一番弟子が昨日の夜、『仙踪林』の奴に薬を盛って、動けなくなったところをボコ殴りにしようとしたらしい。平定官が割り込んだみたいだから未遂だがな。でも、それに対して美人師範様がカンカンになってな、相手の武館へ乗り込んだって話。俺のダチが見たらしいぞ」
「あの美人師範、結構厳格だって話だからな。姑息な真似して弟子を愚弄されたのが我慢ならなかったんだろ」
聞けば聞くほど、体が底冷えするのを感じた。
『祥武堂』の一番弟子……その単語から連想するのはあの赤髪の少年、臨虎の顔だ。何故なら、彼が自分から名乗ったのだから。
でも、『仙踪林』の人に薬を盛るだなんて……そんな事するはずない!彼は、その『仙踪林』の人から自分を守ってくれたのだから。
無論、自分はまだ臨虎のことを何も知らないので、彼が一概に「こういう人間だ」と定義できない。
けど、少なくとも、他人に毒を盛るような人には見えなかった。
毒を盛った相手というのが、昨日自分に絡んできた三人であるとは限らない。
けど、昨日の今日で『祥武堂』と『仙踪林』という二つの単語が合わせて出てきたのだ。偶然とは思えなかった。
「ごめんなさい、女将さん!今日は早引けさせてください!」
気がつくと、科霖はそう叫び、走り出していた。