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導聞(ダオウェン)。  作者: ボルボ
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第一章 祥武堂〈4〉

 翌日も昨日と同じく、透き通るような快晴だった。武館として活動を行う最初の日としては幸先が良い。


 導聞(ダオウェン)はいつもの服装に着替え、自分で作った朝食を食べた。

 星火(シンフォ)はまだ寝台でぐっすり眠っている。患者が訪ねて来たら起こしてあげよう。


 外へ出て、さわやかな朝日を浴びながら正門の(かんぬき)を外し、片方の扉を開けた。


「おはようございます、師父!」


 開けて早々、昨日弟子入りしてきた顔と出くわし、思わず目を丸くした。


臨虎(リンフー)っ? おはよう、随分早いね」

「はい。少しでも早く師父のご指南を受けたいと思い、一時間ほど前からここで待っていました!」


 ぶらんぶらん揺れる赤い三つ編みが犬の尻尾に見えそうだ。それくらい彼の笑顔は輝いているように思えた。


 流石に一時間前は早すぎるが、それだけ自分の指導に期待してくれているのだと思うと、がぜん熱が入ってくる。


 本当はもう少し時間を置くつもりだったが、彼の熱心ぶりを買って今から指導を行うことにした。


 正門を閉じ、中庭の真ん中で向かい合う。昨日は試合のためだったが、今は違う。教えるためだ。


 導聞は初教育にやや緊張していたが、その気持ちを強引に腹の奥底へ呑み込み、師匠然とした張りつめた声で言った。


「では、これから【空霊把】の修業を始める! まずは大雑把な門派の紹介から」

「はい!」

「【空霊把】は僕の師であり祖父でもあった人が創った武術だ。その特徴はたった一つ——「無形」の戦術」


 臨虎の大きな瞳がぱちぱちとしばたたかれる。


「「無形」……ですか?」

「そうだ。武術には門派ごとにそれぞれ定まった戦術思想が存在する。君が使う【虎形把】にも「連打で防御をこじ開けて「隙」を作り、そこへ強力な一撃を叩き込む」という戦術があるはずだ。いかに功夫(ゴンフー)——修行によって培われる力を養ったとしても、最初に教わった戦術思想から離れる事は難しい。なにせその門派における技は、固定化された戦術思想に沿う形で作られているのだから。

 しかし【空霊把】にはそういった固形化した戦術思想が無い。その状況に応じて、戦い方を臨機応変に変化させる」


 初心者が相手ならこの説明だけでも十分だっただろう。


 しかし、臨虎は習武歴が長いので、鋭い着眼点を持つはずだ。この説明だけでは納得いかないであろうと、導聞は予測していた。


 案の定、彼は理解に苦しむような表情で、


「師父……お言葉ですが、それは難しすぎるのではないでしょうか。確かに固定された戦術思想がある武術でも、長年に渡って修行をすれば、戦術思想を必要としない「無形」の境地に至るのは可能です。ですが……その境地へ至るためには、どれほど頑張っても十年単位の時間を要します」

「その通りだ。普通の拳法ならそうだろう。だが【空霊把】は、体得までに途方もない時間がかかるその「無形」を、短期間で身につけることが出来る。他の拳法と違って突出した特徴は無いが、その分弱点が存在しない。(けい)の流れは変幻自在で、それを生み出す源である歩法も同じく変幻自在だ。【空霊把】は、言うなれば水の拳法。水は汚れを優しく洗い流すせせらぎにもなれば、万物を木っ端微塵に圧壊する怒涛にもなるのさ」


 おお、なんかカッコイイ事言った感。師匠っぽいぞ。


 臨虎はその大きな目を輝かせ、促してくる。


「早く、教えていただきたいです!」

「慌てない慌てない。物事には順序というものがある。教える前に、君が今まで学んだ『套路(とうろ)』を、何でもいいから一つ僕に見せてくれないかな」


 『套路』とは、いくつもの技や動作が始まりから終わりまで一本の線のように繋がった、いわゆる(かた)のことだ。これを何度も反復練習することで、その門派における発勁法、戦術、歩法、身法、意識操作、呼吸法などを体得するのである。


「分かりました! では、【虎形把】の『一路(いちろ)』をお見せします」


 臨虎は導聞から距離を取り、套路を演じ始めた。


 起伏に富んだ動きから繰り出される、豪快かつ鋭利な技の数々。


 荒々しく見えて、鍛え込まれた一本の剣のごとく洗練されているのが分かる。


 そんな臨虎の動きを、導聞はジッと真剣に見つめていた。


 ただ套路を漫然と見ているのではない。

 武術の基礎がどれほど練れているのか、

 臨虎個人の動きにどのような「クセ」があるのか、

 それらを観ているのだ。


 武術門派は星の数あれど、それらを支える「基礎」はどの門派も同じなのだ。一つの門派の拳法に熟練した者は他の拳法の習得も速くなるのだが、それは求められる基礎が共通しているからだ。


 さらに、弟子の動きの中にある「クセ」を認識することで、ソレを上手く修正する方法を考える。「クセ」の存在が、戦いにおいては付け入る隙になる事も珍しくない。


 弟子のそれら二要素を踏まえた上で、それに応じた指導法を組み立てていく。それこそが指導者に求められる技能である。功夫に優れているだけでは名人にはなれても、名師にはなれないのだ。


 やがて套路を終えた臨虎は、再び師父の元へ歩み寄る。


「どうでしたか?」

「良かったよ。よほど一生懸命練習したんだね。昨日十三歳だって聞いたけど、その歳でそれだけの功夫がある人はなかなかいないよ」

「きょ……恐縮です」


 へへへ、と、照れと嬉しさが混じった笑いを見せる臨虎。その可憐かつ愛嬌のある笑顔は、とても男には見えない。これで「初対面から男だと見破れ」という方が難しい話だと思う。


「君の動きに見られるクセもだいたい見抜けた。これからはそれが治るような指導方法を取るつもりだからね」

「ありがとうございます!」

「よろしい。なら、前置きはここまでにして、今度こそ修行を始めようか。本来なら、全ての武術における基本的な姿勢を作るための『築基站(ちくきたん)』からやらせる所だけど、君はすでに基礎がある程度練られている。だから套路からやらせてみたいと思う。名前は『大架(だいか)』。さっきから連呼している「無形」を作るための套路だよ。今からやってみせるから、よく観察しておきたまえ」

「はい!」


 一番弟子の元気良い返事を合図に、導聞は『大架』の指導を開始したのだった。






 それから『大架』をしばらく教えたわけだが、臨虎の吸収力には目を見張るものがあった。


 一日目にして、『大架』の全体動作の六分の二くらいは覚えてしまった。これならすべて覚えるのに一ヶ月は要らないだろう。情熱だけでなく、才能にも溢れているようだった。


 それから一度修行を中断し、星火の用意してくれた疲労に効く飲み薬を飲んでしばらく休んだあと、ふたたび再開。


 現在、導聞は一番弟子に、もう一つの重要な練功を教えていた。


 それは――


「……んんっ。くっ、このっ、上手く書けない……」


 臨虎は墨に浸した毛筆で、薪木(まきぎ)に文字を書いていた。


 椅子に座りながらソレを行う彼の足元には、すでに墨で文字が書かれた薪木がいくつも転がっていた。「天行健」「自強不息」「日々精進」「日進月歩」……いろんな言葉が、お世辞にも上手いとは言えない字で書かれていた。


 そう。ただ文字を書いているだけ。特殊な事は何一つしていない。


 ただ一つ特殊な点を挙げるとしたら、それは手ではなく――足で書いているという点に尽きる。


「こんっ、のっ……くそっ……」


 左足で薪木を地面に押さえつけながら、右足の親指と人差し指で持った毛筆で一生懸命筆記する臨虎。他の文字がどれも不恰好なのは、手ではなく足で書いているからだった。


 ぷるぷると震える素足が、ゆっくりゆっくり字を刻んでいく。しかし集中力にムラが生まれたようで、筆先があらぬ方向へピッと走って文字が変になった。


 それでもくじけず筆を動かしつづけ、やがて完成。


 臨虎が息切れしながら椅子にもたれかかっているところへ、導聞が新しい薪木を一つ持ってきて無慈悲に告げた。


「はい。今度は「百錬成鋼」って書いてね」


 一番弟子はひどくげんなりした顔となった。肉体ではなく、精神が疲労しているのだろう。


「師父……なぜこのような事をさせるのでしょうか……」

「さっきも言った通り、足の器用さを高めるためさ。武術に長い君なら知っているだろう?「歩は万法(ばんぽう)の祖」って言葉を。どのような技にも、足の動きが不可欠だ。足の動きが回避を行い、防御を行い、蹴りを行い、勁を生む。【空霊把】もそれは例外ではない。だからこそ、足の自由度をより高めるための修行が必要なのさ。例えるなら、作物の種を蒔く前に土を耕す作業かな。

 文字っていうのは、見方を変えればいろいろな形の線の集合体だ。それを足で書くことで、あらゆる軌道へ足を動かす練習ができる」


 そこまで言ってから、導聞は片方の靴を脱ぐ。


「まあ、やらせてばかりだと師匠としての威厳に欠けるか。ここは一つ、僕がお手本を見せようじゃないか。ちょっと筆を借りるよ」


 言って、臨虎から筆を素足で受け取った。墨汁の溜まった皿に毛先を浸し、臨虎が使おうとしていた角材へ書き込み始めた。


 ぎこちなかった臨虎よりもはるかに軽妙かつ滑らかな筆さばきを披露し、やがて芸術的ともいえる「百錬成鋼」の文字を書き上げた。足で。


「す、すごい……! ボクの手書きよりずっと上手いぞ……!」


 臨虎の羨望の眼差しが、文字と導聞へ交互に向く。


「大した事じゃないさ。君も練習すればこれくらい上手になるよ」


 そう励ますように告げ、薪木を臨虎の足元へ転がす。


 その「百錬成鋼」という文字を見て、彼の態度に活気が戻った。


「はい! 頑張ります!」


 導聞から毛筆を足で受け取ると、再びさっきと同じように文字を書き始めた。


 その様子を、師である自分は微笑ましげに見守った。


 練習は、正午になるまでずっと続いた。




 こうして、師匠としての初めての一日が過ぎていった。

 余談だが、文字を書いた薪木は風呂を沸かす燃料として使った。


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