第三章 愛を尊び、愛を弄ぶ者〈2〉
大小様々な千切れ雲が流れる午後の空。
陽光が雲によって逐一隠され、地上に影をもたらす。
「また何かあったら来てねー」
星火はそう高らかに言いながら、『祥武堂』の正門から出ていくお婆さんを見送った。治療を終えた患者である。
ニコニコと笑う我が妻を横目に見ながら、導聞はやってくる木剣の太刀筋に自分の太刀筋をぶつけていた。
「セアッ!!」
現在立ち合っている趙茅藍は木剣同士がカァン、と衝突するや否や、こちらの剣身の表面に自分の剣身を滑らせる。彼女の剣は必然的に導聞の懐へともぐりこみ、込められた勁の赴くまま鳩尾めがけて突き進んだ。
対し、導聞は体を捻って剣尖を回避しつつ茅藍の間合いへ侵攻。軽い勁を使って剣尖を走らせるが、茅藍は先ほどの導聞の動きを真似るように体を旋回させ、軸をずらしてこちらの刺突から逃れた。そのまま回転を維持して遠心力に乗せて振り出された水平の一太刀を、導聞は縦に構えた剣で防ぐ。
再び接した剣身同士。茅藍は後ろへ退こうとするが、その動きに合わせて導聞も進み、互いの剣が接した状態を維持する。そこからさらに彼女の五体を取り巻く力の流れを掌握し、放物線にも似た軌道に操作。上から押し潰す感じで、接した剣を介して茅藍を押さえつけた。
「くっ……このっ……」
彼女は必死に抗うが、姿勢が崩れているため上手く力が出せず、どんどん押されていく。
膝を屈した体勢にまで追いつめられるのは、予定調和だった。
導聞は自身の剣から勁を抜き去ると、すかさず相手の喉元で剣尖を寸止めさせた。勝敗が決する。
「くそっ。なぜ勝てないんだ!」
若くして親衛隊員を務めるほどの腕前を持つ少女は、悔しげにうつむいた。
「いや、前よりも動きが良くなってきてるよ。決め手の一撃を避けられた後でも、ひるまずに次の手を冷静に考えられてる。さすがは親衛隊」
「勝てなければ意味はない」
「そんなことないって。はい」
導聞は剣を引っ込め、手を差し伸べた。
「……いいっ。自分で立てる」
「いいから。ほら、立って。お尻汚れるよ」
「ちょっ、こ、こらっ」
手を掴まれた茅藍は恥ずかしそうに声を荒げるが、すぐに抵抗はやめて引っ張られ立ち上がる。
「師父ー! ちょっといいですかー!?」
次なる声がかかった。一番弟子たる臨虎の中性的な声だ。
呼びかけに応じ、女の子みたいな容姿をした三つ編みの少年のもとへ駆け寄る。
「師父、『大架』のこの動作なんですけど、上手く勁が出ないのですが、何か間違っている点がありますか?」
言うと、臨虎は問題の動作をしてみせた。開いていた爪先を鋭く内側へ絞り込み、それと同時に、開いていた両掌を鼻先の延長線上へ伸ばす動作だ。
「ああ、『大鳳束翅』だね。それはね、体を外から内へ絞り込む収勁で打つんだ。今の君の場合、足の動きは良いんだけど、両腕は外側から抱き込むような大振りになっちゃってるから、上手く勁が伝わってないね。前に向かって二等辺三角形の尖端を伸ばすような意念でやってみて」
「はい! ありがとうございます!」
輝かんばかりの笑顔で感謝を告げると、一番弟子は再び『大架』の練習へ戻った。
「導聞師父、少しよろしいですか?」
今度は皇……もとい蓮華からの要請だ。二束の黒いお下げをぷらぷらと揺らし、眼鏡の奥にある期待の眼差しでこちらを見つめている。
「なんだい?」
「『大架』の始まりにあるこの『起式』なのじ……なのですが、これは氣と体重を真下へ下ろす以外になにか使い道があるのでしょうか?」
そう言って、蓮華は『起式』を見せた。手の甲を上に向けた両手を上げ、肩の高さまで来たら腰と一緒にゆっくりと下ろしていく。たったそれだけの動作だが、上半身から余計な力と気血を下半身へ沈める効果があり、『大架』を練る前に体を脱力させることに役立つ。
しかし、それだけではない。
「あるよ。ちょっと突いてきなさい」
「うむ……じゃなくて、はい」
蓮華は鋭く足を進めつつ、正拳。
導聞は『起式』の手順通り、両腕を下から上へ運ぶ。やってきた拳は真下から上がったこちらの手甲にふわり、と軽やかに持ち上げられた。そこから腰の急降下に合わせて両腕を下ろし、がら空きとなった蓮華の胴体めがけて双掌打を打ち込む――寸前で止めた。
呆気にとられた蓮華の顔を見て、導聞は満足に微笑んだ。
「こんな感じだよ。この『起式』は力を抜くためのものであると同時に、重心を急激に下ろして力を出す沈墜勁を身につけるためのものでもあるんだ。我が【空霊把】に飾りの動作は一切無い。すべてが重大な意味を持つ。たかが腕の上げ下ろしと侮るなかれ、ってことさ」
「はいっ!」
蓮華はにっこりと笑みを浮かべ、『大架』を再開する。彼女は臨虎と同様、すでに他の武術で基礎を固めているため、早々に『大架』を教えているのだ。
それから、『蓄基站』を練っている数人の弟子達の集まりへ入り、その姿勢を修正していく。
創設からすでに三か月。
初夏の季節。
『祥武堂』は、あらゆる側面が入り混じり、忙しくなってきていた。
忙しいと時間の経過が早く感じるもので、気づけばすでに日が沈んでいた。
弟子達は各々の自宅へ帰り、茅藍も「次こそは貴様を負かすからな!」という捨て台詞を残して蓮華とともに去って行った。
皇女が圧力を引っ込め、旗族の脅しはなくなった。
しかしだからといって、弟子はみんな戻ってくるわけでもなく、戻ったのはほんの僅かな弟子のみであった。もしかすると他の元弟子達は今なお旗族の脅迫を警戒し、近づけないでいるのかもしれない。
それでも、いないよりはマシだ。
それにまだ『祥武堂』は始まったばかりだ。ここから少しずつ活動の幅を広げていけばいい。
とりあえず、今は休む時なので、武館としての活動は忘れることにした。
万物には「陰」と「陽」という二つの側面がある。影と光、女と男、夜と朝など。
人の一日にも、休息時間と活動時間がある。この二つの均衡が上手く取れてこそ、良い人生を送れるものだ。
そういうわけで、導聞は現在、自分で作った夕食を食べていた。
一つの食卓を、妻の星火と挟む。夫婦になった二年前から続けている食事風景。
「これ、美味しいわ」
茎の煮物を口に運んだ妻は、そう絶賛してくれた。薬草採りから帰ってきた彼女が「これで何か作って」と渡してきた山菜を使った煮物だ。
妻は薬草だけでなく、食べられる草もたくさん知っている。なので、我が家が食に費やすお金はかなり少ない。せいぜい香辛料や油を揃えたりするくらいだ。
たまに余裕があって、贅沢したくなったら、肉を買って調理する。
結婚してからの二年間はそんな感じだ。
……うん。ぶっちゃけ星火に迷惑かけっぱなしってわけだ。
「いつもありがとう、星火」
思わず、そんな言葉が口から出てくる。
妻はきょとんとした顔をし、すぐにちょっと照れくさそうに口元をほころばせながら、
「も、もぉっ、急にどうしたの?」
「いや、僕、星火に完全に依存してるなって思って。稼ぎも星火が上だし、食費も星火のおかげで随分安いし」
「それを言うなら、わたしだってあなたに寄りかかってるわよ。いつもお夕飯作ってくれるのはあなただし、お風呂やお洗濯、掃除だってやってくれるじゃない。肩も揉んでくれるし」
「それだけだよ?」
「そう、「それだけ」。「それだけ」のことをしてくれてるじゃない。お礼を言うのはこっちも同じよ。ありがとう、あなた」
「結婚の贈り物も、あんまり高いのじゃなかったし……」
「これのこと?」
妻は、自分の長い黒髪を先端部分で束ねている瑠璃色の帯を見せてきた。それを大切そうに両手で握りしめる。
「わたしは好きよ、これ。知ってるもの、あなたが散々頭を悩ませて選んでくれた事。金の宝飾品を渡されるよりも、こっちの方がずっと嬉しいわ。今でも宝物よ」
幸福でくすぐったがるような笑顔。
導聞は、己の鼓動が跳ね上がるのを実感した。
――ああ、この顔だ。
かつて、ずっと心を閉ざしていた彼女が初めて自分に見せてくれた、お日様のような笑顔。
——この笑顔に、僕はどうしようもなく心惹かれたんだ。
動悸が止まらない。甘ったるい熱で胸焼けがする。
どうしようもなく、目の前の女性が愛おしい。欲しい。
導聞は顔を伏せてしばらく黙ってから、意を決して開口した。
「星火」
「なぁに?」
ゴクリ、と喉を鳴らしてから、言った。
「今夜――君が欲しい」
突然矢で射抜かれたような顔で、星火は息を呑んだ。
「…………はい」
しかし、すぐに熱に浮かされたみたいに目元を緩め、顔を火照らせて頷いたのだった。
◆◆◆
すでに深夜に差し掛かった時間帯。
大きな寝台が一つ置いてあるだけの殺風景な寝室。四脚で支えられた瓜状の『晶灯』の光が部屋を控えめに照らしている。『鴛鴦石』を覆うその瓜は固い半透明の紙で出来ており、頂点には摘まみがついている。あの摘まみは螺子と繋がっており、時計回りに捻ると螺子の先端部に取り付けられた雄石が下へ降り、やがて底部に置かれた雌石と接して光を発する。どの『晶灯』もだいたいコレと似たような作りだ。
星火は、静かな寝息を立てる夫の寝顔を隣で見つめていた。
「ふふふ、可愛い寝顔」
その幼子のようなあどけない顔に、自然と口元がほころんでしまう。
そんな彼の頬っぺたを「うりゃ、うりゃ」と突っつく。そのたびに小さく唸りながら寝返りをうつ様子がまた愛らしく、余計に突っついてしまう。
しかし起こしてしまいそうなので、断腸の思いで自粛する事にした。
そっと、彼に寄り添って横になる。互いに一糸まとわぬ姿であるため、素肌同士が触れ合って暖かく、心地よい。
自分たちはたびたび体と愛を交えている。普通の夫婦と比べると若干、否、かなり多い頻度で。
いつもは自分から誘っているのだが、今夜は珍しく彼から求めてくれた。
それが凄く嬉しかった。
だからこそ、いつもより激しく躰が悦びを訴えた。今でもその余韻が甘ったるく体の芯に残留している。
しかし、どれほど熱烈に愛し合おうと、この腹に彼との子が宿ることは永遠にない。
自分は石女――すなわち、子供を宿せない女なのだ。
最初にそれを知った時は、少なからぬ失望感を覚えた。
けれど、それはすぐにささいな事であると気が付いた。
彼と一緒にいられる。それだけで十分だった。
七年前の地獄に比べれば、過ぎた幸せだった。
自分の最初の師父、
自分に薬学を教えてくれた義父、
そして、ここにいる最愛の夫。
自分を地獄から引っ張り上げてくれた人達には、感謝の言葉もない。
「愛してるわ、導聞」
その一人である導聞にそう囁きかけてから、『晶灯』の摘まみをひねって明かりを消す。
心地よい体温を感じながら、ゆっくりとまどろみに吸い込まれていった。