第二章 皇女襲来〈終〉
まぶたが上がると同時に、新しい一日が導聞を迎え入れた。
昨晩、星火と楽しく燃え上がったせいで一糸まとわぬ姿になっていた我が身に衣服を通し、外へ出て、朝日を拝む。
寝起きで固まった筋をほぐしている間に、臨虎がやってきた。
修行を始める前に、今まで門弟が去っていった理由を説明した。
意外にも、臨虎は驚かなかった。
それもそのはず。彼もまた、宮廷料理人である父の首をタテに、旗族から脅されていたからだ。
けれど、導聞が「もう心配はいらない」と告げると、ドッと脱力した様子を見せた。
——これで、全て元どおりだ。
最近押し寄せて来てくれた弟子たちはみんな去ってしまった。しかし、臨虎だけはどうにか残っている。その事実にかなり救われた気がした。
久しく清々しい気分となった導聞は、早速指導を開始しようと
「たのもぉーーーーっ!!」
した瞬間、正門が外から勢いよく開かれた。
この既視感のある展開はもしかして……と思いつつ目を向けると、そこには案の定、思った通りの人物が立っていた。
「茅藍……どうしたのさ。また勝負がしたいのかい?」
導聞は目頭を揉みながら、訪問者に尋ねた。
茅藍は挑戦的な微笑を作ると、
「その通り、と言いたいところだが、本日はそれだけが目的ではない」
「結局、勝負はするつもりなんだね……」
疲れたように言いながら、導聞は茅藍の私服姿へ目を向ける。
そんな彼女の後ろから、ひょっこりと一人の少女が現れた。
歳はだいぶ幼い。真っ黒な長い髪を細い二束の三つ編みにしており、やや猫っぽく吊り上がった金眼には堅物っぽい丸眼鏡。簡素な稽古着に身を包むその体は華奢で小柄だった。
「彼女が、貴様の所に入門したいらしくてな。場所を知っている私が連れてきたのだ」
女の子は右拳を左手で包んだ抱拳礼をし、鈴を転がしたような声で名乗った。
「蓮華と申します、導聞師父。あなた様の門下に加えて頂きたく思い、参上致しました」
その一礼は、妙に洗練されていた。
「あら、可愛らしい子ねぇ」
星火は導聞の右隣まで来ると、前かがみになってお下げ髪の少女、蓮華を見つめた。
左隣へ近づいた臨虎が、大きな瞳でこちらを覗き込みながら、
「師父、入門させるのですか?」
「そうだね。そうしたいところだけど……」
そこで一度間を作り、確信をもった口調で言った。
「その前に、正体を明かしてもらいましょうか——皇女殿下」
導聞、蓮華を除く全員が喉を鳴らした。
蓮華を取り巻く雰囲気がガラリと尖ったものに変わり、その口から聞き覚えのある声が発せられた。
「……きゅふふっ、こうもアッサリ気づかれるとはのう。相変わらずそなたは怖いくらいに鋭い」
妻と一番弟子が更なる驚きを示す。
導聞は困ったように笑いながら、
「お戯れを。気づいて欲しくなかったのなら、もう少し偽名をひねったモノにするべきでしたね。それでも、その瞳の色と動きのクセから分かってしまいますが」
「やはり、このような変装程度ではそなたは誤魔化せぬか。せっかく髪まで染めたというのにのう」
ふう、と一息つくと、蓮華、もとい皇女が名乗った。
「いかにも。妾こそが皇女の煌蓮じゃ。このような格好なのは、立場上、堂々と現れるわけにはいかなかったからじゃ。そなたは騙せなんだが、あとの二人にはバレなかったから、変装としては及第点かのう」
「殿下、かといって市井に降りてくるなど……」
「だからこそ茅藍、そなたに護衛を頼んだのじゃ。親衛隊だと悟られぬよう、私服姿でのう」
茅藍は、はあ、と深くため息。この子も苦労しているようだ。
「それで、入門とはどういうことですか」
導聞は、いつものように跪かずに訊いた。そんなことをしたら皇女であると明かしているようなものだ。まして今回、彼女は「師事する立場」なのだから。
皇女は「よくぞ訊いてくれた」とお下げを躍動させた。
「妾は、従わせるのではなく――自ら歩み寄ろうと考えたのだ」
「歩み寄る?」
「そうだ。最後まで袖にされてしまったが、やはり妾はそなたが欲しい。この気持ちはやはり消せなかった。ゆえに妾は考え、思いついた。妾自身が、そなたに師事すれば良いのだと」
「……なぜですか?」
「そなたは軍で武術を教えることを嫌だと申した。ならば、妾がそなたから武術を教わり、それを兵に教え広めるのなら、問題は無かろう?」
「……まあ、確かに……」
導聞はおとがいに手を当てつつ納得する。屁理屈な気がするが、理には叶っている考えだ。
「というわけだから、妾をこの武館に入門させてたもれ」
「いや、でも……」
一国の姫を預かる。その事実の重さを考えると「はい分かりました」と軽々しく頷けない。
そんな風にゴネていると、皇女はその白い頰をほんのり桜色に染め、上目遣いで見つめてきた。袖にすがりつくような切ない口調で、
「嫌と申すかっ? そなた、言ってくれたではないか! 妾の事が好きだと!」
「た、確かにそうですが……」
どうしよう、困ったな痛い痛い痛い痛い痛い右腕が凄まじく痛い!!
「…………あなた?どういう事かしら?」
目元の辺りに暗い影を落としながら微笑を見せる星火が、右腕の手三里――肘関節の隣にある前腕部の経穴。押すと肩凝りなどに効くがめちゃくちゃ痛い――をギリギリと万力のごとき力で押さえていた。
ズォォォォ……という不気味な擬音が出そうなほどの殺気を放つ妻に、導聞は歯の根が合わない口で必死に弁解した。
「ち、違うよ星火! 確かに言った! 「好き」とは言ったけどそれはそういう意味じゃなくて!!」
「なら、どういう意味で言ったのぉー? 教えて欲しいわねぇー」
「いてててててて!! や、やめて星火さま!! それじゃ喋れない!!」
フッ、と手三里への圧迫を解くと「あとで詳しく説明してね?」と凄みのある笑みで言い、話を一度打ち切った。……後がとっても怖い。
「……分かりました。入門を認めましょう」
「本当か!?」
「はい」
来るもの拒まず、去る者追わず。そう誓った手前、皇女の申し出を袖にするわけにはいかなかった。
それに、この辺りで譲歩しないと、また何か無茶苦茶なことをしでかしそうで怖い。
「ただし、武術を教える時は皇女ではなく「蓮華」という別人として扱いますが、構いませんね?」
「構わぬぞ」
「結構。じゃあ、たった今から"君"は僕の弟子だ、「蓮華」」
堂々とした皇女の顔が、年相応の無邪気な笑みへと変わった。
「――はい、導聞師父っ。ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願い致します♪」
声も、あざといほどに可愛らしいものとなった。
茅藍が前へ歩み出てくる。導聞の前で立ち止まると、口元を不敵に微笑ませ、
「さあ、「蓮華」の入門もめでたく決まったし、次の要件を果たすとしようか。導聞よ、私と手合わせ願おうか。拳法でも、木剣でも、棍でも、鞭でも、何でもいい。勝負方法は貴様に選ばせてやる」
「え、ええ? やらなきゃダメかい?」
「当たり前だ。私の中で貴様は、生涯のうちに打倒すべき宿敵として位置付けられた。これから月に数回蓮華とともに来るが、その度に貴様に挑んでやる。何十年かけてでも、貴様だけは必ず打ち負かす。覚悟しておくことだな」
「勘弁してー!」
こうして『祥武堂』に新たな弟子が一人、新たな常連客が一人増えた。