第一章 祥武堂〈1〉
快晴。
雲一つ無い澄み切った青空には太陽のみが浮いており、正午の日差しを帝都へ降らせていた。
全方位を四角く壁で囲んだ、煌国の版図の中心にある大都市。
宮廷建築物『熙禁城』が鎮座し、各官庁の本部が集中し、周囲に広がる全国土の流通の交差点でもある主要な都。
それが帝都である。
中央に円く広がる『四正広場』から、東西南北へ大通りが伸びている。それらの大通りの間には、脇道が血管みたいに広がっている。
『祥武堂』と墨で書かれた大看板を上部に飾った、すすけた木の正門。それを構える建物は、帝都南東の脇道の一角にぽつんと建っていた。
その大看板を見上げているのは、亜麻色の髪が特徴的な青年だった。
「うーん、良い感じかなぁ。特に「祥」っていう文字が実にシブいと思わない、星火?」
大看板に描かれた自筆の大文字を見上げた青年——導聞は、それなりに端正だがどこか幸薄そうな顔立ちににこやかな笑みを浮かべ、隣の妻に同意を求めた。
「もぉ、あなたったら。それは自画自賛って言うのよ。同意するけど」
そう言って、妻の星火は鈴を転がすような笑声をこぼす。
黒曜石を糸にしたような美しい長髪は、毛先付近で細い瑠璃色の帯に結ばれて一束になっている。肌は未踏の雪原みたいにきめ細かい白皙。その垢抜けた美貌は、どこか浮世離れした華やかさを感じさせる。衣服の起伏が作り出す体の曲線は、女性として理想的な砂時計状。特に胸部の双丘が大きくかつ形良く服を下から押し上げていた。
まるで貴人が庶民の服を着て市井に降りてきたようなその少女を注視するたびに、とても自分にはもったいないお嫁さんだなぁと思う。
導聞は思考を一度切り替え、ここまで来た道筋を思い浮かべつつしみじみ言った。
「いやー、最初は広い中庭のある低家賃の建物なんて贅沢かなって思ってたけど、探してみれば案外見つかるものだね」
「まぁ、殺しの現場だったらしいから安いんだけどね」
「そうだね。……買っておいて今更なんだけどさ、その……怖くないのかい? お化けとか出るかもしれないよ?」
「お化けなんて出ないわよ。それにわたしそういうの平気だし、仮に出てきても、あなたが守ってくれるんだよね? 【空霊把】の伝承者さん?」
星火は片目をぱちりと閉じ、茶目っ気たっぷりに微笑む。
導聞は一瞬頰を赤らめてから、はにかんで頷いた。
今日の昼、導聞はこの借家を整頓し、自身の武館――すなわち武術を教える道場として使う準備をようやく整えた。
導聞には夢があった。それは自分の武館を持ち、義理の父から受け継いだ武術と武徳を広めることだ。その夢の第一歩を、今日ようやく踏み出すことができた。
住み家兼武館である目の前の建物には『祥武堂』と名付けた。武術の練習に最適な広い中庭があり、そのさらに奥にはそれなりに大きく部屋数がある家屋が鎮座している。
大通りから遠く目立たないという立地条件と、三年ほど前に殺しが起きたという物騒な経緯に目をつぶれば、なかなか良い物件だ。
軍属の占術師がお払い箱となって久しい世の中――昔は戦の進め方の一部を占いで決めていたらしい――だが、それでも未だに妖怪や呪いを信じる傾向が世には根強く残っている。そのため、この建物は外観の立派さに反して家賃が恐ろしく安かった。裕福とはいえない夫婦にとってそれはありがたいことであった。
新たな住まいで一夜を過ごした翌日、夫妻は朝から掃除やら整理整頓やらに取り組んだ。正午あたりにそれをようやく終え、館長たる導聞直筆の看板をこうして正門に立てかけたばかりだ。
「弟子、いっぱい来るといいなぁ」
導聞が期待と不安のこもった口調で言うと、星火はやや渋面となった。
「それを考えると、この激安物件は少し足かせかもしれないわね。不気味がって誰も来ないかもだもん」
「う……だ、大丈夫さ! 【空霊把】は良い拳法だもの。優れた武術の前では、不吉さなんて霞んで見えるさ! ……きっと、たぶん、おそらく」
「ふふふ、分かったわ。足りない分はわたしが稼いであげるから、せいぜい頑張ってね。あ・な・た?」
意地悪な笑みを浮かべて上目遣いで見つめてくる星火に、導聞は引きつった笑みで頷く。
我が妻の本業は薬師だ。自分と同じ十八歳という若さに反して腕も達者なので、現在ほぼ無職な自分に比べて格段に稼ぎが良い。ヒモ状態な導聞は彼女に頭が上がらないのだ。……自分の方が稼ぐようになっても尻に敷かれっぱなしだろうが。
「――おい。ここは武館なのか?」
不意に、横合いから声がかかった。
男とも女ともとれる、中性的な声だった。
振り返ると、そこには見知らぬ少女が立っていた。
見た感じ、成人である十五歳まであと一、二歳と言った年頃か。活発さと可憐さを兼備した顔立ち。腰の辺りまで伸びた真っ赤な髪は太い三つ編みになっており、髪と同色である半袖の詰襟を着崩さずに着ている。背は導聞よりも頭一つ分くらい下と小柄で、体つきも細く起伏に乏しいたたたたたたたたた!!
「……今、この子の「どこ」を観察していたのかしら?」
「いて! いててて! ちょっと星火さん、誤解です誤解! つねらないで! 超愛してますから!」
暗黒微笑を浮かべながら脇腹をつねってくる最愛の妻を落ち着かせてから、導聞は赤髪の少女に話しかけた。
「……お嬢さん、この武館に用があるのかな?」
「ふざけるな! 誰がお嬢さんだ! ボクは男だ!」
少女――いや少年の憤慨に、導聞はぎょっとして、
「いや、だって、頭の後ろに三つ編みしてるじゃない」
「これは相手に掴ませるためのものだ! 敵がこの髪を掴んで引っ張り込んでやろうとしたら、その引っ張る力に乗って距離を詰めて靠撃を叩き込む。女の武術家がよくやっている戦法を真似ただけのことだ!」
『靠撃』……体当たりを意味するその単語を聞き、導聞は確信した。
「君も、武術を何かやっているのかい?」
「五歳の頃からやってる。ボクの名は臨虎。答えてくれ、あんたがこの武館の師範か?」
「いかにも。それがどうかしたかい?」
素直に肯定した途端、臨虎と名乗った少年の顔つきが変わった。紅顔可憐なそのかんばせに浮かんだのは、厳格な武術家の顔。
「この武館では何を教えるんだ?」
「【空霊把】って拳法だよ」
「……聞き覚えの無い門派だな」
臨虎は訝しむような表情となる。あまり好意的とは言えない反応だ。
「あんたもご存じだろうが、この帝都は宮廷や軍部、その他全ての官庁が全て集まった「国の中枢」。つまりここを潰されれば、この国は終わるってことだ。だからこそ、この帝都に伝承されるべき武術は、実戦本意のものでなければならない。つまり、「溶岩の中を泳いだ」だの「水面を歩いた」だのといった迷信で門人を集めて金儲けするようなインチキ門派は、この帝都ではあっという間に冷や飯食らいになる。この意味が分かるか?」
少年の言わんとしている事を読み取った導聞は、やや挑戦的に口端を吊り上げる。
「つまり君はさしずめ、帝都の武術社会を代表して僕の【空霊把】を査定に来た、ってことかな?」
「そんな大げさなものじゃない。ボクはただ確かめたいだけだ。そして、もしインチキだったら叩き潰して出直させてやりたい。ボクは幼い頃から武術が好きなんだ。だから花拳繍腿で金を儲けるヤツが嫌いだ」
『花拳繍腿』とは、見かけだけ華やかで実戦では何の役にも立たない武術や、その技を蔑んだ言い方だ。
だが――よりにもよって、爺さんの作った【空霊把】を「花拳繍腿」と疑うとは。
これは武術家として、看過できない事態かもしれない。
導聞はにっこりと笑いかけ、親しみのある声で次のように持ちかけた。
「臨虎くん、だっけ? 何なら……少し試してみないかい?」
臨虎はその言葉に内包された意味を察してくれたようで、戦意に満ちた微笑みで頷いた。