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導聞(ダオウェン)。  作者: ボルボ
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第二章 皇女襲来〈3〉

 どれほど腕前が習熟しようとも、基礎というのは生涯尊ぶべき宝である。


 どんな高手達人とて、基本功(きほんこう)——基礎を養う修行というのは一生練るものだ。いや、むしろそれができるからこそ彼らは達人になれたのだと言えよう。


 導聞(ダオウェン)は、自分が達人だとは思っていない。自分より強い者などきっと世の中にはいくらでもいる。何より、自分の義父であり師であった「爺さん」には、一生かかっても追いつけそうにない気がする。


 達人であろうと無かろうと、基本を練ることは変わらない。


 今のように。


 導聞は中庭にて、中腰で立った状態を維持していた。


 姿勢を真っ直ぐに保ったまま、大腿部が地面と平行になるくらいにまで腰を落としている。肩幅まで開かれた足の爪先は前を向け、膝はその爪先を超えない範囲でやや内側へ寄せている。肩は脱力させ、両腕は大樹を抱くような円を作っている。


 そんな姿勢を、すでに一時間は続けていた。


築基站(ちくきたん)』。

 立つことによって、武術における基礎的な姿勢を体に覚えこませ、なおかつ脚部の功夫を鍛える練功法。

 武術を学ぶ者がまず始めに行うのがコレだ。非常に苦しいが、決して軽んずべからざる大切な修行である。


 頭のてっぺんを天に押し上げ、顎を引き、水平に世界を見て、鳩尾(みぞおち)を内側へ含み、尾骶骨(びていこつ)を内股へ引っ込める――武術における正しい姿勢だ。それを作ることで上半身から余計な力みを抜き、真下へ体重を降ろす。


 降りた体重を支えるのは、馬の(くら)にまたがったような形の、中腰の立ち方。これは『馬歩(まほ)』という歩形だ。武術における全ての立ち方の母とも呼べるもので、どのような立ち方でも片足は必ず『馬歩』の形を取る。それこそが盤石に重心を支えられる形であると、武術家は知っているからだ。


 しかし、いかんせん、そのような体勢を長時間続けるのは楽ではない。導聞も汗を滝のように流していた。


 導聞は一時間この『築基站』を維持しているが、とてもじゃないが脚力だけでこの時間支えるのは不可能だ。


 肉体の芯である「骨格」で立っているのだ。そうすると無駄な力が抜けきり、全身の経絡が開き、気の流れが促進される。気が円滑に流れると、肉体は健康になる。


 ――ただ「立つ」ことだけに、これほど膨大な要素が詰まっている。それが『築基站』だ。


 もうしばらく経ってから、ゆっくりと腰を上げる。ふぅ、と大きく一息。導聞の着ている練習用の半袖は、水をかぶったみたいに汗まみれとなっていた。


【空霊把】は「無形」をうたっておきながら、このように形の決まった「有形」の練習をしている。それを矛盾だと思わなくもない。


 けれど、いかに【空霊把】でも、その「無形」を支える土台となるべき「有形」は必要である。


 否。「無形」だからこそ「有形」が必要なのだ。


「真の自由は、不自由の中にこそある」という言葉がある。

 【空霊把】において、「不自由」とは『套路』などの「有形」の技術を指す。

「有形」を学ばねば「無形」は得られない。

「有形」無き「無形」など、ただの癖字でしかない。


 これは武術だけでなく、人生にも同じことが言える。


 人間は生まれてから、まず最低限の道徳や倫理を学び、さらにその社会における規範、価値観、人との接し方などの常識……すなわち形の定まった「有形」を身につける。

 それから大人になり、様々な価値観や思想などと触れ合い、自分の生き方という「無形」を身につける。

 つまり武術とは、自分が自分として生きていく方法を身につけるための大きな力になるのだ。


 それすなわち「幸福」であると、「爺さん」は考えた。


 形を練って、形を捨てる——これを重んじる【空霊把】は、そんな「爺さん」の思想を反映した武術と言えよう。


 一度休憩しようと思ったちょうどその時、家から茶碗の乗った盆を持つ星火(シンフォ)が来た。


「あなたー、良いものができたわよー」


 その言葉から「もしかして料理でもしたのか?」と一瞬戦慄したが、恐る恐る茶碗の中身を見て飲み薬であることを確認した途端、心の底から安堵した。


 導聞はありがとうと言うと、茶碗を掴んで一気に飲み干した。疲労回復と滋養強壮に効果のある、妻特製の薬液だ。効き目は良いが凄まじく苦いため、速攻で飲み込んでしまうに限る。


 飲みきった後、盆に碗を返す。


「ありがとう、助かるよ」

「いいのよ。あなたは体が資本なんだから」


 奥ゆかしく微笑んでそう言うと、盆を持って再び家の中へと戻った。


 自分は本当に良い妻を持ったと思う。こういう細やかな気配りを受けるたびに、惚れ直してしまいそうだ。


 星火が戻ってきた。


 不意に、こちらの胸に抱きついてくる。凄まじく良い匂いがする。


「ふふふ、捕まえたー」


 突然の大胆な行動に、導聞は照れよりも戸惑いが先行する。


「あ、あのさ星火。僕、今汗かいてるんだけど」

「だからなぁに?」

「汚いよ」

「そんなことないわよー」


 しゅるり、と、首筋に伝う汗を艶かしい舌使いで舐めとられた。ぞわっと、くすぐったさが走る。


 欲しがるような熱っぽい眼差しを向け、イタズラっぽく微笑む妻。


「うふふ……あなたの味、美味しいわよ」


 ごくり。


 思わず生唾を呑む。


 男心の弱所を的確に刺し貫くような、扇情的な表情、仕草、声色。ことさらに押し当てられる豊かな双丘の柔らかさが、それをさらに引き立てていた。


「と、ところで今日、仕事は無いんだっけ?」


 導聞は心を必死に静め、そんな風に話をそらす。


「そうねぇ。今の所、誰も患者さんは来ないから。まあ、良い事ではあるんだけどね」


 星火の職業は薬師。仕事場は主にこの『祥武堂』だ。患者と会って問診をし、それから治療を施すという流れだ。継続が必要な治療の場合は一定の周期で患者を招く。


 健康とは人間の命題だ。人は生きている限り、大なり小なり健康を損なう。なので医学とはいつの世でも需要が高い。その分、稼ぎもそれなりだ。


 けれど中には、ろくな医学知識も無いのに医者を名乗って高い治療費を取ったり、迷信を医学に絡ませて人を騙すロクでもない連中もいる。「浮気したことのない蟋蟀(こおろぎ)の雌雄をすり潰して混ぜると万能薬になる」などといった医学的迷信を信じている者は、残念ながら今でも存在するのだ。


 星火の医学知識は、薬師でもあった「爺さん」譲りのものだ。彼女が医療と人の命に対して真摯に向き合っていることは、夫であり、同じ義父を持つ兄妹でもある自分が良く知っている。


「そういえば、臨虎(リンフー)ちゃんはいないの?」

「うん。今日は家で用事があるんだってさ」

「そっか。ふふふ、なら、今はあなたとわたしの二人っきりってわけね」


 言うと、星火は再びこちらの懐へ体重を預けてきた。柔らかさと甘い香り。


「あの、さすがに今の時間帯に”する”のは勘弁してよ? 人も来るかもしれないし」

「分かってるわ。でも、こうするくらいならいいでしょ?」

「汗かいてるってば」

「いいの。あなたの匂い、大好き」

「……それじゃあ」


 導聞も妻の細い体に優しく腕を回した。


 少し力を入れたら折れてしまいそうな儚さを腕の中に感じ、内に秘めた庇護欲が湧いてくる。


 導聞の顎辺りにある妻の頭部に顔を押し付け、髪の滑らかさと愛すべき香りを感じ取る。彼女は「やんっ」とこそばゆそうな声を漏らす。


 互いの感触と匂いに耽溺する二人。


 だが、それを邪魔するかのように、ドンドンと正門を叩く音が聞こえてきた。


「お客さんみたい。ちょっと行ってくる」

「わたしが行くわ。そんな汗まみれじゃ見栄えが悪いでしょ」


 そう言って、正門へ軽やかな足取りで向かった星火。名残惜しさを感じながらその後ろ姿を見送る。


 きい、と門の片方を開く。見知らぬ四人の男が現れた。


 星火は尋ねた。「どちらさま? 患者さん?」


 彼らは星火の姿に見とれるように一瞬硬直してから、我に返り、


「いえ、俺たちはその……導聞師範に用があるんです」

「そうですか。……あなたー、用だってー」


 妻の呼びかけに、導聞は駆け寄った。汗まみれなのは確かに見栄えが良くない。けど今はそのことから目を背け、


「僕が導聞ですが、何か用ですか?」

「はい。実は……お願いがあって来ました」


 一人がそこで言葉を止めると、残る三人とともに両膝を地に付く。右拳を包んだ抱拳礼を交えて、同音同義語で言った。




『師父、どうか俺たちを、あなたの弟子に加えてください!!』

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