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導聞(ダオウェン)。  作者: ボルボ
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第二章 皇女襲来〈2〉


 しばらく考えたのだが、生誕祭とは、皇女に対する「愛情表現」であると同時に「政策」でもあるような気がする。


 聞けば、皇女は現皇帝の一人娘だと言う。つまり、たった一人の子供なのだ。


 この国における皇室というのは、子供を複数人産むのが伝統だ。その複数人から一番優秀な人物を選び出し、次世代における玉座と玉璽(ぎょくじ)の担い手とする。


 けれども、今上(きんじょう)が授かることのできた子は一人だけ。つまり、皇位継承権は必然的に皇女に集中する。


 その重圧たるや、並々ならぬものだろう。


 なので、本人の実力をつけさせつつ、娘の心に潤いを与えてあげたい。そう思って生誕祭なんてものを考えたのかもしれない。


 さらに庶民の目に触れる機会を増やすことで、彼女自身の権威も強める意味もありそうだ。


 ……まあ、全て一庶民の勝手な憶測だろうが。


 『祥武堂』から出て南東の小道をひたすら北に進むと、東の大通りへ出た。ここ一ヶ月でよく目にする道だが、今日はいたるところに豪勢な飾り付けがしてある。


 いつも大通りには多くの人が往来しているが、今日は輪をかけて多い気がした。道端には屋台や露店がいくつもあり、商人たちが商いに勤しんでいた。売っているのは主に食べ物系だ。


 確かに人はたくさんいるが、それらは全て大通りの中央に皇女用の通り道を作る形で端っこに寄っている。


「すごい人だかりだねぇ、星火(シンフォ)……ってあれ? いない?」


 右隣を見ると、そこに彼女の姿はなくなっていた。


「師父、奥様なら……」


 左隣の臨虎(リンフー)が指し示す先へ目を向けると、食べ物屋の屋台と、そこで買ったのであろうお菓子を頬張っている星火の姿。目が合った途端、ぴょんぴょん跳ねながら手を振ってくる。


「なんだい、それ?」


 導聞(ダオウェン)は歩み寄り、妻の持つお菓子を指差して尋ねた。ふわふわと入道雲のように膨らんだ肌色の生地で、かじった箇所から見える断面は上から黒蜜、練乳、生地の三層で、あとは全て空洞だった。


「ああ、『甜雲包(てんうんほう)』ですね」


 答えたのは臨虎。


「そんな名前なんだ。僕は見たことないけど、帝都のお菓子なのかい?」

「はい。元々はとある宮廷料理人が暇つぶしで作った料理でした。家族に食わせたら思いのほか好評だったそうで、その家族が真似て作り始めたことがキッカケで市井にどんどん広がって、いつしか帝都の名物菓子となっていた、といった感じです。ちなみにその料理人、ウチの親父の師匠だった人なんですよ」

「へぇー。そうなんだ」


 導聞は感心しつつ、妻が「はい、あなた。あーん」と突き出してきた『甜雲包』を一口頬張った。ふもっ、という柔和な歯応えとともに、黒蜜のやや刺激的な甘みと、練乳の優しい甘みが口いっぱいに波及する。これは……


「美味しいね」

「でしょ? あ、頬っぺたに黒蜜が付いてるわよ」


 言うや、星火はとこちらの左頬に吸い付くように「ちゅっ」と唇を接触させた。


 すぐに身を引き、ちろりと舌を出して悪戯っぽく微笑む。


「うふふ。黒蜜の味とあなたの味が混ざって、美味しい」


 その笑みはひどく蠱惑的に見え、導聞の心をソワソワとくすぐった。


 しかし、慌てて呼吸で心を整えた。こんな往来で盛り出したくはない。ましてや一番弟子の前なのだ。


 その一番弟子はというと、こちらを見てはいなかった。人垣の隙間から視線を通し、大通りの左奥を注視していた。


 周囲のざわめきが突出した。


「師父、奥様、いらっしゃいましたよ!」


 こちらへ振り向いて晴れやかな表情で言う臨虎。その声に導かれるまま、人垣の隙間から彼と同じ方向へ目を向ける。


 まだ小さくはあるが、確かに馬車を中心に固まった集団が、『四正公園』の方角からほんの少しずつこちらへ近づいてくる。


 近づくにつれて、その姿かたちもはっきりしていき、周囲の歓声も大きくなっていく。


 育ちのよさそうな三匹の馬に引かれて、大きく豪勢な椅子を乗せた車がゆっくりと西から東へ轍を刻んでいる。その馬車の周囲を囲いながら歩を進めるのは、同じ制服に身を包んだ集団。上下ともに緩みなくぴっちりと素肌を隠した服装で、全身を覆う赤に細い金色の装飾が走っている。左腰には鞘に納まった剣が一本。


 彼らが守る椅子にどっしりと座っているのは、十二、三歳くらいの女の子だった。長いこげ茶色の髪は両側頭部で一束ずつにまとめられており、猫のようにやや吊り気味な金の瞳が印象的な顔立ちからは、愛らしさと同時に鋭い高貴さがうかがえる。ギラギラしない程度に光沢のある煌びやかな衣装は裾や丈が余るほどの大きさで、一見すると服を着ているというより「服に着られている」といった表現が適切そうだ。しかし、その座り姿勢から発せられる威光に衰えはみられない。


 間違いない。次期皇帝最有力候補にして、唯一の皇位継承者、煌蓮(ファン・リェン)皇女殿下のおなりである。


 ソレを裏付けるように、ドッ!! と歓声が輪をかけて大きくなり、導聞は思わず体を一瞬震わせた。


 黄色い声をあげる人民たちに応えるように、皇女はひたすら手を振った。


「すごい人気ぶりねぇ」


 隣の星火の呟きを、唇の動きだけで読む。


 頷いて同意を示す。


 あの愛らしくも上品な容姿も理由の一つなのだろうが、それだけではない。彼女の身が放つ浮世離れした雰囲気が、市井の民に「違う世界の人間」を思わせるのだろう。「違う世界」とは、いい意味で考えれば神々の棲まう天上の世界。そう、愛らしい容姿も相まって、彼女は天界から舞い降りた妖精であった。


 しかし、導聞はその妖精からもう一つ、「別の匂い」を感じた。そう、細かい挙動と姿勢から察するに、あの皇女はたたたたたたたたたた!?


「な、なんでつねるの星火!?」

「……見過ぎ。見惚れてたデショ」


 妻がぷくーっと頬を膨らませ、ジト目を送りながら脇腹をつねっていた。


「ち、違うんだよ」

「何が違うのよぉ」

「あの姫様……何か武術をやってる」


 目を見開く星火。うんうんと頷く臨虎。


「皇女殿下は幼少期から武を好む方で、数々の武術を習得なされているんです」


  そうなのか、と納得しつつ、再び皇女へ目を向ける。椅子が高い位置にあるので、人垣を隔ててもよく見える。


 あちこち見回しながら手を振っていたお姫様と、ばったり目が合った。やや驚いたような顔をしてから、すぐに百合の花が咲くような微笑みを返してくれた。


 導聞はやや戸惑いながらも、曖昧な笑いで手を振り返し、視線を下へ降ろす。今度は馬車と、それを囲って行進する赤服の集団に目が行った。


「ねえ臨虎、やっぱりアレって『皇室親衛隊(こうしつしんえいたい)』なんだよね?」

「はい師父。親衛隊は皇族や宮廷の警護を主な任務とする高級武官です」

「皇族を警護する、ってことは、腕はそれなりに立つんだ?」

「それはもう。親衛隊は審査が厳格なことで有名な狭き門です。高い功夫(ゴンフー)だけでなく、優れた馬術、応急処置程度の医学知識、的確な判断力などといった広範囲の技能や能力を求められます。入隊後も、無姓の庶民なら身元を調査されます。もしも反社会的組織に属していた過去があれば、その時点で追い出されてしまうのです」

「うへぇ……そりゃスゴいね」


 けど、宮廷や皇族を守る職務なのだ。それくらい厳しくて当然かも知れない。まして、今回の警護対象たる皇女殿下は一人娘なのだ。なおさら厳格であろう。


 馬車がようやく導聞の目の前まで来ようとした、その時だった。


「きゃはは、捕まえてみろー!」


 後ろから、幼いはしゃぎ声が聴こえてきた。


 振り向くと、食べかけの『甜雲包』を片手に持った十歳くらいの女の子がこちらへ駆け足で向かって来ていた。さらにその後ろからは「待てー!」「逃すなー!」などと笑い混じりな子供たちの声が聞き取れる。追いかけっこでもしているのだろう。


「こーら。人が多いんだから、あんまり走っちゃ——」


 星火が年長者らしくたしなめようとするが、先頭を走っていた女の子はすでに人垣の間を通ってしまっていた。……ってあれ?コレ、ちょっとマズいんじゃ……!


 導聞が止めようと考えた時には、すでに女の子は人垣から出ていた。つまり——皇女を乗せた馬車が通る道へ飛び出したということだ。


「うわっ!」


 人混みの間に出来た隙間から、女の子が派手に転ぶ姿が見えた。


 さらに、その手には先程まで持っていた『甜雲包』が無い。見ると、宙高くを舞っていた。転んだ拍子に投げ出されたのだろう。


 食べかけの甜雲包は放物線の上昇の軌道から、下降の軌道へ移る。


 落ちていく。


 べちゃ、


 という潰れたような音とともに——皇女の高貴な衣服に直撃。高級そうな生地を、練乳と黒蜜の白黒模様で彩った。


「あ……」


 導聞は硬直した。


 恐れていた事態が現実になってしまった。


 あれだけ騒いでいた周囲の人々も、水を打ったように静まり返っている。


 時間が止まったような空気が数瞬続く。


 世界の静止を真っ先に解いたのは、一人の皇室親衛隊員だった。薄茶色の髪が目立つ美しい女性、いや、少女である。


 しゅらん、と左腰の剣を右手で抜き放ち、起き上がった女の子の前に立つ。




 抜き身の剣身を——女の子の首筋に突きつけた。




 な。


「娘、最後に何か言いたいことはあるか?」


 金属のように冷ややかな声色が、酷薄にそう告げる。


 衆人がどよめいた。


 導聞も、我が目を疑っていた。まさか、あんな小さい子にまで剣を向けるのか。


 女の子はというと、黒蜜と練乳で汚れた服を着る皇女と、自分の首筋近くに刃を止めた女親衛隊員を交互に見やり、青ざめた表情を浮かべていた。


「待て茅藍(マオラン)、何をしているっ?」


 抜剣した臣下に対し、皇女は席から立ち上がってそう訊いた。


 対し、茅藍と呼ばれた女親衛隊員は至って事務的な口調で、


「この者は皇女殿下に狼藉を働きました。これは立派な不敬罪。この場で即刻処刑しなければなりません」

「まだ子供だぞ」

「だからこそです。今この所業を笑って許してしまえば、後続を作ることさえも許してしまいます。そうすれば、いつか殿下を狙う組織が子供を刺客として放つやもしれません。そうなる前に、子供でも容赦はしないという姿勢を民に見せつけなければなりません」


 言うや、茅藍は再び女の子へ視線を戻す。


「もう一度聞こう。娘、最後に何か言いたいことはあるか?」


 訊くが、女の子は一目で分かるくらい顔面蒼白で、あまりの恐怖に声すらも出ない様子。


「……声も出ないか。なら、尋ねるべきではなかったな。では——死ね」


 死の宣告。


 右手の剣を左へ引き、両膝を軽く落として勁を溜める。


 次の一拍子で、彼女の剣は下半身から生まれた勁を受けて疾り、女の子の細い首を容易く通過するだろう。


 しゅぴん、と銀の軌跡が走り、




 女の子の首筋へ達する寸前で、止まった。




 剣を振り抜こうとした茅藍の右腕を、導聞が止めたからだ。


 正確には、彼女の右手に握られた剣の柄尻を右掌で押さえ、残った左手で彼女の右肩口を押して一瞬だけその体軸をズラした。


 発勁で重要なのは、足と姿勢だ。


 足は歩法によって勁を生み出す役割を持ち、姿勢はその生み出した勁を減退させずに打撃部位ないし武具へと伝達させる役割を持つ。この二つはどちらとも欠いてはならない。


 導聞は彼女の姿勢を押して崩すことで、足底から生み出された勁の伝達を途中で断絶させたのだ。


 こちらを振り返った親衛隊の少女と、間近で目を合わせる。


 肩甲骨の辺りまで伸びた薄茶色の髪がさらさらと揺れている。気丈そうな紺碧(こんぺき)の瞳が真っ直ぐこちらを凝視していた。薄桃色の唇は驚きであんぐり開いている。


「ま、まあまあ。相手はまだ子供なわけだし、ね?」


 そう愛想笑いを投げかけた途端、呆けていた茅藍の戦意が再燃した。剣を持っていない方の手を掌底の形にし、足底から湧出する勢いのままこちらへ疾らせた。


 けれども動きを一拍子速く読んでいた導聞にとって、その攻撃を御することは赤子の手をひねるがごとしである。やってきた掌底を右手で上から押しつぶすように掴み取り、そこを介して両者の骨が繋がっている意念を思い浮かべる。足底で大地を撃発させて湧き上がらせた力を彼女の骨格へ伝達。


「うおっ……!!」


 導聞の寸勁(すんけい)を受けた茅藍は派手に後ろへ吹っ飛んだ。倒れそうになるが、両足で地面をしっかり踏みしめた。摩擦で勢いを殺す。


「っ……貴様ぁ……何のつもりだっ!!」


 彼女は鋼を擦るような怒声をぶちまける。


 それを合図にしたかのように、他の親衛隊員が導聞と女の子の周囲をゾロゾロと取り囲む。


 女の子を庇いつつ、さてどうしようかと考えていると、


「皆の者、控えよ!!」


 幼くも気迫と威厳に満ちた一喝が轟いた。


 音源は、馬車に乗っている皇女だった。


 導聞はその姿を認めるや、片膝を地に付け、右拳左手の抱拳礼を行った。


「皇女殿下、お騒がせしてしまい誠に申し訳ありません」

「……良い。それよりもそなた、名は?」

「導聞と申します」

「導……聞……覚えたぞ、そなたの名。もう忘れぬ。二度とな」


 どうしてそこまで忘れたがらないのか。自分は罪人認定されてしまったのか。


 気になるが、今は置いておく。自分には彼女に言いたいことがあるのだ。


「皇女殿下、恐れながら、一つ申し上げたく思います。発言をお許し願えますか」

「申してみよ」

「……この子の不敬を、どうかお許しいただけないでしょうか?」


 親衛隊を含む、周囲にいる人間全員がざわついた。


「ふざけるな!! そのような事が許されるものか!! この慮外者(りょがいもの)がっ!!」


 茅藍が激しく抗議してくるが、その声を無視する。決めるのは臣下ではなく主君なのだ。もう一度皇女へ語りかけた。


「殿下、子供とは目の開ききっていない雛鳥のようなものであると、僕は思います。目が完全に開いていなければ、世界は分かりません。世が見えぬ、分からぬ雛鳥が闇雲に世界を這い、それに対して「巣から落ちるな」「物にぶつかるな」という方が、酷な話でございましょう」

「ほう? だからそなたは無知を免罪符にしたいと?」

「とんでもありません。今回の無礼は「失敗」として受け止めさせたいと、僕は思っております。失敗は悪いものではありません。失敗とは「痛い経験」。失敗すれば、よほどの間抜けでない限りは必ず骨身に染み入ります。人の成長とは、その積み重ねです。ましてこの子にはまだまだ前途にあふれております。どうか、未来の芽を摘み取らないで頂きたい」


 神を崇めるように、合わせた右拳左掌をさらに持ち上げ、こうべを垂れる。


「――以上の事を、謹んで奏上(そうじょう)いたします。どうか何卒(なにとぞ)、寛大なる御心遣いを」


 導聞はそう締めくくった。


 再び、周囲が不気味なほど静まり返っていた。濃厚な緊張感がただよった、居心地の悪い静けさである。


 頭を下げているため、皇女がどんな顔をしているかは見えない。


 しかし、数秒の間を置いてから、重々しく命じられた。


「導聞よ、(おもて)を上げよ」


 言われた通り、顔を上げる。眼前には、面白いオモチャを見つけたような笑みを浮かべる皇女の姿。


「良かろう——と言っても構わぬが、妾は公人である。(いさお)や献上品を持ち寄らぬ者に、何かを授けることは出来ぬ」

「何がお望みでありましょう?」

「そなたの力を示してみせよ」


 言うと、皇女は茅藍を指さした。


「その茅藍と立ち合ってみよ。さすれば勝敗の如何にかかわらず、その娘の不敬を水に流そうではないか」

「分かりました」


 即答。意図は分かりかねるが、戦えば勝ち負け関係なく女の子を許すというのだ。受けない手はないだろう。


 当然ながら、茅藍本人はえらく反対した。


「殿下!? 何をお考えなのですか!? ……貴様も貴様だ! 何を勝手に勝負を受けている!?」


 皇女には戸惑いの表情を、導聞には烈火のごとき怒りの顔をそれぞれ見せる。


 そんな茅藍に、皇女は天上から振り下ろすように命じる。


「茅藍、これは(ちょく)だ。その意味が分かるな?」

「っ……はい」


 納得いかないと言いたげな表情を浮かべつつも、渋々了承する。


 途端、周囲を取り囲んでいた親衛隊員たちが一斉に端へと移動した。


 茅藍は右手足を前に出した半身の立ち方となる。右手の剣を並行に構えた。


 『剣』というのは、真っ直ぐ直線上に伸びた両刃の剣を意味する。反りを持った片刃の武器は『刀』と呼ぶのが一般的だ。


「さあ、貴様も武器を構えろ」

「いや、持ってないんだけど……」


 導聞が言うと、親衛隊員の一人が歩み寄り「使え」と自身の剣を抜いて差し出してくるが、


「あ、いや、結構です。ちゃんと用意できそうです」


 丁重にお断りした。もし彼らの武具を壊してしまったら、後の警護任務に支障が出るかもしれないからだ。


 なので「ちょっと待ってて」と告げてから、女の子を引き連れて、人混みの先頭に立つ星火へ近寄る。


「この子をお願い」

「ふふ、はい。あなた」


 厄介事に巻き込まれたというのに、怒りもせずにそう微笑んでくれる。


 自分への揺るぎない信頼を感じ、嬉しくなる。


 そんな愛妻の美しい黒髪へさらり、と指を通す。滑らかな感触とともに、髪の毛を一本手に掬う。


「一本借りるね」


 ちゅっ、と額に口づけをしてから、踵を返す。


 再び先ほどの立ち位置へ戻った。


「……なんだそれは」


 導聞が片手にぶら下げる「それ」を指差し、茅藍は押し殺したような声で尋ねる。


「髪の毛だよ。奥さんの髪の毛。煌国一綺麗な黒髪さ」

「まさか貴様……その髪の毛で戦うというのか?」

「そうだけど」


 皇女は「ほう」と興味深げに微笑し、衆人のガヤ音が一瞬だけ増す。


 茅藍の顔貌は憤怒で歪んだ。


「貴様……この私を侮辱するかっ!!!」


 まあ、当然怒るだろう。


 けれど、侮辱したつもりは一切ない。


 髪の毛だって、上手く使えば立派な凶器になるし、人だって殺せる。それを今から見せようじゃないか。


「よし、得物も決まったな。では双方、名乗りを上げよ!」


 皇女の発言とともに、右拳左掌の抱拳礼を行う。


「【空霊把】、導聞」

「【四路砲捶(しろほうすい)】、趙茅藍(ジャオ・マオラン)


 互いに武器を構える。


 茅藍は体の右半分を前に出した半身の立ち方になり、右手の剣を左後方へ引いて腰を落とす。


 導聞は髪の毛を持った右手を少し前へ出し、自然体で構えた。


「では——始めっ!!」


 皇女の声が、戦いの火蓋を切って落とした。


 真っ先に動いたのは茅藍だった。


「シィッ!!」


 左足で大地を蹴りつけ、蓄勁から発勁に移った。地から身体上部へ競り上がった勁を体の展開でさらに増幅させ、右手の剣を鋭く横薙ぎ。【四路砲捶】の一技法『転身摔捶(てんしんしゅっすい)』を剣で用いたものだ。


 疾い。


 さっきはあんなに怒っていたというのに、太刀筋からは雑念が少しも見られない。「斬る」という純度の高い意思で練られた気を強く感じる。「剣を操る」のではなく、彼女自身が「剣になった」ような剣心一如(けんしんいちにょ)の一振り。


 導聞は剣の間合いにすっぽり収まっている。あと刹那の時が経てば、導聞の胴体に深い斬り傷が生まれるだろう。


 しかしその時すでに、導聞も動いていた。


 足から勁を生み、それを体内の細かい運動によって細く、細く、細く研ぎ澄ませ、右手に持った愛する妻の髪の毛に付与する。


 途端、ダラリと垂れていた髪の毛が——針のように真っ直ぐ立った。


 剣身と髪の毛が、互いに円弧の軌道を描きながら近づく。


 ぶつかる。

「スゥッ」という、紙を裂くような感触。

 "通過"した。


 髪の毛が通った場所から先の剣身が、切り離される。刃渡りが短くなり、それによって導聞は太刀筋の外となった。


 剣を分断させたのだ。


「刃物で斬る」という行為は、見方を変えれば「極細の面積へ加重する」という行為になる。剣や刀などの刃は、その「極細の面積」。それを叩きつけるからこそ、相手に切り傷を負わせられるのだ。


 ならば、非常に細い髪の毛もまた、その「極細の面積」という条件を満たしている。だからこそ勁を送り込み、刃物として利用することができた。


 さらに一本線状に固まった髪の毛は、その尖端で刺すこともできる。


 剣を振り抜いた事で、茅藍の胴体がさらけ出される。その一瞬の隙を突く形で風のように入り身。


 茅藍の右目の薄皮一枚離れた位置で、針と化した髪の毛の尖端を寸止めさせる。


 カツゥン、と剣身の片割れが落下する音。


「あ……あ…………」


 信じられないとばかりに目を大きく開き、唇を震わせる茅藍。


 彼女の右腕が力なく垂れ下がり、刃が途切れた剣がするりと手から滑り落ちた。


「ま、参った……」


 降参の意思を聞くや、黒い針がくたり、と脱力し、一本の髪の毛へと戻る。


 しばしの沈黙。


 やがて、衆人が爆ぜたように歓声を上げた。


「うわっ」


 導聞は驚きで跳び上がる。


 耳の許容量がいっぱいいっぱいになりそうな拍手喝采。その勢いたるや、皇女がやってきた時と同じくらいのものであった。


 拍手を放つ人の中には皇女や、茅藍を除く親衛隊員も含まれていた。


 導聞は星火のもとへ戻ると、


「はい星火、髪の毛。返すよ」

「いや、返されても困るんだけど……」


 妻は受け取った髪の毛と何度かにらめっこしてから、ポイッと捨てる。


 その隣にいた臨虎が宝石みたいな羨望の眼差しを輝かせながら、


「流石です、師父! まさか親衛隊員をあれほどアッサリ敗ってしまうなんて! しかも髪の毛で!」

「いや、彼女も強かったよ。あの年代の子で、あれほどの一太刀を放てる者はなかなか……ん?」


 ふと、星火の背に隠れながら、顔だけひょっこり出してこちらを見ている女の子に目がついた。


 星火は小さな背丈に合わせてしゃがみ込んで向かい合う。ニコニコしながら女の子の頭へ手を置き、


「ほーら、ちゃんとお礼言わなきゃね」

「うん」


 女の子ははっきり頷くと、一歩前へ出る。こちらを真っ直ぐ見つめながら、舌ったらずな口調で言った。


「ありがとう、白髪のお兄ちゃん」


 ペコリ、という擬音がよく似合う、可愛らしいお辞儀だ。


 心が暖かくなった導聞の口が自然とほころぶ。その小さな頭をサラサラ撫でた。


「どういたしまして。もう生誕祭で追いかけっこしちゃダメだよ?」

「うん」


 小さな口に微かな笑みを浮かべ、首肯した。


 気がつくと、拍手喝采も弱まっていた。


「良きかな、良きかな。大変素晴らしい比武(ひぶ)を見せてくれて感謝するぞ、導聞。健闘を讃えよう」


 皇女は今なお拍手しながら、そのように絶賛してくる。


 緩んでいた表情をいくらか引き締め、天上の姫君を見上げる。


「これで、許してくださるのですね?」

「ああ、約束だ。その娘のした事は不問に致そう。まあ、元々罰する気など無かったが、そなたの功夫に興味があったゆえ戯れの気が起きてしまった。どうか許してたもれ」


 皇女は含み笑いでそう言った。


 ……幼く見えてもさすがは皇族。何を考えているのかさっぱり分からない。


 もしかすると、最初に目が合った時から自分を狙っていたのではないか? 


 そう勘繰りたくなる。


「……ほれ茅藍、いつまでも膝をついてないで早く立つのじゃ」

「…………はい」


 主からそう呼びかけられると、茅藍は欠けた剣を拾って立ち上がった。


「ではな導聞。妾はこれにて失礼する。また会おうぞ」


 その言葉とともに、親衛隊はまた馬車を囲う位置へと戻る。御者が手綱を振るとともに、再びゆっくりと馬車が移動を始めた。


 去りゆく一団の様子を、導聞はただ見守った。




 また会おう。

 この言葉が、単なる形式的なものではないという事を知るのは、その後すぐのことであった。


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