第二章 皇女襲来〈1〉
『祥武堂』の看板を掲げてから、すでに一ヶ月が経過していた。
最初の門弟、臨虎の成長速度には驚かされるばかりであった。
基本の套路『大架』は、始まりから終わりまでの長さも含め、全ての動作を覚えきるのに最低でも三ヵ月はかかる。臨虎はソレを、たった一ヶ月で覚えきってしまったのだ。
あとは幾度も反復練習していけば、おのずと「無形」の発勁を打てるようになるはずだ。
『大架』の練習でそれなりの功夫をつけたら、次は『小架』という套路を学ぶことになる。『大架』の動作を小さく縮めたものだ。これを学ぶことで、さらに小さな動作から「無形」の発勁を放てるようにする。
一番弟子の成長以外は、一ヵ月前と何も変わり映えしない日々が続いた。
そう……何も変わり映えしていないのだ。良くも悪くも。
「弟子が……集まらないな」
家の軒下に置いた椅子に座りながら、導聞は思わずそうこぼした。
中庭を見る。そこには人っ子ひとりいやしない。外から入ってきた黒猫一匹がふてぶてしくうろついているだけだ。この間星火のあげたエサが気に入ってまた食いに来たのだろう。
弟子はいまだに臨虎一人。その分、稼ぎもスズメの涙であり、妻の星火の稼ぎが欠かせない状態だった。
「もっと大声で宣伝すれば良いじゃない」
小さな卓を挟んで向かい側に座る星火が言った。
「いや、良い武術なら、自然と人が集まってくると思ったんだけど……そんなに甘くはないみたいだね」
「あなた、何事も謙虚が美徳とは限らないのよ。身の丈に合わない大言壮語でも「【空霊把】は史上最強!! 他は有象無象!!」くらい言った方が人はよほど集まるわ」
「いや、そうかもしれないけど……代わりにたくさんの門派を敵に回しちゃうよ。いたずらに敵を作ることは、「爺さん」の教えの望むところではないよ」
「……まぁ、そうだけど。やっぱり、人死にが出た物件っていうのが足かせなのかしらね」
うーん、と二人して渋面を作っていると、母屋の奥から足音が近づいてくる。軽やかだが、優れた重心の安定がよくわかる足音だ。
赤髪の三つ編みを尻尾のように跳ねさせながらやってきたのは、女の子みたいな顔をした美少年。一番弟子の臨虎である。
「師父、奥様、どうぞ」
中性的な声とともに、持っている盆に乗った二つの茶碗が、卓の上に移される。
「ありがとう。いただくよ」
「いつもありがとうね、臨虎ちゃん」
夫婦そろっての感謝に、臨虎は盆を抱きしめて「いえいえ」と照れ笑い。紅顔可憐な美貌にその笑顔は反則級に愛らしい。
茶杯の端に口をつけ、黄緑色の熱湯を軽くすする。
まろやかな苦味とほのかな香ばしさをからめ合わせたような味わいが舌と鼻腔を優しく包む。驚くべきことに、渋みがほとんど無い。
「……美味しい。こんなお茶、ウチにあったっけ?」
導聞が思わず舌鼓をうつと、臨虎はしてやったり、とでも言わんばかりに拳を握りしめた。ニンマリと誇らしげな顔で、
「それ、『青龍纒峰』ですよ」
「うそっ?」
思わず目を丸くした。
『青龍纒峰』とは、茶葉の品種である。旗族から市井の民まで様々な層の人々に親しまれている、由緒ある茶葉だ。
茶葉の等級にもよるが、この茶には大なり小なり渋みがあり、淹れ方が上手いほどその渋みが減ってまろやかさが増すと言われている。つまりこの茶は、臨虎の淹れ方が達者な証拠である。
「お気に召していただけて幸いです。最近、科霖から淹れ方を教わったんですよ」
「へぇー。彼女、茶館で働いてるんだっけ?」
「はい師父。いつか自分の店を持ちたいそうです」
あの事件以来、臨虎は科霖とよく行動を共にしている。
いや、より正確には、科霖が毎度それらしい理由を作って臨虎と一緒にいようとしているのだ。
恋する乙女の行動力は素晴らしいものだ。……もっとも、臨虎自身は彼女の想いに全く気づいていない様子だが。
「うーん、マジな話、どうやって弟子集めようかー……」
導聞は茶をもう一口飲んでから、元の話題へと回帰させた。
臨虎は少し考える素振りを見せてからハッと目を大きく開き、名案が浮かんだとばかりに卓へ身を乗り出した。
「師父が路上で芸をして見せれば良いんです! 芸で衆人の注目を一挙に集めてから、宣伝するんですよ!」
「なるほどなぁ。でも、芸って言ったって何をやればいいんだろう?」
「何をおっしゃる! 師父には足で美しい字を書くという素晴らしい特技があるではありませんか! それを見れば皆師父の功夫に感服するはずです!」
「素晴ら……しいかなぁ?」
言われるまま、導聞は想像する。衆人環視の中、足の親指人差し指に筆を挟んで、白紙にすらすらと文字を書き連ねていく自分の姿を。……うん。なんかちょっと恥ずかしい感じがする。
「それはそうと、なんだか今日は大通りの方角が騒がしいね?」
導聞はそう言って、北方向を向いた。東の大通りが通っている方角だ。
何やら仰々しい人の賑わいが、遠雷のように聞こえてくる。
「今日って、何かお祭りでもやるのかな?」
導聞が首を傾げて言うと、星火は少しむくれた顔で、
「あなたってば、わたしがこの前話した事聞いてなかったデショ」
「えっと……ゴメン。聞きはしたんだけど、聞き流しちゃった感じかな」
「聞いてないのと一緒よ。今日はね、皇女殿下の生誕祭なんだって」
「皇女?」
そこから先を、臨虎がさらに付け足すように説明してくれた。
「現皇帝皇后両陛下の御息女、煌蓮殿下です。両陛下はなかなか子宝に恵まれなかったようで、ようやく生まれた皇女殿下をいたく溺愛しているそうです」
「なるほどね」
この「生誕最」も、溺愛の行為の一つというわけだ。
しかし、現皇帝は聡明であることに定評のある御人だ。ただ娘が可愛いからという理由だけで、そんな催しをするだろうか。
考えを巡らせる前に、臨虎が続けた。
「それで「生誕祭」では、皇女殿下が帝都の大通りを歩いてくださるんですよ。ボクたちのような市井の民の前に現れる、数少ない機会です。だからこそ、殿下を一目でもいいから見たい、といった感じで人が集まる。さらに人が集まるという機会を狙って出店を出す商人も少なからずいるので、金回りも少しは活発化します」
「へぇー」
導聞は考えることを一度やめた。
その時、お腹に響くほど重鈍な鐘の音が轟いた。『四正公園』のど真ん中にそびえ立つ時計塔『黄龍峰』が、正午を告げたのだ。
「あ、鳴った。多分、そろそろ宮廷から皇女殿下が現れるんじゃありませんかね」
臨虎の説明を聞いた星火が、卓越しにポンポンとこちらの腕を叩いてくる。
「ねえねえあなた、行ってみましょうよ」
「え? で、でも臨虎の修行は……」
そう言葉を濁す導聞に、一番弟子はにっこりと良い咲顔を浮かべ、
「今日は午前中教えていただいた分だけでやめておきます。師父と奥様も生誕祭を見に行っては? 一年に一度しかない行事ですからね」
「だって。行ってみましょうよー、あなたー」
「んー、それなら大丈夫かなぁ」
導聞がそうこぼした瞬間星火は席を立ち、いそいそと家へ入って準備を始めた。