第一章 祥武堂〈終〉
まさか、被害者がすすんで名乗り出てくれるとは思いもよらなかった。
突然『祥武堂』に入ってきたのは、硝子の躑躅の髪飾りをした女の子であった。
その闖入者に対して、最初に声を発したのは臨虎だった。
導聞が知り合いかと尋ねると、昨日あの三人の男に絡まれていた本人だというのだから驚きである。
その髪飾りの少女も、臨虎が昨晩自分を助けてくれた「事実」を教えてくれた。むしろ本人はそれを証明するためにここへ来たそうだ。
臨虎の潔白が証明され、三人の男の嘘が露呈した瞬間だった。
当然ながら、森森は怒髪天を突く勢いで怒った。敬うべき師を欺き、他門派間と問題を作ったのだから無理からぬことである。
彼女によって、半年間の謹慎という厳しい沙汰を言い渡された三人は、魂が抜けたような顔でとぼとぼと帰っていった。横眼に、溜飲を下げたような顔をした臨虎の姿を見た。
破門ではなく謹慎にしたのは、恨みを買わないためだろう。
武館を営む武術家が一番慎重に行うのが、実は「破門」である。一回二回不正をしたくらいでいちいち破門にしていたのでは弟子がすぐ減ってしまうし、根性のねじくれた人間ならば逆恨みされてしまう可能性だってある。なので、ほとんどの武館ではよほどの事をしない限り破門にはならない。
逆に言えば、破門になったということは、その「よほどの事」をした裏付けにもなる。なので破門経験者は、新しい武館に入りたくても門前払いをくらうことが少なくない。
……まあ、破門に関する事情はひとまず置いておこう。
今、自分が何とかしなければならないのは、次に起こった問題だ。
導聞はその「問題」を、気後れした顔で見下ろした。
「――申し訳なかった。貴公らには伏して謝罪しよう」
足元には、両膝と手のひらを地に付けて、背中が平行になるくらい頭を伏せた体勢――土下座をした森森の姿。その土下座っぷりは、雛形にしても良いくらい様になっていた。
導聞は何かを押すように両掌を前に出しながら、
「いや、もういいですよ。誤解が解けたなら僕はそれで構いませんから。頭をどうか上げてください」
「いや、私は自分の面子の事ばかりに気を取られて、貴公らの面子を著しく潰してしまった。貴公とその弟子と、この門派に対して泥を投げつける行為に等しい。何か詫びをさせて欲しい。私にできることであればなんでも致そう。靴を舐めろと言われれば舐める。一晩身体を許せと言われても拒否はしない」
「そんな、身体だなんて――ヒッ!?」
背後から、背中の肉をえぐるような殺気を感じた。
振り向かなくても分かる。ドス黒い影の差した微笑を浮かべる妻の姿が。
恐怖でカタカタと痙攣する手を後ろに隠しながら、
「すみません、家内に殺されるのでそういうことは言わないでください。いやマジで」
「ならば、どのように償えばいい?」
森森がすがるような上目遣いを向けてくる。今まで鋭い目つきしか見てこなかったので、この表情は貴重だと思った。
この人は良くも悪くも自分に厳しい人なのだろう。無条件に許されるというのはかえって重荷になるのかもしれない。
なので、一応だが、償いの機会を与えた。
「……では、一つだけ、お願いします」
「なんだ? やはり身体がいいのか?」
「違います!」
これ以上星火を刺激しないでください。僕の身の危険にかかわる問題だから。
気を取り直し、導聞は深呼吸してから、
「――いつか、助けてください」
「助ける、だと?」
「はい。もしも僕や僕の門人だけでは解決できない事に遭遇したら、その時にあなたの力を貸してほしいです。僕としては、それだけでも十分です」
その発言に対し、森森は考え込むようにうつむいた。
しばらくしてから、何かを決したように顔を上げた。
「……心得た。もしも助力を求められたなら、『仙踪林』の看板に誓い、必ずや力を貸そう」
「ありがとうございます」
「いや。寛大な処遇、感謝する」
そう言って再度深く頭を下げると、ようやく立ち上がってくれた。ホッと安堵のため息をつく。
それから、森森はすぐに『祥武堂』を後にした。
次に注目したのが、臨虎が昨日助けたという少女だ。本人は科霖と名乗った。
彼女が一番の功労者である。彼女がいなかったら、争いは激化していただろうから。
導聞は髪飾りの少女へ歩み寄り、
「科霖さん、だったかな? さっきは本当にありがとう。君のおかげで助かったよ」
「い、いえっ。あたしは本当の事を言っただけですからっ」
科霖は高速でかぶりを振りながら、上ずった声で言う。
かと思えば、チラチラとしきりに一定の方向――臨虎の方を見る。
彼女が臨虎に向ける眼差しはとても熱を持っていて、強く欲するような色があった。
導聞は「なんだろう」と一瞬考えて、すぐに答えを見つけた。
ひょっとして…………
科霖は臨虎に気づかれないようにチラチラしていたつもりだったのだろが、今、臨虎がこちらを向き、目と目がぶつかり合ってしまった。
かっきーん、と凍りつくように固まる科霖。かと思えば急激に顔を真っ赤にしていく。
対し、臨虎は遠慮無しにつかつかと歩み寄った。
「なあ、あんた」
「ひ、ひゃい!?にゃ、にゃんでしゅかっ!?」
舌噛み噛みな科霖の口調に首を傾げながらも、臨虎は深々と頭を下げた。
「ボクからも礼を言わせて欲しい。ボクの無実を証明してくれて本当に感謝する。助けたつもりが、逆に助けられてしまったな」
「そ、そそそそそんなっ!お、お礼なんていいですよ!」
「そう言うな。もしボクに出来ることなら、何か謝礼がしたい。何か言ってくれ」
「……そ、それじゃあ…………」
科霖は何か希望があるようで、悩むようにうつむいた。チラチラとしきりに臨虎を見る。
かと思えば、二度、三度と深呼吸を繰り返し、やがて意を決したような表情で次のように言った。
「こ…………今度、あ、あたしとお茶してくれませんかっ!?」
耳まで真っ赤に染まっていた。
それを見た星火は「はっはーん?」と察したような笑みを浮かべていた。
導聞も同様の顔だった。
しかし、臨虎は彼女の言葉の意図を全く分かっていないようで、拍子抜けしたように目をしばたたかせながら、
「え? そんなことで良いのか?」
「い、いいんです!むしろ、十分嬉しいです!」
「そうか。なら、明日の午後からはどうだ?」
「は……はい!!時間あります!!」
「良かった。それなら、明日の昼、『四正広場』で待ち合わせよう」
「はいっ!!」
天にも昇りそうなほど輝かしい笑顔で頷く科霖。
「ウチの一番弟子も隅に置けないわねー」
「そうだねー」
そんな二人を、星火と導聞は微笑ましげに見守っていたのだった。