いたさぬアホップル
独りで暮らすには充分、二人だと不足気味。
そんな六畳半のボロ部屋に二枚の布団を並べて敷く。
ここ二年ほど、寝る前に俺が行う【一日の最後を締めくくる仕事】。
何故、布団を二枚並べて敷くか。
それは至極単純明快に、この部屋には【布団を利用する者が二名いるから】と言う事に他ならない。
二年もやっていると手馴れるもので。
俺が布団を敷き始めたならば、そこから一分ほどで二人分の就寝準備が完了する。
ベッドメイキングの世界選手権があるそうだが、もしそれの布団版があったのならば、きっと俺はかなり上を狙えると思う。
マスコミに【布団メイキングの貴公子】とか持て囃される事になるかもな。
悪くない未来だ。
開催されないものだろうか、布団メイキング世界選手権。
「何を考えているかはサッパリわからんが、君はいつも楽しそうだな」
少し呆れた様にそんな事を言ってきたのは、俺が働く研究所の先輩職員。部署は違うけど。
いつもながら、「眉間のシワと三白眼さえどうにかできれば『よッ、この絶世の美女』と呼ぶのに躊躇う必要が無いのになぁ」と周囲に揶揄されてしまう仏頂面をしておられる。
まぁ俺個人の感覚としては、そんなお顔も素敵ですけどね。
綺麗カッコ良い。凛々しい。先輩すごく凛々しい。よッ、この絶世の男前。
普段は白衣を着こなしている先輩だが、現在はランニングシャツにウサギさんのアップリケが付いた短パンと言う超クールビズスタイルで窓辺を独占している。
季節は梅雨と初夏の狭間。普通に過ごしていると暑い……しかし、この時期からエアコンを起動するのはエコ精神が傷む。
人類が薄着で窓辺に走るのは至極自然の摂理だろう。先輩も人の子だと言う事だ。
俺としても非常に眼福であるのでよろしい。
「君の様な人間をノーテンキと言うのだろうな」
「……? それは何か悪い事なんですか?」
「私が君を貶す訳がないだろう。羨ましいだけだ」
そんな仏頂面で腕組みしながら誰かを羨望するの、多分先輩くらいなものだろう。
もうかれこれ二年も一緒に暮らしているのに、未だにこの人の感情は読めない。
まぁ、聞けば何でも素直に答えてくれる先輩なので、感情が読めなくても困る事はほとんど無いが。
素直な先輩可愛い。仏頂面とのギャップも良い味出てる。
綺麗カッコ良い凛々しき顔立ちに素直可愛い性格とかもう無双級だよね。
「――ところで、君にひとつ聞きたい事がある」
「はい? なんですか?」
「質問に入る前に、確認しておく。これから私が行う質問に対して、当然至極、君には【黙秘権】がある。なので答えてくれなくても構わない。だが黙秘されると私はとても寂しい。とてもだぞ。逆に答えてくれると非常に嬉しい。非常にだ。とても非常に。それを踏まえた上で、私を落ち込ませたいか喜ばせたいかは、君の意思に委ねよう。私は君を信じている」
随分と丁寧かつ遠回しな物言いだが、要するに「答えてくれないと私は泣く」と言う事だろう。
やだなぁもう。俺が先輩を泣かせる様な真似をするとでも? 舐められたものだ。それとも、まだ俺は先輩へ尽くしたりないと言う事か。精進せねばだな。
「わかりました。で、何を聞きたいんですか?」
「単刀直入にいこう。君はもしかして【セックス】と言う概念を知らないのか?」
……いきなり何言ってんだこの人。
「先輩、俺が一体何年【思春期】をやらしてもらっていたと思っているんですか。【セックス】の事は当然知っていますよ。よく知っていますとも」
俺が電子辞書を買ってもらって最初に検索した単語を何だと思っているんだ。
もちろん当たり前、【セックス】だ。
当時は「ちゃんと載ってるゥーッ!! すげぇーッ!!」と友人らとバカ騒ぎしたものだ。
一〇回ゲームでも「セックスって一〇回言ってみ? じゃあこれは?」と言って靴下を指差すのが流行ったりした。
そしてソックスと言える感じだとしても敢えて「セックス!」と答えるのが暗黙の了解だった。
保健の教科書に載っている全ての【セックス】や【性行為】といったワードを特に意味の無いただの本能から蛍光ペンでマーキングしたりもした。
見落としがない様に学年の男子ネットワークで発見情報を共有していた。
そんな俺が、【セックス】を知らないと言う訳がない。
例え神様に「カマトトぶらないと死ねな」と言われても俺は【セックス】に関してだけは嘘を吐かない。【セックス】とだけは正面から向き合っていたい。
「では、今ここがパブリックな場だとしても憚られない程度に配慮して、その概念を説明せよ」
「はい。【一般的】に、有性生殖生物が同種族間の雌雄でカップルを組み【子孫の繁栄】または【性的欲求の解消】のためにいたす行為です。【特殊な例】であれば【種族の組み合わせ】・【性別の組み合わせ】・【カップルを構成する数】については変動する場合があります」
「及第点をあげよう」
「やったぜ」
当然の事でも先輩に褒めてもらえるのは嬉しい限りだ。
なんなら頭を撫でてくれても良いんですよ? 流石に求め過ぎですかね?
「……では何故だ。意味がわからんぞ」
「……? 先輩は今、何にそんな殺意を剥き出しにしているんですか?」
「これは怒りではない。疑問を抑えきれないだけだ」
「はぁ……一体何がどう疑問であると……?」
「……そうだな、君でも私の思考がトレース出来る様に、順を追って説明しよう」
「是非お願いします」
「まず、私がこの部屋に転がり込んできて今日で何日目だ?」
「二年くらいですね」
「そう、正確には七三八日目だ」
「随分と具ですね」
「君との生活は毎日が記念日だからな」
「わお」
死にそうな程に嬉しい事を言ってくれる。
明日の晩御飯は先輩の大好物であるタコライスを作ろう。たくさん作ろう。ちゃんと半トロの目玉焼きが乗っている奴だ。デザートにプリンも用意しちゃう。ちゃんと先輩仕様の生クリームとフルーツ缶詰のみかんを乗っけた奴。
「話を戻すが、私と君が共同生活、言うなれば……そ、その……ど、【同棲】を始めて、結構な時間が経過している事は理解しているな?」
「はい。少し時間の流れの早さを感じますが」
思えば、先輩が突然「共同生活を通して相互理解を深めたいのだが」と提案してきたのももう二年前か。
今でも鮮明に覚えている。五分前の記憶と同程度の鮮明さだ。
やれやれ、楽しい時間は早く過ぎる様に感じると言うが……まさしくだな。
楽しい時間ほど長く過ごしたいものだのに……すごくジレンマ。ジレンマックスだこれは。時間と言う概念を作った輩に訴訟を起こしたい気分この上無い。
あの時はもう、我ながら有頂天にもほどがあった。
余りにも素敵な提案だったからな。
何せ、当時の俺からすれば先輩は【初めて見かけた時に「うわ、かっけー……迫力あるなー、あの先輩……ッ、ウサギさんのハンカチ……だと……!?」とギャップに一発ノックアウトされ、ほぼ一目惚れの様な状態で憧れていたものの、接近するキッカケが中々掴めずに距離感が遠く、ただ遠目に視線を送る事しかできない先輩】だったのだ。
そんな先輩が、ある日唐突突然青天の霹靂。いきなりどうしてだか、端的に「仲良くしよう」と手を差し出して来た様なものだ。
きっと、先輩は俺の視線に気付いてくれたのだろう。「やれやれ、毎日毎日、熱い視線な事だ……どれ、あのシャイボーイのために私と仲良くするキッカケを、こちらから作ってやろうじゃあないか。部署が違えど先輩だものなぁ」的な男前的思考からの行動だったに違いない。
そう言えば、あの時に全力で首を縦に振りすぎたものだから、翌日、首が筋肉痛になっていたっけか。
「この七三八日間。私は君と生活を共にした。当然、互いに私生活は丸晒し。互いに互いの隙だらけな姿を見せつけ合っている訳だ」
「そうですね……いつもありがとうございます」
「……何のお礼だ?」
「個人的なお礼なので、お気になさらず」
その辺りに関しては、確か先輩の方から「ここではお互い、気遣いは最低限でいこう」と提案してきたし、余り注意は払っていない。
先輩のご意向だ。俺が無下にできるはずもないだろう。
そして先輩の無防備な姿にはいつも癒されています。
ややブラック気味な部署にいても「君はいつも楽しそうだな」と言ってもらえる様なテンションなのは先輩のおかげです。
本当にありがとうございます。
「では気にせずに話を続けるが……何故なんだ?」
「…………はい?」
何が?
「まだわからないのか……? 良いか、自ら『同棲しよう』と切り出す様な……もう……何て言うかこう……色々な【好意的感情】を隠す気の無い異性が目の前で隙を晒しているのに、何故に君は……その………………ぃ、いたそうとしない?」
自ら共同生活を提案し色々な【厚意】を隠そうとしない異性、と言うのは、まぁ先輩の事だろう。
本当、先輩の厚意には感謝の限りだ。先輩の方から近付いてくれなかったら、きっと俺は今でも遠目に先輩を見ているその他大勢でしかなかっただろう。
俺がこの共同生活で萎縮しない様に、自ら率先して「これくらい無防備でもええんやで。許すぞい」と手本を見せてくれる厚意も有り難い。
で、このタイミングで【いたそうとしない】と言うと……流れ的に【セックス】の話か?
それって……
「それはつまり、【何故に俺は先輩といたそうとしないのか】と言う事ですか?」
「ぁッ、いや、ま、まぁ……そう言う事だ」
「………………………………」
何故に先輩と【セックスをいたさないのか】……端的に言えば【ドスケベエッティ事をいたさないのか】。
「………………ん? と言うか、そもそもの前提について疑問があるんですが……いたしても良いんですか?」
「きゅえ?」
何今の締め上げられた鶏みたいな声。
俺は何か変な事を聞いたか?
だって生物学的には【セックス】とは【子孫繁栄】のために行う粘膜接触でしかないと言っても、だ。
現代の人間社会的パラダイムに置いて、【セックス】が持つ意味はそれだけではない。
絶対的に【いたすのに充分な身体的発育と健全】、そして【お互いの了承】が必要なはずだ。
前者は、まぁ問題は無いだろう。
俺も先輩も良い歳だ。あと四・五年もすればチビッ子達に容赦なくおじさんおばさん呼ばわりされる年齢になる。即ちアラサー。
職場の定期健康診断の結果は互いに良好。性病の類も無い。
だが、後者は?
俺としては、先輩の事は傍にいれるだけでテンション上がる程度には大好きなので、そう言う関係になれるならば嬉しい限りと言うかハピネスマキシマムウルティマでおそらく嬉死するが……先輩はどう思っているのだろう。
先輩がハッキリとそう言う意思表示をしない限りは、俺の方から手を出すべきではないと、俺は考える。
確かに先輩は最高に先輩だ。
だが、人間と言う一生物として見れば【華奢な女性】。俺より一回りは小さい。腕力的には俺の方が圧倒的優位にある。
痴漢被害者は痴漢に対して【恐怖】を覚え、動けなくなってしまう事が多いと聞く。
もし俺が欲望のままに先輩に襲いかかれば、流石の先輩でもそう言う心理状態に陥ってしまって、本当は嫌でも拒絶する事ができないかも知れない。
そうだ。先輩は顔こそ怖い感が否めないが、意外と乙女趣味な所もあるし、素直で可愛い性分。きっと怯えきってチワワみたいに大人しくプルプルする事しかできなくなってしまうに違いない。
敬愛すべき、そして普通に大好きな先輩に対し、そんな無礼かつ非人道的行いをするのは圧倒的にナンセンスだ。
「ぃ、いや、だってそれはその……ど、同棲を提案している時点でそれは……察して欲しい事項であると言うか前提として通過していると考えていただいても構わない範囲ではないかと私は思うのだが……?」
「?」
ただでさえゴニョゴニョと小声な上に、何やら動揺している様子で早口なもんだからもう何言ってるのか聞き取れない。
「あのー? 先輩?」
「………………あ、いや……その……だな……うん…………へ、変な事を聞いてしまったな。すまない。忘れてくれ」
「……? はぁ」
まぁ、先輩がそう言うのなら、追求はしない。
うーん……でもしかし、今の先輩の質問は、どう言う意図があったのだろうか。気になるな。
……あ、もしかして、安全確認的なアレか?
同居し始めて二年も経って、今更「そう言えば私、野郎とひとつ屋根の下じゃね?」と気付き不安になったのだろうか。
気付くの遅いちょっぴりヌケサクな先輩可愛い。
「じゃあ先輩、寝ましょうか。ささ、先にお布団へどうぞ!!」
「あ、ああ……」
ん? 先輩、何を親の仇を前にした様な表情で頭を抱えているのだろう。
「……何と言うか、君はその、天然の要塞だな」
「?」