第六話
ここまで来る途中、走り回っている警官達を何度も見かけた。多分、自分を捜しているのだろう。だけど、まだ見つかるわけにはいかない。
稔は身を隠したまま、咳き込んだ。
「っ痛…」
治りかけていた首筋がまた痛む。起き上がったり歩き回ったり、じっとしていないから傷の治りが遅いのだと、何度か医師に言われていた。
正門の前は警官がうろついていて、きっと見つかってしまうだろう。稔は職員用の駐車場から校内に入れることを思い出した。あの周辺は運動部の部室ばかりだし今はどこのクラスも授業中だから、入ってしまえば見つかることはない。
自分が他人に迷惑をかけていることは分かっていた。叔母夫婦だってきっと今頃心配してくれている。両親のことを口に出すと決まって悲しそうな顔をするから、二人の前では忘れたふりをしていたけど、本当は忘れることなんて出来なかった。母さんのことも、父さんのことも、あの事件のことも。
『…私を裏切ったりしないだろう…?』
そうだ、本当は裏切りたくなんかない。いつもみたいに笑って「あれは夢だった」って、一言で良いからそう言ってくれれば信じられる。
だから、裏切らないで。
稔はきつく目を閉じて涙を堪えると、顔を上げた。
「…嫌だよ…」
もう誰もいなくならないで。これ以上、大切な人を失くしたくないんだ。
稔が人の気配に気付いて背後を振り返ったときにはもう遅かった。何かを口元に押し当てられて気が遠くなる。必死に振り払おうとする力が失われるのに、そう時間はかからなかった。
『いつまで待っているつもりなんだ、由香里』
聞いたことのない男の大きな声に、稔は驚いて机の上に広げていたアルバムを床に落としてしまった。お母さんが大切にしている、お父さんの写真。
『あいつはもう帰って来ないんだ』
『そんなこと、分からないわ。明日帰ってくるかもしれないし、一年後に帰ってくるかもしれない』
最初から聞く耳を持たない由香里に、秋吉は子供が近くにいるのにも構わず、掌で机を叩いた。
『いい加減にしろ! そんな気が遠くなるような話…』
言ってから秋吉はやっと稔が自分の近くまで来ていたことに気付いたようだった。
『…おじさん、誰?』
稔は相手の顔をじっと凝視して尋ねる。
『この子が…』
稔の顔を見つめたまま呟く秋吉に、由香里は笑顔を向けた。
『おまえの小さい頃にそっくりだ』
『私の息子だもの、当たり前でしょう。…稔、話の邪魔になるから向こうの部屋に行ってなさい』
それが生きているお母さんを見た最後だった。
稔がドアの向こうに消えてしばらくは何事もなかったのが、だんだん二人は激しく言い争うようになって、
ドア越しでも大声が聞こえてくる。
そして不意に静かになった。じっとしていられなくなった稔がドアを開けた瞬間、頭上から赤い液体が降り注いだ。目の前で母親が傾いて、まるで人形のように倒れ伏す。床に赤い血溜まりができても、その状況を理解することができなかった。
コトン、と音がして秋吉の手にあった灰皿が床に転がる。稔はただ呆然と立ち尽くして秋吉を見上げた。
優しい人で、お父さんとお母さんの大切な友達なの。
違う。この人はお母さんの言っていた人じゃない。優しいって言ってた。だからお母さんを殺したりするはずがないんだ。
秋吉は表情を動かさずに稔の前に膝をついた。ゆっくりと手を伸ばしてその首に手をかける。泣いているように顔は俯いたまま、手に力を込めようとしたとき、稔が秋吉を凝視して口を開いた。
『…おじさん、誰?』
ひやりとした空気にうっすらと目を開けると視界は真っ暗で、カーテンの隙間からはあのときと同じ、茜色の光が射していた。途端にあのときの恐怖が蘇る。
どのくらい気を失っていたのかは分からないけれど、かなり時間が経っているらしい。
「…う…」
頭が重い。今までにも何度かこんなことがあったような気がする。薬品の臭いと目覚めたときの不快感は、病院で魘されたときに嫌というくらい経験した。
「…睡眠薬か…」
気だるさを訴える身体を無理矢理起こすと、傷を庇いながら周りを見回した。電気は点いていないけれど、憶えがある。図書室だ。
「どうして」
「司書の先生が休みで良かった。休館なら誰も入って来ないからな」
人目を気にするように入ってきた秋吉は、そう言って内側から扉に鍵を掛けた。
「…先生…」
「大人しく病院で寝ていれば良かったのに」
冷たい声音に、稔は自分自身を守るように後ずさる。こんな声だっただろうか。こんな目をしていただろうか。
「…先生が、北沢先生を殺したの…?」」
図書室は広かったけれど、本棚や机に邪魔されて思うように動くことができない。
「何を言いだすのかと思ったら、そんなことを訊くためにこんなところまで一人で来たのか。…君だって見ていただろう。私があの男を」
「嘘…、俺、何も憶えてないんだ。あの日のこと、全部忘れる。だから」
縋るように、稔の前に屈み込んだ秋吉の腕を掴む。顔を伏せているけれど、肩の震えで泣いているのだと分かって、秋吉は苦しげに眉をしかめた。
「お願いだから、優しい先生に戻って」
「…のせいだ」
掠れた声でうめく。稔は顔を上げて目を瞠った。
「…せんせい…?」
「おまえのせいだよ、由香里」
その意味を理解するより早く、壁に押しつけられた背中に痛みが走る。大きく骨張った手が首筋を圧迫していて、痛いというよりは苦しかった。
「おまえが、いつまで経ってもあいつのことを忘れないからっ…どうして…私の方が慎一よりずっとを、おまえを大切にしていたのに…っ」
目が正気ではない。稔はその手を引き剥がそうとしたが、力の差は歴然としている。あの日、まるで抵抗できなかった、あの力だ。恐怖と苦しさで、喘ぐように言葉を紡ぐ。
「…俺は…母さんじゃ、ない…」
秋吉には聞こえていないようだった。視界が霞んで、頭がぼうっとする。意識が薄れていくのを辛うじて堪えながら、稔は何度も声にならない声を上げた。
「裏切り者…」
「…い…、せん、せ…っ先生…ッ」
だんだん力の入らなくなっていく腕を必死に持ち上げて、無意識のうちに秋吉の手の甲に爪を立てる。
いつも優しかったのは、俺が母さんに似ていたから?
絞めつける指の間から血が流れる。瞠目した秋吉が一瞬だけ手を緩めたとき、閉めたはずの図書室の扉が大きな音を立てて開いた。
「あんまり、イイ趣味じゃないな、先生」
冷ややかな言葉を投げかけた達也の手には、いつもは職員室で保管されているマスターキーがある。
「…慎一…」
混乱したまま血走った眼で達也を睨みつける。期せずして束縛から解放された稔は、一気に肺に流れ込んできた空気に咳き込んだ。
「大丈夫か」
稔の傍に膝をついた達也は、ぱっくりと開いてしまった傷口に手を当てると背中を擦って尋ねる。
「いろいろ無茶なことをしてくれるな、君は」
「…ごめ…なさ、い」
稔は荒い呼吸の下で、途切れ途切れに答えた。
「…また、私を裏切るのか…由香里…」
ふらりと立ち上がった秋吉が、色を失った瞳で二人を振り返る。その目はもはや、達也も稔も見ていなかった。映っているのは慎一という男と由香里という女だけだ。
「裏切ったのはどっちだよ」
怒気を含んだ言葉を、達也は秋吉にぶつけた。
本当に、父親のように慕っていたからこそ、あんなになってまで庇っていた。何もかも思い出しても、誰にも言わずここまで来た。その稔を、また裏切った。
「あんたが稔にしたこと、思い出してみろよ。これから先も、稔はあんたのせいで苦しむかもしれないんだ」
いくら未遂でもこの先、疵が残らない保証はない。自分を助けようとして目の前で北沢が殺された疵、そして信頼していた秋吉に裏切られた疵。
「…由香里…、私は…」
「あんた、狂ってるよ。…どうかしてる。こいつは由香里なんて女じゃない。それに、あんたの言ってる由香里は、あんたが殺したんだろう」
言われて、秋吉は目を見開いた。
「調べたんだ。あんた、村瀬由香里が死んで半年もしないうちに見合い結婚してる」
「…そうだ。もう、由香里を待つ必要もなくなったんだからな…」
俯いたその表情を見ることはできない。
「何故…私だと思ったんですか」
秋吉は諦めたように長い溜め息をついた。カーテンの隙間から窓の外が見える。パトカーや覆面が何台も校内に入って来て、警官が校舎に入るのが分かった。
「あんたが最初に面会に来たとき、あのときはまだ睡眠薬を使わないと眠れなかったんだ。病院は規定の時間以外に薬を投与したりしない」
元々、日中は警察や弁護士の面会があるかもしれないから、睡眠薬は服用させないことになっている。
「稔には分かってたんだよ、あんたが自分を襲った犯人だって。だから無意識に見ないフリしたんだ」
もっと早く気付くべきだった。あの後、様子がおかしくなってそれどころではなかったからから、眠っていたのだと思い込んで疑っていなかった。突然急変したのも、記憶の断片が一時的に戻ったからだ。
秋吉は、肩を竦めた。
「七年前のように…忘れていると思って安心していたのに」
階段を駆け上がって来る警官達の足音が聞こえる。ただ呆然と二人のやりとりを聞いていた稔は、その音で我に返った。
「…先生…?」
図書室に三人の姿を認めた三崎は、警察手帳を開けて白い紙と共に示す。
「秋吉和夫さんですね、北沢春明殺害容疑で逮捕令状が出ています。署まで御同行願えますか」
秋吉が無言で目を伏せたのを承諾の意と取って、部下に連れて行くよう指示する。刑事の一人が取り出した手錠を目にした稔は顔色を変えて立ち上がった。
「やめて」
駆け寄って腕を掴むと、すがるように秋吉を見上げる。
「お願いだから…先生までいなくならないで」
黙って稔を見下ろしていた秋吉は一瞬だけ愛しそうに表情を緩めて、目を閉じると強く稔を突き放した。
「…おまえの父親も、私が殺した」
秋吉の言葉に、ふらついて達也に支えられた稔は声にならない呟きを洩らす。
「…え…」
「慎一さえいなくなれば、由香里が帰って来ると思った。…私はおまえの思っているような人間じゃない」
感情のない声でそう言うと、踵を返して今度こそ手錠を掛けられる。
「嘘…」
警官達に連れられた秋吉の姿が扉の向こうに消えるのを、焦点の合わない目で追う。急に身体中の力が抜けて自分で自分を支えられなくなった稔は、達也に凭れたまま、魂まで抜けた人形のように床に座り込んだ。
壊れてしまった。
「だって、俺のこと殺さなかったもの。…七年前も今も…先生は俺のこと殺さなかったじゃないか…」
稔は涙を流すことも忘れて、誰にともなく呟く。
「…村瀬くん」
達也は、稔の名前を呼んだ。こういう状態がいちばん危ないのだと、知っている。自分が昔、そうだったから。支えを失った心が、壊れる。
きょとんと達也を見上げた稔の目から、思い出したように涙が零れる。
「……」
稔は達也の腕に顔を埋めて泣いた。どうしてやるのがいちばんいいのか分からず、達也はただ黙って抱きしめて、稔が泣き止むのを待った。
5月17日 レイアウト変更