第五話
医師の話によれば、身体の機能や意識は正常に戻っているし、脳波にも異状はみられないらしい。単純に考えれば、昨日のことが何らかの影響を与えたことになるが、だとすれば例の自虐行為にもそれを引き起こすきっかけがあったはずだ。
事務所のドアを開けると、デスクで書類の整理をしていた昌輝が振り返った。
「おかえり。おまえ、また何かやらかしたのか」
「?…何が」
訳が分からすに訊き返すと、ひとみが肩を竦めて所長室を示した。
「止めてくださいよ。所長、嫌なことあったらすぐ拗ねちゃうんですから。困るんですよ、篭もるともう手がつけられなくて」
今朝、達也が事務所で事務処理をしていたときは顔を合わさなかったからすっかり忘れていた。
「まーだ怒ってんのか」
「何やったんだよ」
興味深そうに身を乗り出してきた昌輝を無視して、達也は自分のデスクに鞄を投げ出した。
「どうした、知恵熱でも出したのか?」
机の上に無造作に放られた薬の袋を目にして、昌輝が茶化す。何の処方薬か、知っているくせに。昌輝の場合は確信犯だから質が悪い。
「何やったのかは知らんが。悪いこと言わないから、さっさと謝ってきたほうがいいぞ。あいつ、根に持つタイプだから」
志摩子とは大学で同期だった昌輝は、達也とは反対に刑事事件を主に扱っている。民事が得意の達也に殺人事件の仕事が回ってきたのは、昌輝が依頼を三つも抱えているせいでもあるのだ。
達也は昌輝の書きかけていた書類の目をやった。
「…内容証明?」
「中学生狙いの変態ストーカー。未成年だからあんまり騒がれたくないんだってさ」
「へぇ。俺だったら絶対、慰謝料とれるだけとる」
おまえは男だからな、と言って昌輝がにやりと笑う。
「今度やったらムショ行きだって脅したら、日和ってやがった。ったく、いい歳して『ママ』はねェだろ」
達也が空笑いだけを返すと、呆れたひとみが「弁護士がそんなことしていいんですか」とぼやいた。昌輝の法律に引っ掛かりそうな暴走は今に始まったことではないから、いまさら何を言ったって誰も止めない。いつ恐喝罪で捕まったとしても誰も驚きはしないだろう。
「おまえの方はどうなんだ、大変そうだけど」
昌輝が達也の方に向き直って尋ねる。達也は思い出したように溜め息をついてこめかみを押さえた。
「…大変なのはこれからなんだよ」
はっきり言って、今までの期間は殆ど何の意味もなかった。弁護士は警察ではないから、依頼人の証言を基に仕事をするのが基本だ。今回は国選でもないし、稔自身の意志がなければどうすることも出来ない。それでなくても稔の状況は不利だったが、彼が犯人だとはどうしても思えずにいた。それは志摩子の言う同情なのかもしれないけれど、それ以上に納得のいかない点が多すぎる。
「達也さん」
考え込んでいた達也は、事務所の電話が鳴ったことに気付かなかった。顔を上げるとひとみが受話器を手にして達也を呼んでいる。
「病院からです」
嫌な予感がして素早く受話器を受け取ると、坂本というあの看護婦からだった。
「岡崎先生!?」
「稔くんが、どうかしたんですか」
勢い込んで話す看護婦を落ち着かせるように言って、先を促す。
「さっきまた稔くんが」
その言葉で連想したのは当然、昨日の夕方と同じ光景だった。けれど、怪我をしたのかと尋ねると、看護婦はいいえと答えた。
「暴れたとかそういうんじゃないんです。ただ…魘されていたみたいで『怖い』とか『助けて』とか、そればっかり何度も」
“また”魘されていた。あの時も、昨日の昼にも同じことがあった。確証はないけれど、それは多分事件に関わることだ。
仮に稔が犯人だとして、一体何が『怖い』というのだろう。何から『助けて』欲しいのだろう。犯人ではなく、つまり目撃者なのだとしたら、辻褄は合う。殺人現場を見て『怖い』と感じ、稔が目撃者であることを犯人が知っているのなら、そして口を封じようとしているのなら、『助けて』の意味も分かる。けれどそれなら何故、あの時そうしてしまわなかったのか。あの場所であの状況下で、出来なかったわけではないだろう。現に凶器についた指紋の処理はしているのだ。
「今は落ち着いてるから、今日はもう大丈夫だと思いますけど、一応。家族の方にも連絡だけはしておきました。心配するでしょうから」
「ああ、ありがとう」
よく気の回る看護婦に感謝して、達也は受話器を置いた。
あまり気が進まなかったけれど、一応仕方なく所長室のドアを叩いてみる。返事はなかった。そんなに怒っているのかと恐るおそるドアを開けると、志摩子は眠っていて電気も点いていない。昼間からずっと寝ていたようだった。
「おい、そんなところで寝たら」
近づいて手を伸ばした達也は、机の上に開けっ放しのアルバムを見つけて思わず手を引っ込めた。見てもいないのに、何故かそれがあの人の写真だという確信があった。全身から血の気が引くのを感じる。
「…っ」
見てはいけない。脳から身体中に警告が鳴り響くように、頭の芯が痺れて目眩がする。達也は顔を背けてその場を離れると、ドアに背中を預けて座り込んだ。
『裏切り者』
可哀想な人。ずっと独りで苦しんでいる、可哀想な人。
『憎い』
だけど優しい人。本当は誰よりも、哀しいくらい優しい人。
どこで間違ってしまったの?
…本当は。
『もう裏切らないで』
あなたは誰を見ているの?
…本当は。
『もう裏切らせないで』
本当は、誰に何を伝えたかったの?
大好きなのに信じたいのに大切なのに。
お願いだから『壊さないで』。
自分の声で目が覚めた稔は、弾かれたように飛び起きた。息苦しさに、きつくシーツを掴んで荒い呼吸を繰り返す。
「っ痛…」
少し落ち着くと、首の傷が痛みを訴えているのに気がついた。無意識のうちに弄ったのか、きれいに巻かれていた包帯が解けかけている。頬に違和感を感じて指で触れ、自分が泣いていることに気付いた。夢だけではなく、涙が頬に残る跡を何度も何度もなぞっていく。
…傷が痛むせいだ、きっと。
「今日で三日目だ」
病室に入ってくるなりそう言われて、訳が分からず稔は首を傾げる。
「何が?」
「君が魘されるようになってから」
達也が閉めきっていた窓を開けると、生温い空気を押し出すように朝の風が吹きこんできた。遠くに東京湾が見える。周囲は穏やかな住宅街で、緑も多く見晴らしがいい。
「何が原因なんだろうな」
目が覚めると何の夢だったのか分からなくなっているという。ただ、息苦しさと異様なまでの恐怖感が残っているだけで。
稔はしゅんとして俯いてしまった。
「…ごめんなさい」
「いや、君が謝ることじゃないよ。そんなつもりじゃないから、ごめん。それに、ほら、記憶が戻りかけてるのかもしれないし」
責めているつもりはなかったので慌ててそう言うと、稔は小さく頷いた。首の包帯はまだ取れていない。顔色も前より悪くなって、疲労が見える。
その時、病室のドアが開いて男が顔を出した。
「…岡崎先生、ですか」
あのいけ好かない奴ではない。さすがにもう顔は出せないと思ったのだろう。男は黒い手帳を開いて警察であることを示すと、達也に向かって軽く一礼した。
「今度、事件を担当する三崎です。先日は部下が出過ぎたことをしたそうで、申し訳ありませんでした」
部下といっても歳は同じくらいか、それより若く見える。正真正銘の官僚なのだろう。人の良さそうな、けれど感情の読めない笑顔を浮かべる彼の言葉を、達也はぴしゃりと撥ねつけた。
「謝るなら彼に。俺は警察みたいに犯人捜すだけが仕事じゃない、弁護士は依頼人を守ることが仕事ですから」
「せ、先生」
必要以上に攻撃的な物言いに、稔の方が慌てて宥めに入る。
「俺なら平気だから。…それに、憶えてないから謝られても困るし」
上半身を起こし疲れた顔で息を吐くと、稔は二人に背を向けて掠れた声で呟いた。
「訊きたいことがあるなら訊いて下さい。どうせ何も憶えてないから」
「思い出せること全て話してもらいたい」
「何を思い出せばいいのか分からないから」
三崎の誘導的な言葉をさらりと交わす。達也が事件のことを尋ねたときも同じ反応で、積極的に思い出そうとしているようには見えない。故意というよりは、無意識のうちに思い出すことを拒絶しているようだ。
あの日、学校で何をしていたのかと尋ねると、やはり稔は首を振っただけで黙り込んでしまう。
「北沢に会ったんじゃないのか」
そこで何かがあったと考えるのが妥当な線だろう。答えがないのには構わず、三崎は先を続ける。
「北沢か、別の誰かを見たんじゃないのか?」
「知らないっ」
稔の声が、達也が三崎を制止しかけたのを遮った。
「誰にも会わなかったし誰も見ませんでした」
喘ぐようにそう言うと、稔は呼吸を整えてシーツを引き寄せる。
「…ごめんなさい…何か、疲れてるみたいだ」
それ以上は何も言えなくなって二人が病室を出ると、入れ違いに医師と看護婦が入っていった。警官をおかないでいいのかと尋ねると、三崎はあんなことの後ではあまり良い顔をされないので様子を見るだけだと言って苦笑した。
「また、『何も憶えてない』か」
「…また?」
達也が訊き返すと、三崎はええ、と言って何枚かの写真を取り出した。一枚は見覚えのある村瀬由香里で、残りは彼女の亡骸を収めた現場の写真だ。頭を割られているらしく、頭部からの出血がひどい。凶器は近くにあった灰皿だと教えてくれた。
「七年前、彼のお母さんが殺されたときも、彼はそのすぐ傍にいた。母親の返り血を浴びるほど近くに」
そんなことを紗也香は言っていただろうか。「見つけた」とは言っていたが。
「あのときも村瀬稔は今回と同じように何も憶えていなかった」
「どういう意味ですか」
「言った通りです。もしも村瀬くんが犯人ではないとしても、そこだけ憶えてないというのは都合が良すぎると思いませんか」
確かにそうだ。けれどそれだけでもたくさんの可能性がある。はじめから何も見ていなかったのかもしれないし、見ていたけれど本当に憶えていないのかもしれない。見ていて犯人を庇っているのかもしれない。そして本当は犯人である可能性。
「勘違いしないで下さい。別に村瀬くんが犯人だと言っているわけではありません」
どこがだと毒づく代わりに、達也は当然ですと言った。
「むしろ彼は被害者です」
「でも犯人を見ている。あなただってそう思っているんでしょう」
三崎に図星を指されて、ぐっと言葉に詰まる。そのことは何度か稔に尋ねたけれど、期待していたような答えは得られなかった。
「彼が庇うとしたら、誰だと思いますか」
訊かれて考えてみても、特に思い浮かぶ人間はいない。仲の良い人間なら結構な数だが、無意識だとしてあんなになるまで庇うような相手となると限られてくる。
「…身内っていっても叔母夫婦くらいだし、北沢を殺す動機も機会もない」
「お互い、同じようなところで引っ掛かっているみたいですね」
三崎が肩を竦めて、二人は病院の外に出た。
このままじゃ駄目だ。
どうしたらいいんだろう。
「助けて…」
きっと本当は知ってるんだ。誰が、北沢先生を殺したのか、知っている。どうしてあんなことになったのか。思い出さなきゃいけないのに。
「…嫌…」
思い出してはいけない。壊れてしまう。
「助けて…先生…」
『壊さないで』。
シーツに埋めていた顔を上げると、稔は手を伸ばして上着を掴んだ。
しばらく写真を眺めていた三崎はもしかしたら、と呟いて達也にそれを預ける。
「同じ犯人なのかもしれませんね。手口も現場の状況も似ていますし」
「…灰皿、ですか」
「被害者は煙草を吸わなかったそうなので、おそらく来客用でしょう」
犯人は手元にあったそれを咄嗟に凶器にした。女と子供しかいない家に入れるということは顔見知りで、しかも信頼されていた人物に限られる。
「…どうして彼は殺されなかったんだろう」
「それじゃあまるで殺されたほうが良かったみたいに聞こえますよ」
呆れたように三崎が言った。そういうつもりではないが、犯人にしてみればその方がずっと安心できる。子供でも見られてまずいことには変わらないし、彼が記憶を失くしていなければ警察で証言されていたはずだ。
「殺さなかったんじゃなくて、殺せなかったんじゃないですか」
子供だから、と続ける。そんなものだろうか。衝動的に人を殺すと精神が昂揚して、必要以上に残虐になったり犯行を繰り返したり、とにかく理性を保っていられなくなる場合が多い。
「一人殺しても二人殺しても一緒だって思うけど」
何気なく呟いた達也に、三崎は再び呆れる。
「それを仮にも警察官である私の前で言うんですか」
「いや、あくまでも犯罪者の心理の一般論ですけど。それに七年前はともかく、今は高校生ですよ。子供といっても法廷での証言能力だって十分あります」
達也は気がついて、持っていた写真を三崎に返した。二つの事件が繋がっているとしても、二つを繋ぐ動機はない。
「一般論ってことは、例外もありますね。例えば、見られていたことに気付いて逆に我に返った、とか」
ありえないことではない。少なくとも理性的な思考が働いていたことは確かだ。
「彼が絶対に証言できないという確信でもあったのなら別ですが」
「まさか。記憶を失くしていることまで、七年前も今回も警察は公式発表していないでしょう」
「もちろんです。ですが身内や関係者は知っていることなので、知っている可能性は高いですが」
言ってから、何か都合の悪いことでも?と三崎が尋ねる。
「いや、犯人がそのことを知っているのなら、かえって都合が良い。口封じに来る心配がありませんから」
そう達也が言ったとき、病院の中から看護婦が転がるように駆け出してきた。息を整える間も取らず、凄い剣幕で達也の腕を掴んだ。
「稔くんが」
その言葉に、達也と三崎は顔を見合わせる。三崎は穏やかに看護婦の背中を叩いた。
「落ち着いて。…彼が、何ですか」
「いないんです。捜したんですけど、病院のどこにも」
驚いて、そして稔自身が動く可能性を考えなかった自分達の迂闊さに腹が立った。
自分から行ったのだ、犯人のところへ。あのとき、病室で様子がおかしかったのに注意を払うべきだったのに、追い詰めないようにと深追いしなかったのが裏目に出てしまった。
「…思い出したんでしょうか」
「多分」
三崎の言葉はあまり聞こえていなかった。ただ頭の中で今までのことを懸命に思い出す。何か、きっかけになるものがあったはずだ。それも先刻やここ二、三日ではない。意識のはっきりしていなかったそれ以前に、稔は何か言っていなかっただろうか。
『…て…たす、け…て…、先生…』。
最初に異変があったとき、そう言っていた。
どうしてもっと早く気付かなかったのだろう。稔が達也のことを「先生」と呼ぶはずがない。あのときは弁護士だということも分かっていなかったのだから、あれは達也に向けた言葉ではなかったのだ。
「先生…って、北沢のことか…?」
その間にも三崎は電話であちこちに指示をとばしている。病院の周辺や行きそうなところを片っ端から捜させるつもりなのだろう。
「岡崎先生。私は一度、捜査本部に戻ります。何かあったらこちらから連絡しますから、携帯繋がるようにしておいて下さい」
言って立ち去る三崎の後ろ姿を見送って、達也は看護婦の方へ向き直った。
「病院にいて下さい。…心配しないで、稔くんは警察が見つけてくれますよ」
「あ、はい」
頷いて、慌てて病院の方へ戻っていく。
稔が北沢に助けを求めていたのだとしたら、あのとき本当に危なかったのは稔ということになる。
『ッ嫌…っ!!』
『…嫌だ放してっ…』
触れられることを極端に嫌がっていた。そういう症状を前にも一度見たことがある。
「…でも、まさか」
まだ養父の事務所にいた頃、先輩弁護士に連れられて会いに行った婦女暴行事件の被害者だ。会ったといっても話は看護婦や女性を通していたし、怯えて顔を見ることさえできなかったけれど。
それなら説明がつく。教室を移動したのは、稔が逃げ出したからだろう。
達也は引き攣った笑いを浮かべた。笑うというよりは、引き攣っているだけのように見えなくもないが。
「何で、そんなこと…」
声に出して呟いてみて、気付いた。その対象が稔であって稔ではなかったとしたら?確か、稔は母親にうりふたつだった。
三崎に連絡をつけようと手を伸ばした携帯が、それより先に鳴り出す。ディスプレイの表示されたのは、ついさっき名刺で見た三崎の携帯番号だ。
「岡崎先生、村瀬稔と思われる少年が中野の駅で目撃されたそうです」
「…中野?」
…学校だ。
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