第四話
…怖い。
身体の自由が利かない。誰かが近くにいることが、誰かに触れられることが、こんなにも恐怖だと感じたのは生まれて初めてだった。
「…」
小さな呟きが聞こえる。怒っているようで泣いているような、悲しい声で。
「…ど、う…」
どうして。そう声に出そうとして気付く。訊きたかったのはこの不可解な行動の理由だろうか、それとも悲しんでいる理由だろうか。
壁に押しつけられて背中に痛みが走る。力も体力もある方なのに、振り払うどころか押し退けることすら侭ならない。いつもは優しいその人からは想像もつかないくらい強い乱暴な力が、手足を拘束していて動けなかった。
「…の、…裏切り者…」
断罪の言葉に、思わず顔を背ける。
助けを求めるように視線を彷徨わせた、その先にいたのは、写真でしか見たことのなかった“父さん”。どこにいるのかも分からないけど、ただどんな人か知りたかっただけ。毎日のように母さんが写真を見せて話してくれたから、いつも傍にいるみたいだった。
会えなくても、大好きだった。母さんが父さんを大好きだったように、俺も父さんのことが大好きだった。
『…おまえはあいつらとは違う。…私を裏切ったりしないだろう…?』
その人はいつも、どこか遠くを見るような目で俺を見ていた。
掌が妙に温かい。窓から夕日の光が差し込んでいて、目を開けると視界は真っ白だった。薬品の臭いが部屋中に充満している。眩しさに慣れて天井を見上げると、まるで保健室にいるような気がしてくる。身体に力が入らないで目だけで横を見ると、看護婦のような人がベットの脇に突っ伏していた。片手は稔の手を握っている。夏の暑さのせいか、掌は汗ばんでいたけれど、嫌だとは思わなかった。
「っ稔くん」
少し動いただけで、看護婦はがばっと起き上がる。
「大丈夫!?」
訊かれて上体を起こそうとすると、首に焼けるような激痛が走った。半端でない痛みに涙目で首筋を押さえる。そこではじめて首から肩にかけて包帯が巻かれていることに気付いた。
「まだ動けないわよ。傷は浅かったけど輸血までしたんだから、しばらくは安静にしてもらいます」
「…傷?」
「憶えてないの?」
オウム返しに訊かれて、傷を気にしながら頷く。憶えているも何も、自分の今の状況すら理解できない。
「あなたの担当が当たってる坂本です。よろしく」
それから熱を測ったり包帯を取り替えたりしている間に看護婦が今までのことを話してくれた。あの日起こったこと、疑われていること、そして今日までのこと。
全く身に覚えがないはずなのに、傷が疼いて頭が割れるように痛かった。
「本当に何も憶えてない?」
「…初耳、です」
知らない間にいろんなことが起こりすぎて、頭の中が混乱している。思い出せと言われても、聞かされたことを処理するだけで精一杯だ。
「すいませんでした。迷惑かけたみたいで」
「そんなこと、病人で怪我人のあなたが気にしなくていいの。私達はこれが仕事なんだから」
後でちゃんと検査するから、と言う看護婦に稔がお礼を言うと、照れたように笑って、それから真面目な顔で小さく言った。
「こんなこと言ったら刑事さん達に怒られそうだけど、あんまり無理して思い出さなくてもいいのよ」
弱々しい微笑だけを返すと、稔は俯いて何かを考え込んだ。
「どうしたの?傷、痛むの?」
看護婦が心配そうに尋ねる。
「…いや、何でもないです」
気のせいかもしれない。きっと信じてもらえない。自分自身も夢だったのだと思いはじめているのだから。
…どうかしてる。そんなわけないのに。十五年も音沙汰無しだった父親に会ったような気がするなんて。
「何?言ってみて」
看護婦が真顔で稔の顔を覗き込んだ。
廊下で呼び止められた達也は振り返って、そこに稔の担当医の姿を認めた。
「村瀬くんなら、まだ面会謝絶ですよ」
言ってから、達也が持っていた薬を目に留める。
「失礼。昨日の今日なので、てっきり。…風邪でもひかれたんですか」
「え、ええまぁ」
愛想笑いで曖昧に言葉を濁す。実際は違うのだが、わざわざ説明するようなことでもなかったのでさっさと話を切り替えてしまった。
「それより傷の具合、どうですか」
「傷は大したことありません、出血の割に浅かったので。ですが身体が弱っていたこともあって、まだ意識が戻らないままです」
患者が往来する廊下から少し離れて、二人はとりあえず稔の病室に行くことにした。昨日のことで病院関係者や他の患者からの苦情が相次いで、しばらくは警官も立たせないようになったらしい。
「可哀相に。村瀬くんと同じような経験をした子供に表れる精神的な異常の中には、経験そのものではなく、事件後の事情聴取や社会の反応が原因になっているケースもあるそうです」
医師はそう言うと、黙って聞いていた達也の方を振り返った。
「看護婦の坂本さん、知っていますか」
急に尋ねられて達也は首を傾げたが、すぐにそれが稔の担当の看護婦だということを思い出した。昨日、錯乱した稔を必死になって止めようとしていた、あの若い看護婦のことだ。
「彼女が、何か?」
「あの人は昔、私の患者でした。一家心中で両親を失い、ただ一人生き延びた。その時、親戚中が彼女を押しつけ合った結果、彼女は人格障害を引き起こしたんです。大人しくしていると思ったら急に暴れだして自分自身を傷つけて」
独り残されて拒絶されたことが、子供の心を崩壊させる。必要とされていないと思い込まされることで生まれた闇が、いらない自分を消そうとする。典型的な自己崩壊のパターンだ。
「そういう子はどこかで誰かに必要とされたいと思っているんです」
「…だから看護婦に?」
誰かに必要とされたい願望からなのか、闇から救ってくれた医師に憧れたからか。
「さぁ。でもいつも一生懸命でしょう、彼女。私はあの人を見ると、医者をやっていて良かったと思えるんですよ」
そう言った医師の笑顔に、達也はつられて笑ってしまった。それでもすぐに笑いを消して医師を見つめた。
「何故、そんな話を…?」
何の意図もないにしては、唐突すぎる。医師は笑顔のままで「自慢話ですよ」と言ったが、達也が厳しい表情でじっと見据えると、小さく肩を竦めて言った。
「先生は村瀬くんや昔の坂本さんとどこか似ているような気がしたからです」
達也は目を瞠った。
「過去にあったことが今も先生の中で大部分を占めているんでしょう。意識しないで放ってあるのか、故意に見て見ぬふりをしているのかは分かりませんが」
どこも痛くはないはずなのに、身体や脳が軋んで悲鳴を上げる。これ以上訊くことを拒絶するように、目の前が真っ暗になった。
「先生?」
医師の声で我に返った時、稔の病室はもう目の前だった。
「熱が上がってきたんじゃありませんか」
言われて達也が顔を上げると、医師は再び捉えどころのない笑顔で達也の持っている薬を目で示した。
「風邪なんでしょう。無理はしない方がいいですよ」
達也が何か言うより先に医師が病室のドアの前に立つと、中から聞き覚えのある看護婦の声とまだ声変わりしていないような少年の声が聞こえてくる。ハッとして医師がドアを開けると、驚いた看護婦がきょとんとこちらを見つめ返していた。
「先生」
嬉しそうに駆け寄ってきて稔の意識が戻ったことを告げる彼女は、どこをどう見ても人格障害を起こしていたようには見えない。
看護婦は医師の後ろにいた達也に気付くと慌てて会釈をした。
「昨日はすみませんでした」
その間に稔の側に立った医師は傷を診たり脈や熱を測ったりして、異常がないか簡単な検査をしている。横になっているので稔からこちらの方は見えていないらしい。
「傷は痛む?」
「…少し」
稔が小さい声で答えると、看護婦が口を挟む。
「さっきはちょっと動いただけで、泣くほど痛がってたじゃない」
言われて、もっと小さい声で「…かなり」と訂正した。
「彼、事件のことも今までのことも、何も憶えてないそうです」
そう言って、昨日のことがあって病室には入らないようにしていた達也を、看護婦が稔の傍まで引っ張っていく。
「稔くん、この人はね」
なるべく顔を合わせないように顔を背けていた達也の横顔を見つめて、稔が呟いた。
「…父さん…?」
沈黙が病室を支配して、医師までもが呆然としている。看護婦がおそるおそる達也の表情を窺い見て、尋ねた。
「…お父さんだったんですか?」
「もっと笑える冗談にして下さい」
どこをどう見たら十五の子持ちに見えるのだろう。
達也は稔の方に向き直ると、名刺と左胸の小さな金色のバッジを示した。警察でいうところの警察手帳のようなものだ。
「弁護士の岡崎です。憶えてないかもしれないけど、君の叔母さんに頼まれて君の弁護を担当して…」
稔は達也の話をまるで聞いていないようで、ただじっと達也を凝視している。
「稔くん、岡崎先生と話出来そう?」
見かねた看護婦が尋ねると、稔は傷に響かない程度に頷いた。
二人になった病室で、先に口を開いたのは稔の方だった。
「…北沢先生、本当に殺されたの?」
達也が肯定すると、稔はそう、と呟いて目を伏せてシーツに顔を埋めた。泣いているような間があって、稔が顔を上げる。泣いてはいなかったけれど、今にも泣き出しそうだった。顔色は悪く、首の包帯が痛々しい。
「昨日、先生が助けてくれたんですね」
稔が昨日のことを憶えているのに驚いた達也は大声を出しかけて、稔が怪我人だということを思い出して慌てて口を噤んだ。
「はっきり憶えてるわけじゃないけど、父さんに会ったような気がして。あれ、先生だったんだ」
稔は達也の頬の小さな傷に目を留めると、手を伸ばしてそっと触れた。
「…ごめんなさい」
記憶が抜けているのは確からしい。昨日のことを断片的に憶えていたのは、父親の記憶が強く印象に残っていたからだろう。
「…俺に、訊きたいことがあるんでしょ」
躊躇った達也に、稔は笑顔を向ける。
「平気だから」
どこが平気なんだ、と言いたくなるような見るからに力のない笑顔が、今の稔の精一杯なのだろう。達也は出来るだけ傷つけない言葉を選んで、いくつか質問した。どれもあまり事件の核心に触れるものではなく型通りの簡易なものだったが、本当に稔は何も憶えていなかった。
「部活、やってないんだって?」
「遅くなると叔母さんが心配するから。…特にやりたいことがあるわけじゃないし。それに、部活に時間を割くよりも、図書館で居る方が落ち着くんです」
それは本心のようで、無理をしているふうには見えない。家庭環境や交友関係でああなったのではないとしたら、稔は事件について何か知っていると、誰もが思うだろう。たとえそれが当事者であっても、目撃者という第三の立場であったにしても。
「…俺が、やったのかな」
弱々しく稔が呟いた。窓の外は陽が沈みかけていて、暗くなった室内では相手の表情を窺うことは出来ない。
せめて自分じゃないと言い切れるなら、少しは楽だったかもしれない。けれど今の稔は、本当にやっていなくても自分自身でそれを証言することが出来ないでいる。自身の無実を疑ってすらいるのだから。
「だったら嫌だな。俺、北沢先生のこと結構好きだったんだけど」
本当ならあの日、学校で何をしていたのか訊くべきなのだろうが、どうしてもそれ以上のことを尋ねる気にはなれなかった。
「…先生も、俺が犯人だって思ってる?」
ぎょっとして稔を見返すと、稔はベッドに横たわったまま、苦しそうに眉をひそめている。傷が痛むのか、指先が喉の辺りを覆っていた。
「もう喋らないほうがいい。傷口が開くといけないから」
「大丈夫…だから答えて」
縋るような瞳で、達也の腕を捉える。達也は迷った末に、出来るだけやんわりと細い手首をベッドの上に戻した。
「思ってない」
「…俺にも分からないのに?」
「信じるよ」
乱れたシーツを直して肩まで引き上げてやる。蒼白な稔の顔を覗き込んで、幼い子供に言い聞かせるように同じ言葉を繰り返した。
「君は疲れていて、それで不安になってるだけだ」
汗ばんだ額に掌を当てて瞼を閉じるように促す。稔は大人しくそれに従った。
「…父さんも、先生みたいな人だったらいいのに」
手の下で、微かに笑ったのが分かる。
「秋吉先生に会った?」
思い出したように稔が目を開けた。達也は、あのどこか厳格で神経質な印象のある顔を思い浮かべる。
「ああ」
「秋吉先生も、お父さんみたいだった。すごく優しくて一緒にいると安心する」
達也に対する態度からはあまり想像できないけれど、そういうものなのだろうか。秋吉夫妻の間には子供がいないから、妹のように村瀬由香里を可愛がっていた延長なのだとしたら、分からなくもないが。
「お父さんってこんな感じなのかな」
それには答えないで、達也は再び掌で稔の顔を覆った。それから、稔が今まで睡眠薬を服用していたことを思い出した。
「一人で眠れるか?」
「…うん」
もう一度、稔が目を閉じると、額から静かに手を離した。
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