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第三話




 身体が重い。視界が茜色にぼやけているのは、今が夕方だからだろうか。だんだん意識がはっきりしてくると、ここがどこかの教室なのだということがわかった。でも、どうしてこんなところにいるんだろう。思い出せない。

 必死に記憶の糸を手繰り寄せていると、不意に目の前が陰った。誰かが自分の上に覆い被さっているのだと気付いたときには、大きな手で口を塞がれていた。

 激しい憎悪を顕わにした声が、耳元で囁く。

『裏切り者』

 その声を知っている。近づいてくるその人を知っているのに、名前を呼ぶことも出来なかった。

『私から離れるなんて、許さない』

 耳にかかる熱い吐息に身体を竦ませる。その強制的な呪縛から逃れようと必死にもがいたけれど、振り払うことが出来なかった。

「!?」

『裏切り者。…裏切り者』

 何度も繰り返される言葉に、頭の中がおかしくなりそうだ。押さえつけられている手首の痛みに、気が遠くなる。

 何のことをだか分からないよ。

 裏切った?

 知らない。裏切ってなんか、ない。

 本当に?誰も?

 …本当に、誰も…? …分からない。

 裏切り者。

 裏切り者…そうかもしれない。自分の知らないところで、誰かを傷つけていたのかもしれない。…もう、どうだっていい。

 薄れていく意識の中で、声と音を聞いたような気がしたけれど、それが何かを理解するより早く、目の前が朱色に染まった。


 裏切り者!


『…約束だ、誰にも言わないと。もう、私を裏切るな』


「わあ…っ」

 無意識のうちに、目の前にあった手を振り払っていた。重い腕を持ち上げて、掌で顔を隠すように覆う。

 そこは茜色の教室なんかではなくて白一色の部屋だったけれど、やっぱり自分がどうしてここにいるのかは思い出せなかった。

「気がついたか?」

 声の方へ焦点を合わせると、スーツの男が三人、立っていた。誰なのか尋ねようとしたけれど声が出ない。息苦しい。全身が汗で濡れていて、身体が言う事を聞かなかった。    

 浅く呼吸を繰り返して再び俯いてしまった稔に嘆息して、男の一人が口火を切った。

「村瀬稔くんだね。八日前にあったこと、憶えているか?」

 いつかテレビで見た、刑事みたいな口調だ。

「君の学校の教師が殺された事件だ」

 コロサレタ?キタザワ?…何も判らなかった。

 後ろにいた男が前に出ると、稔の背に手を当てて上体を起こそうとする。けれど手が触れた瞬間、ひどい嫌悪感に襲われて身を捩った。

「…ひ!」

「ようやく正気になったと思ったら、これか」

「触れられるのを嫌がっているようですね。何か事件に関係あるのかもしれません」

「構わんさ。口が利けないわけじゃないだろう」

 銀縁眼鏡の男がそう言って、稔の顔を覗き込んだ。

「村瀬くん、君は北沢という男を知っているね」

 稔が首を横に振る。

「そんな筈はない。君の学校で生物を教えていた先生だ。君のクラスも受け持っていたんじゃないのか」

何も答えない稔に苛立ったのか、男が肩を強く掴む。

「君が、やったのか?君が北沢を殺した、そうなんだろう?」

「…ひぃ…」

 顔を背けて頭を抱え込んだ稔の脳裏に、見覚えのある青年の顔が浮かぶ。よく笑う、冗談が好きでいつも生徒に囲まれていた人。誰にでも優しい人。

 コロシタ?ダレガ?ダレヲ?

 思い出せない。頭が軋むように痛みを訴えている。

 思い出したくない。

「長くこの状態でいるのは疲れるだろう。黙っていたってすぐにばれるんだから、事件の日の事を思い出すんだ」

 強く肩を揺すられて、目の前が真っ白になった。――――思い出してはいけない。

「ッやだ…っ!!」

 先刻までの気だるさが嘘のようにベッドから跳ね起きると、目を瞠る三人を突き飛ばして病室を飛び出していた。



 病院の入り口を行ったり来たりしていた看護婦は、達也の姿を認めると慌てて駆け寄ってきた。もう大分陽が沈みかけていて、ロビーにも廊下にも人気は疎らだ。

「村瀬くんの記憶が戻りかけていると連絡がいったらしくて」

 稔の病室の前には、いつもより大人数の制服警官が立っている。

「何を、しているんだ」

 怒りを顕わにして達也が尋ねると、一人が前に進み出た。ドアに近づかせないようにしているらしい。

「カウンセリングを受けさせるなら、弁護士を通してもらわないと、勝手なことをされては困る」

「カウンセリングではありません。ただの事情聴取です」

「でも、専門の人が一緒だからって言って、私達まで入るなって」

 噛みつくような剣幕で看護婦が警官達に抗議する。怒っていても小声なのは、壁一枚隔てて病人が寝ているからだろう。

「捜査一課の心理捜査官が一緒だ、ということです」

 あのエリート刑事が、稔に自供させようとしているのは明白だ。きっと無理させるに決まっている。

 警官達は、達也が弁護士だと言っても、オウムのように同じ事しか言わなかった。

「事情聴取中です。面会は出来ません」

 頭の固さは上司に負けていない。達也は溜め息をついて言った。

「君達に制限する権利はないよ。取調べでの弁護士の立ち会いは、法律で保証されてる。刑事目指してるんなら、それくらい知っておいてくれよ」

皮肉を込めてそう言い置くと、達也は警官の脇をすり抜けて病室のドアノブに手をかけた時。

「ッやだ…っ!!」

 悲鳴に驚いて扉を開け放した達也が部屋に踏み込むより早く、中から少年が飛び出してきた。

「うわっ」

「村瀬くん!」

 反射的に避けて、引き止めようとした達也の腕を躱した稔は、振り返らずに病院の奥へ走っていく。まるで何かに追われているようだ。達也は警官達を退けて看護婦の背中を押し出した。

「稔くんの方、お願いします」

「は、はい」

 駆けていく後ろ姿を見送った達也は、病室から出てきた刑事の前に足を出す。

「っ!?何を」

 辛うじて転倒するのを免れた刑事が、ずれた眼鏡を指で押し上げて達也を睨む。いつもなら少しいけ好かない程度の仕草でさえも、腹立たしく思える。

「それはこっちの科白ですよ、刑事さん。病人に自白強要というのは感心できませんね。そうまでして彼を犯人にしたいんですか」

 やり方が法律ギリギリで強引なのは、多分この事件の犯人を検挙すれば昇進できるとでも言われているからだろう。

「犯人は村瀬稔だ。事実、彼は我々の前から逃げ出した」

「何をした」

「ただの事情聴取だと言っているでしょう。まぁ、あの身体ではすぐに取り押さえられるでしょうね。…せいぜい我々の足を引っ張らないようにお願いしますよ、弁護士先生」

 嘲るような口調で言う刑事の胸ぐらを掴み上げた。後ろの二人が止めようとするのを振り払う。怒りで頭がどうにかなりそうだった。

「…感謝してもらいたいぐらいだ。誤認逮捕せずに済むんだからな」

 殴りつけたい衝動を抑えて力いっぱい突き放した時、廊下の奥に甲高い悲鳴が響いた。稔を追いかけていった看護婦の声だ。

 達也は自分の不注意に舌打ちして、声の方へ走った。

「やめて村瀬くんっ。やめなさい!!」

 争っている二人を見つけた達也は、その姿を目にして愕然と立ち止まった。三人もいる警官でさえ、その異様な光景に立ち尽くしている。

「先生、村瀬くんがっ」

 振り向いた看護婦の顔は血塗れだった。顔だけではなく白い服にまで真っ赤な血が飛び散っているのに、そんなことには構いもしないで、暴れる稔を押さえている。

 稔の方はもっと酷かった。白い首筋に走った裂傷から溢れる鮮血が、着ていたTシャツを紅く染めていく。それでも稔は狂ったように看護婦の手を払って、その度に赤いものが首筋を流れた。何も見ていなかった光のない瞳からは、涙が零れて頬を伝う。唇が言葉を紡ごうとしているのに、声は音にならなかった。

 後から来た刑事達も呆然とその場に突っ立っている。達也がようやく我に返ったのは、錯乱した稔が看護婦を突きとばしてからだった。

「稔くんっ」

 血に濡れた指を傷口に伸ばす稔の、自由になった左手を抑えつけて、立っていた警官を怒鳴りつける。

「医者を呼ぶんだ、早く!」

 達也の声に、弾かれたように駆け出す。

 稔は、触れられることに異常な程の恐怖を感じているらしい。けれど稔の細い指先には、抉られた皮膚が残っている。放せば新しい傷をつくってしまうだけだと分かっているから、放すわけにはいかなかった。

 こんなふうに自虐的になることも恐怖という感情を表すことも、今まではなかったことだ。医師の言う通り記憶が戻りかけているのだとしたら、引き金になった何かがあるのだろう。

「…いやだ、放してよっ…」

 稔が顔を背けて大きく頭を振る度に、傷口が開く。自由を奪う強い力に抵抗した右手の爪が、達也の頬を掠めた。痛みに眉をひそめるのと同時に、ハッとして稔の左手を引き寄せて。

「稔!!」

 我を忘れて大声で叫ぶと、首筋の傷を自身の掌で覆う。指の間から血が流れて落ちた。

「……」

 驚いて動きを止めた稔は、達也を見上げて目を瞠る。そして、声も無く達也の二の腕を捉えて抱きしめる。

「…父さん、…会いたかった」

 違うとは言えずに、達也が黙って抱きしめてやると、ふっと力を失った稔が身体を預けたまま気を失った。



 爛れるような痛みと吐き気に耐えられなくなった達也は、目を閉じて廊下にうずくまった。

 稔が医師達に連れられて病室に戻っていってから、どれくらい経ったのだろう。面会時間も終わったのか、人通りは途絶えている。蛍光灯のない廊下は、非常口の緑の光にうすぼんやりと照らしだされていた。

 感覚を失って麻痺した指先で携帯を探る。顔を上げるのも目を開けるのも口を開くことさえも苦痛だった。それでも何とか鳴りはじめた呼び出し音が苛つくほどに長く感じる。

「達也?」

 途切れた機械音の後に、聞き慣れた声が応じる。

「…どうしたの。村瀬くん、何かあったの?」

 息をつくだけで精一杯で、息は言葉にならない。志摩子の声だけがやけにはっきりと聞こえていた。

「…悪ィ…もー駄目かも」

 しばらく沈黙して、それから志摩子の悲鳴とも怒鳴り声ともつかない超音波に達也は顔をしかめる。

「絶対そこから動かないでよ、二十分で行くから」

 志摩子は達也の返事も聞かないで一方的に通話を断ってしまう。電源を切るのも億劫になって、音がしたままの携帯を無造作に放り投げた。

 これくらいのことで倒れていてはいけないのだと分かっているのに、どうしても重ねてしまう。決して忘れることが出来ない忌まわしい記憶。けれどそれが生きる糧になっていることも事実で。

「達也!?」

 気が遠くなりかけていたのを引き戻したのは志摩子の声だった。息を切らして少し離れたところで立ち止まっている。二十分と言っていたのに、まだ十五分も経っていない。道交法が存在しない絶叫マシン並みのあの運転を思い出して余計に胃が痛くなったような気がした。

「言っとくけど私、怒ってるわよ」

「…見りゃ分かるって」

 分からないほど短い付き合いでもない。その理由も聞かなくたって分かる。志摩子の目が頬の傷と服に飛び散った血を見て蒼くなっていることに気付いて、ひらひらと手を振った。つい今し方起こったことを手短に説明すると、口調とは裏腹にホッとした表情になって、志摩子は達也の傍らに膝をついた。

「リハビリはまだ早かった?」

「…全然」

「じゃあ訊くけど。無理しないって約束、忘れたわけじゃないでしょうね」

 途端に無言でバツの悪そうな顔になる達也に溜め息をついて、汗で額に張りついた前髪を指で押し退けてやる。触れた額は信じられないくらい熱を持っていた。志摩子が非難の声を上げようとするのを、達也が目で止めた。

「…平熱が高いだけだ」

「馬鹿言わないで。自己管理も満足に出来ないような豎子が。つべこべ言ってないで大人しく帰って寝てなさい。…村瀬くんの担当は私が代わるから」

 壁に寄り掛かりながら立ち上がった達也は、志摩子の視線を避けるように明後日の方向に顔を背ける。従うつもりがないという意思表示だ。

「いいこと!?あなたは自分と村瀬くんを重ねてるだけよ。自分と同じ境遇の子供を放っておけないだけ。同情してるだけなの」

 子供に諭すように言う。達也は不満気に眉根を寄せた。

「…どっちだって仕事に影響はないだろ」

「そんなこと言ってるんじゃないわ!…お願いだからこれ以上無理しないで。本当はもう限界のくせに」

 叩きつけるような悲鳴に達也は目を閉じて、顔を掌で覆う。志摩子の言う通りだった。本当は立っているだけでも精一杯だ。それでも達也は頷かなかった。

「…心臓」

「え?」

「もっと良くなってるのかと思ってたわ。上手く隠してたものね」

 深い溜め息の後、志摩子が観念したように言った。

「…隠してたわけじゃない、慣れただけだ」

 憮然として言う。志摩子は拳で軽く達也の腕を小突いただけで、それ以上は何も言わなかった。



5月17日 レイアウト変更

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