第二話
いつもと時間帯が違うからか、病室の外にいる制服警官は一人しかいなかった。弁護士である達也の姿を認めると、眠そうだった姿勢を正して敬礼する。
「おはようございますッ」
「そんなに早くない。今日は一人なのか」
「いいえ。さっき面会人が来たので、中に」
付き添っているらしい。稔は最有力容疑者なのだから、当然といえば当然のことだ。
「面会って、誰?」
稔には両親も兄弟もいない。見舞いも兼ねた面会に来るのは叔母夫婦ぐらいだが、どうやら違うようだ。
「秋吉って教師です。担任だとか」
「あぁ」
堅物そうな顔を思い浮かべた時、病室のドアが開いて秋吉と警官が出て来た。秋吉は達也と目が合うと軽く頭を下げた。前もそうだったが、秋吉が達也を見る目はどこか棘がある。
「…弁護士の…」
「岡崎です。村瀬くん、どうでしたか」
達也が尋ねると、秋吉は溜め息をつく。
「眠っていました。入院までしているのに、少しも良くなっていないみたいでしたが、まさか彼に無理な事情聴取なんてしていないでしょうね」
怒気の含まれた声に、達也は慌てて首を横に振った。
「してませんよ。あれじゃ、聞きたくても聞けませんって」
「…そうですか。岡崎先生、村瀬くんのこと、本当によろしくお願いしますよ。彼は人を殺したり出来る子じゃないんです」
そう力説すると、学校があるのでと言って踵を返す。秋吉を見送って、それから達也は警官の方に向き直った。
「眠っていたんだろう。何をしていたんだ」
「?…いえ、特に何をしたってわけでは。何度か呼んで返事がなかったので、しばらく顔色を見ていたようです」
「…そうか」
言って病室に入ると、立ち込めていた薬の臭いが鼻をつく。白く細い腕に固定された点滴の細い針が痛々しい。秋吉の言う通り、いつもより顔色が悪く、瞼は閉ざされている。
「村瀬くん」
様子がおかしいことに気付いて名前を呼ぶと、稔は小さく身動ぎした。
「…村瀬くん…!?」
自分の意志では決して動こうとしなかった稔が瞼を重く持ち上げると、微かに唇を動かす。息が短く、声が掠れている。
「何」
「…て…たす、け…て…、先生…」
手を貸して上体を起こすと、稔は震える指で達也のシャツを信じられないほど強く掴んだ。同じ言葉だけをうわ言のように呟いている。
「わ、分かったから」
枕元のナースコールを叩くように押して、応じた看護婦に異変を告げると、達也は再び稔を横に寝かせた。怯えたように、掴んだ腕を放そうとしない。ガラス細工のような腕からは想像も出来ない力で。
どうしていいか分からず、腕の中で浅い呼吸を繰り返す背中を軽く摩ってやる。何人かの看護婦を伴ってやって来た医師に稔を任せると、邪魔にならないように外に出た。一人は上に知らせに行ったのか、残ったもう一人の警官が何か訊きたそうに達也を見ていた。
精神安定剤で落ち着いた稔の病室から出てきた医師を捕まえて様子を訊くと、しばらくは面会出来ないらしい。
「今までになかったことなので断言はできませんが、夢のようなものを見たのかもしれません。ひどく怯えていましたから、記憶が混乱しているのかも」
稔が何かを畏怖していることは、達也にも分かった。
「事件のことを思い出しかけている、ということですか」
「それは分かりません。そうかもしれないし、それ以前の恐怖体験を思い出しただけかもしれない。ですから、これは警察の方にも言うつもりですが、しばらくは事情聴取なども控えていただきたいのです」
「…しばらく、ですか」
「ええ、少なくとも村瀬くんが薬なしで眠れるようになるまでは。どちらにしても、このままじゃどうにもならないでしょう」
簡単に痛い所を突いてくれる。仕方なく承諾すると、医師はさっさと通常業務に戻ってしまったが、病室にはまだ看護婦が残っているようだし、ドアの前には警官が突っ立っている。達也が残っていても意味は無さそうだ。そう思って帰りかけた時、後を追ってきた看護婦が達也を呼び止めた。
「これ、弁護士さんのじゃありませんか?」
渡されたのは古い写真だった。何人かの男女が並んで写っている。高校生ぐらいだろうか、見覚えのないものだ。
「さぁ…?落し物ですか」
「はい。床に落ちていたから、きっとそうだろうと思って。昨日は無かったから」
「?…でもコレ、昭和55年って」
昭和55年なら、まだ四歳だ。日付は見ていなかったのか、看護婦は写真を見直して慌てて謝った。
「あ、ごめんなさいっ。そっくりだったから、私てっきり」
「…?」
首を傾げた達也がよく見ると、写真のど真ん中に見たことのある少年が写っていた。
「…まさか。俺は、」
言いかけて、ハッと口を噤む。口許を掌で覆ったのを、看護婦がきょとんと見つめた。写真を持つ達也の手に力が込もる。
「いや、何でもありません。コレ、俺じゃないです」
視線に気付いて肩の力を抜いた達也は、ぎこちなく笑って首を振った。きっと、他人の空似だろう。
それにしても…。
帰り際に今日は達也より早く秋吉が面会に来ていたことを思い出して、渡しておくからと言って預かった写真をじっと見た。
「え、これ…」
一瞬、写真に目を奪われた達也は、廊下の角を飛び出してきた人物と正面から衝突してしまった。予測していなかった衝撃に、バランスを崩す。
「大丈夫ですか?」
慌てて手を差し出したのは、帰ったはずの秋吉だった。
「すみません、急いでいたもので」
「イヤ、俺がボーっとしてたから。…秋吉先生は、どうしてここに」
「病室に忘れ物をしたようなので」
相当急いで走ってきたらしく、汗をかいている。手を借りずに立ち上がって、達也は手元に落とした写真を拾い上げた。
「…もしかして、これのことですか」
秋吉は驚いた表情になって、達也の手の中のものを見つめた。
「コレに写ってるの、雰囲気は変わってるけど高校時代のあなたですね」
例のドッペルゲンガーの隣で笑顔を浮かべている少年は、眼鏡をかけて気難しくすれば“秋吉”だ。年齢も一致する。
「確かに、私のものです。いや、お恥ずかしい。未だにこんなものを持って」
「村瀬くんに見せるつもりだったんですか」
秋吉の言葉を遮って尋ねる。先刻、達也が見つけたのは“秋吉”だけではなかった。
自分そっくりの少年に気を取られていて気付かなかったけれど、そこに写っているのは紛れもなく“村瀬稔”だ。
「村瀬くん、なわけないですよね。まだ生まれてもないはずだし、写っているのは女の人だ」
秋吉は溜め息と共に声を押し出した。
「…彼の母親です。由香里は、彼が十一歳のときに亡くなりました。私達は幼馴染みで、兄妹のように育ったんです」
「警察には言わなかったんですね」
「事件とは関係ないことですから」
口調を強めてきっぱりと言い放つ。あまり触れられたくない話題だったらしい。学校で会ったときと同じで、これ以上は話さないという意思表示だ。
「ところで、弁護士さんは今までずっと村瀬くんと面会を?」
急に話を変えられて、訊こうと思っていたことを訊くタイミングを逃してしまった。
「え、ええ。先生が帰られた後、容態が急変して。医者の話じゃ、記憶が戻りかけているのかもしれないって」
「!?」
秋吉の顔色が変わった。驚きに目を瞠って、達也を凝視している。
「っそれで彼は、村瀬くんは大丈夫なんですか!?」
今にも掴みかかりそうな剣幕に押されて、達也は慌てて首を何度も縦に振る。それで我に返った秋吉は、バツが悪そうに謝った。
「私は、由香里も紗也香も本当の妹のように思っていました。なのに、由香里が死んだことを私が知ったのは、二年前なんです。…だから、あの子のことは他人事だと思えない」
高校を卒業してすぐにアメリカの大学に進学して、連絡もあまりしていなかったらしい。紗也香というのは稔の叔母の名前だ。よく見ると“由香里”の隣に写っているのが彼女だった。
「…岡崎さん」
秋吉が目を細めて懐かしそうに、けれどどこか寂しげに写真を眺めて言った。
「私が由香里を知っていること、彼が元に戻っても黙っていて下さいませんか。この写真のことも」
「…え?で、でも」
「あの子には両親がいないんです。…出来ることなら忘れた方がいい。私が両親のことを知っていると分かれば、聞きたがるでしょうから」
稔の叔母夫婦は郊外の、かなり広い豪邸に住んでいた。日中に一度事務所に戻って電話をしておいたのに、家には誰もいなかった。
「あの、ここって高開さんのお宅ですよね」
近所の主婦らしき人に声をかけると、訝しげに達也を見て。
「そうだけど…あなた、警察の人?」
好奇心旺盛な主婦は、パッと目を輝かせる。井戸端会議のネタでも探しているのだろう。弁護士だと言えばどんなメに遭うか、だいたいの想像はつく。
「ち、違います。えっと、学校の」
「あぁ、稔くんの担任の先生?」
誤魔化しかたを考えていると、主婦は勝手な思い込みをしてくれてホッと息をついた。そして次の瞬間、達也は抱えていた鞄を落としそうになって、慌てて持ち直した。
「私、てっきり奥さんの浮気相手かと思っちゃったわ。ほら、あなた若いし、二枚目だしねぇ」
「ハァ…あっいや、とんでもない」
稔の見舞いに来ていた叔母の紗也香とは、達也も何度か会った。あんな状態の稔の代わりに弁護の依頼をしてきたのも彼女だ。稔や写真の“由香里”とは違って、どこか近寄り難い雰囲気を持っている美人である。
「なぁんだ、そうなの」
何故かがっかりして、主婦が肩を落とす。けれどすぐに顔を上げた。
「でもまぁ、稔くんが来てからは、良い感じみたいだから」
「…へぇ」
「高開さんってね、ご主人と十以上も歳が離れているでしょう。お互い、仕事仕事であまり顔を合わせないみたいだったし。でも二人共、稔くんにはべったりなのよ」
「そんなに?」
「そりゃあもう。あの可愛がりようは普通じゃないわよ」
病院に来ていた紗也香も、初めは取り乱して狂ったように稔の名前を呼んでいた。切れ長の瞳を真っ赤に腫らして、側に座り込んでいた。確かに、過保護すぎる。
「でも稔くんぐらい良い子なら、高開さんの気持ちも分からなくはないわ。あの子なら自慢の息子よ」
「岡崎先生」
凛としてよく通る声に、訊いてもいないことまで喋っていた主婦は口を噤んだ。硬い声音に萎縮して、軽く会釈すると逃げるように去っていく。それを平然と見送って、紗也香は達也に向き直った。
「わざわざお越しいただいたのに、留守にして申し訳ありませんでした。明後日のリサイタルの打ち合わせが長引いてしまって。…どうぞ」
玄関を開けると、二階まで吹き抜けの玄関ホールが広がっている。幅のある階段を上がっていくと、グランドピアノが置かれた広い応接室あって、そこに通された。
紗也香は有名なピアニストで、コンサートやリサイタルで長期間家を空けることも珍しくない。婿養子の旦那は、紗也香の実家の事業を引き継いだ忙しさに感けて、家には寄りつかないらしい。
「稔の事でお訊きになりたいことがあるそうですね。どうぞ、何でも訊いて下さい」
手に持っていた紙袋を片付けると、紗也香は達也の正面に座った。
「すみません。忙しい時にお邪魔して」
「構いませんわ。私も、稔の事が心配で練習に集中できませんから」
前に見たときよりもマシになっているけれど、それでも紗也香の目は少し赤い。甥っ子の容態が気になるのと本番が近い所為で、気を張り詰めているようだ。
「今日伺ったのは、稔くんの事というより、彼の母親の事です」
紗也香が僅かに瞠目した。
「…何故、姉の事を?姉は七年も前に亡くなっていますから、今度の事とは関係ないと思いますけど」
「事件に関係あるとは言っていません。ただ、こちらとしても稔くんの家庭環境を理解しておかないことには、弁護のしよ
うがありませんから」
「それは…どういう意味でしょう」
先刻までとは打って変わって、紗也香は目に見えて動揺している。
「例えば、精神鑑定で彼に心理的異状が認められたときには、彼に責任能力があるかないかで判決は大きく変わります。ですから、その原因が両親の不在にあるなら、それを立証しなければいけません」
言いながら、達也は紗也香の顔色を窺った。
今の説明が、稔が犯人だという事を前提にしたものであると、紗也香にも分かったようだ。見る間に真っ青になって、悲鳴のようにヒステリックな金切り声を上げた。
「やめて下さい!あの子には人なんか殺せません。ましてや異状なんて、そんなはずありませんわ」
秋吉とは違う。「人を殺せるような子じゃない」ではなくて「殺せない」と断言している。
「例えばの話ですよ。俺も、彼がやったとは思いたくありません。けど本人があんな状態ですし、万が一ということがないと言い切れますか」
「ありませんッ」
「それは親の欲目ですよ。誰だって自分の息子が殺人犯かもしれないだなんて、思いたくないでしょうからね」
紗也香がどう思おうが、状況が不利なのは変わらない。もしこのまま起訴されたら、検事の方は状況証拠で攻めてくるだろう。物証が無いことを盾にはできても、犯人でないという確証が得られない限り、突き崩されるのがオチだ。
紗也香は唇を噛んで目を伏せた。
「あなたがた姉妹は、秋吉先生と幼馴染みだったそうですね」
「え、ええ。…私は、姉とは四歳、和夫さんとは六歳も違いましたから、姉のおまけみたいなものでしたわ。稔には言わないで欲しいと、私が和夫さんに頼んだんです。母親のことは思い出さないほうが良いことですから」
自身も思い出したくないというように、俯く。何故、そうまでして隠したがるのか。
達也は湧き起こった不信感を顔には出さないようにして言った。
「子供が、親のことを思い出すのは仕方ないことなんじゃないでしょうか。それが、どんな親でも。…忘れろっていうほうが無理だと思います」
忘れることが解決じゃない。かつて達也が養父から言われた言葉だ。そしてその言葉通り、多分あの時知らなかったら今の達也は存在しなかっただろう。
紗也香はしばらく黙り込んでいたが、膝の上で重ねた手を強く握って、声を絞り出した。
「…殺されたんです、姉は」
「…知っています」
「それだけじゃありません、母親の死体を見つけたのはあの子なんです。だから、あの子には出来ないんです」
幼い子供にとって母親の死は衝撃だ。確かに、もしそうなら人を殺したりは出来ないだろう。その経験が反対方向に作用していない限り。
「ですから先生を見たときは、正直言って血の気が引きました。稔がああじゃなかったら、絶対に会わせたりしなかった」
紗也香の言葉に、達也は首を傾げた。何の関係があるのだろう。
「どういうことですか」
「?和夫さんからお聞きになったとばかり思っていましたけど」
「いえ、何も。…何ですか」
紗也香は言うのを躊躇っていたが、促されて口を開く。
「稔の父親が行方不明だということは…?」
達也は頷いた。秋吉はいないとしか言っていなかったけれど、稔の両親のことはここへ来る前に確かめてきたから間違いない。村瀬慎一は、稔が生まれてすぐに理由も分からず蒸発している。由香里は女手一つで稔を育てたのだ。
紗也香は黙って壁掛けの鏡を指差した。細かい装飾のついた鏡の表面に、振り返った達也の顔が映る。
「…彼が、稔の父親ですわ」
「…は?」
そう言われても映っているのは達也自身で。
「あ…まさか」
古ぼけた写真に“由香里”や“秋吉”と共に写っていた“達也”。あれが村瀬慎一だったのだ。
「ええ。あの子も、会ったことはなくても写真ぐらいは見たことがあるでしょう。姉は死亡届も出さないで、ずっと義兄が帰ってくるのを待っていましたから」
「…じゃあ、稔くんは」
達也が問いを重ねようとしたとき、ドアがノックされて家政婦が電話の子機を手に入ってきた。
「お電話です、佐伯弁護士事務所というところから」
子機を受け取って怪訝そうに電話口に出た瞬間、めいっぱい怒気の込もったひとみの高い声が達也を責めた。
「携帯ぐらい持って歩いて下さいっ」
「えっ?」
持ってる、と言いかけて、達也はあっと声を上げた。午前中、病院に行ったとき、携帯の電源を切っておいてそのまま忘れていた。帰るなり稔の家のことを調べていたからここにいることが分かったのだろう。
「ご、ごめん」
迫力に圧されて思わず謝ると、今度はそんな場合じゃありません、と怒られた。
「今、病院から連絡があったんです。警察が…村瀬くんの事情聴取するって言ってるって」
「何だって!?」
「無理だって止めたらしいんですけど、専門の人が一緒だから平気だって」
達也は、融通の利かなさそうな担当刑事の顔を思い出した。稔が犯人だと妙に自信を持っていたから、証言を得るためならやりかねない。
「分かった」
通話を絶った達也は、簡単な説明だけすると自分も行くと言い出した紗也香に、家で待つように言って病院へ向かった。
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