第九十五話 願いを叶える地蔵
お遍路さんで有名な、高知県の四国霊場二十九番札所・国分寺には、酒断地蔵という名の変わった仏像が祀られている。
なんでも以前は別の場所にあったもので、一言地蔵といったそうで、ひとことの願い事を叶えてくれるというので、旅の安全を祈る人が多かったとのこと。
それが、ダム工事でお堂が水没するため、国分寺境内に移されたわけだが、夫の酒癖に悩む女性が、「断酒」とだけ祈願したところ、見事に願いがかなったそうで、うわさが広がり、いつしか酒断地蔵と呼ばれるようになった。
アルコールを自力で断てない哀れな人々やその家族が熱心に信仰し、果てはその地蔵を模した仏像までもが全国に祀られるようになったとさ。めでたしめでたし。
ちなみに篠原によれば、地蔵菩薩とは地獄に行って性転換した古代インドの王様で孔雀王の母親となった、元祖ファンタジー系萌えキャラだとのことだが、多分妄言だろう。
さて、南1病棟の廊下の壁には、一部四角く凹んだ場所があり、壁龕のようになっている。そこには、高さ三十センチ程度の木造の地蔵尊がちょこんと置かれていた。
その下には紙がぺたんと貼られており、上記の由来が書かれていた。要するにこの病院に入院しているアル中どものために、病院側が必至こいて頼んで、地蔵を写させてもらったというわけだ。とても最新医療の砦に相応しいとは思えない代物だが、まあ、信心深い人にはこういうのもありなんだろう。
俺が興味本位で悲鳴のした方向へ走っていくと、そこには地蔵の前に尻もちをついている、高峰先生のあられもない姿があった。周囲の床には、PHSのプラスチックケースが砕け散り、中の部品が内臓のように飛び出していた。おそらく転んだ拍子に壊れたのだろう。
「先生、どうしたんですか?」
「お、おお、砂浜太郎君か。これを見てくれ」
「ん……っ!」
彼女の指差す方向に目をやり、俺も思わず大声を上げそうになり、ぐっと息を呑んで堪えた。
茶色い木彫りの地蔵の周りに、まるで二匹の蛇がとぐろを巻くように、編みかけと思われる短めの青いマフラーと、煌びやかなピンクのショールが絡み合っていた。
場違いな程カラフルなその有様は、酉の市の熊手や、飾り羽子板を連想させる。尋常の供え物でないことは一見明らかだ。そもそも年末年始には早過ぎる。
「な、何ですか、これは?」
「さあ、意味がさっぱりわからないが、このショールは確か海野がしていたものだろう。それよりこの紙を読んでみろ」
なんとか起き上がった女医の勧めに従い、恐る恐る顔を近づけた俺は、今度こそ、「あっ!」と驚愕の叫びを実際に喉の奥から吐き出してしまった。
紙には説明文の上から黒いボールペンか何かで、ただ一文、こう記されていた。
『神への第二の贄』
(贄……)
俺は普段口にすることもないその単語を脳の中から呼び覚ます。
(ニエ、にえ、生贄。供物のことか? 誰に対する? 書いてあるじゃないか、神に対する贄と)
混乱の極みにありながらも、視線はもう一度地蔵の周囲を彷徨う。青いマフラーはともかく、窓から差し込む日の光を受けてやけにきらきら輝くピンクのラメニットショールは、確かに師匠のものに間違いない。ということは……。
(!)
突如、眼前の事物が色を失い、新たな意味を持って再構築され、雷鳴の如き衝撃が神経を貫き、つま先から頭の天辺まで自分の体内を駆け巡る感覚に襲われる。
これは二つ目の予言だ。何故こんな場所に掲示されているのか定かではないが、新たな死の予告に違いない。
「せ、先生、これは、ひょっとして……」
「しー、ここは場所が悪い。とにかく人が来る前にこれらのブツを始末しよう。太郎、ショールやらなんやら持って面会室へ飛び込め!」
「ラ、ラジャー!」
ご下命を賜った俺は、電光石火の早業で、PHSの残骸と地蔵の周囲のブツを回収すると、紙を引き千切った主治医とともに、すばやくすぐ近くの面会室の中に突進した。幸い周りに人影は無く、誰かに気付かれた形跡はなかった。
「ふぅ、寝不足なのにいろいろなことが起こって心臓に悪いぜ」
室内で深呼吸する女医の眼の下には確かにくっきりと隈があった。
「しかし、いったい誰が悪戯をしたんでしょうかね?」
「さあな、ただし、よく見るとこの青いマフラーも、作業療法で海野が編んでいたとかいうものかもしれんな。となると、彼女が一番怪しいが……」
「現在、隔離中ですよね?」
「ま、そういうこった。これは結構厄介な問題だな。だがともかく、このことは誰にも言うなよ」
女医は、恐るべき閻魔の目つきでもって俺に釘を突き刺した。
「だ、大丈夫です。俺はズボンのチャックが開いていることはあっても、口のチャックは堅いですよ。でも、どうして内緒にするんですか?」
「む、そうだな、お前さんを信用して話すが、昨夜の奥村の一件が、もう既に病棟で噂になっており、『海野の予言が当たった!』と評判になっているんだ。
まったく馬鹿げているが、けっこう信心深い人間は多いんでな。確かにちょっとばかりは薄気味悪いが……おっと、私自身がこんなことを言っちゃいけないな」
「えっ、それは知りませんでした……」
「まあ、どちらかというと主に女性患者の間で広まっているようだから、お前さんがハブられているわけではないと思うがな。だが、新たな予言が出現し、これ以上病棟が混乱するのは非常によろしくない」
「なるほど、ただでさえ精神的に脆い人たちばっかりですからね」
「おっ、よくわかってきたじゃないか。ま、そういうことよ」
高峰先生は阿修羅面怒りのごとき顔つきを和らげ、小さく笑うと、手にした紙を握りつぶした。
「正直、この病棟には彼女を信奉する患者が何人もいて、いわゆるシンパが形成されつつある。恐らくその中の誰かが彼女の命令でやったんだろうが、特定は難しいかもしれん。あの地蔵付近には監視カメラがないからな」
「でも、こんな馬鹿げたことをするメリットなんてあるんですか?」
「……」
女医は、やや遠い目つきをすると、打ち明け話をするように、声を潜めてこう言い放った。
「いいか、これから話すことは、本当に他言無用だぞ。死んだ奥村伸一は、海野思羽香の敵なんだ」