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第九十二話 死後硬直時間は「兄さんあご勇警部(死後2、3時間以内で顎まで、3~6時間以内で頸部まで)」と覚えましょう。

 午前一時三十五分、県警および所轄のZ警察署の警察官が数名どやどやと来院した。


 深夜のこととて、なるべく静かにしてもらうよう頼んだ後、高峰医師は浅尾看護師をナースセンターの留守番に残し、第一発見者の俺と山田看護師を引き連れ、彼らを現場の男子トイレへと案内した。


 簡単な現場検証を行った後、診察室にて高峰医師達の立会いの下、検視官による検視がすぐさま行われることとなった。何故か俺も同席を許されたので、突っ立ったまま様子を見守った。


「せいぜい顎のところまでしか死後硬直が来ていませんし、直腸温は35度ですから、両者から察するに、死亡時刻は約一、二時間前、つまり午後十一時四十五分から午前零時四十五分の間と行ったところでしょうな。


 看護師さんの話によると、午後十一時の回診ではトイレに誰もおらず、遺体発見時刻が午前一時五分頃でしたから、それにもちょうど符合しますね」


 白髪のだいぶ混じった頭をかきながら、小瀬という茄子のような顔をした初老の検視官は眠たげにあくびを噛み殺した。無理もない。草木も眠る一番眠い魔の時間帯だ。


「私も全く異存はないけど、死因はやっぱり溺死になるのか? 典型的な窒息死の外部所見だしな、この溢血点は」


 女医もうつろな目をしながら、顔面の赤い斑点を指し示した。


「解剖してみないと確かなことは言えないですが、恐らくはそうでしょう。溢血点以外にも、鼻腔や口腔から泡沫状の白色粘液が溢れ出てますからね。


 争った形跡は特に認められませんが。ところでご家族への連絡はまだつかないんですか?」


「それが全然ですわ。多分朝方にならないと無理じゃないかな」


「困りましたね。我が県には監察医がいませんから、家族の要請がないと剖検できませんし……何か心臓とか、身体的な持病はなかったんですか?」


 どうやら検視官は、彼が心臓の発作か何かを起こして便器にのめりこみ、窒息してしまったという筋書きを考えているらしい。


「いや、精神以外は別段変ったことはなく、むしろ元気な方だったけどな。毎日ラジオ体操にも参加していたし、定期検査でも特に異常なかったはずだが」


 女医は、無い袖は振れないという感じでつっけんどんに答えた。


「となると本当に原因不明ですね。うーん、後は自殺ぐらいしか……」


「しかしそんなに悩んでいたり、抑うつ的には見えなかったんだが……私の見立て違いかな?」


 先程プリントアウトした奥村の電子カルテを寝ぼけ眼でぼんやりと眺めながら、女医が呟いた。


 確かに俺から見ても、彼が自ら死ぬような人間には思えなかった。もっとも精神が妄想で侵されているお方だったので、本当のところはなんとも言えないが。


「彼の幻覚妄想状態が一時的に改善して我に返り、弟を撲殺した自責の念に苛まれて自死に至ったという可能性はないですかな?」


 突き出た顎を撫でながら、いつの間にやら横からプリント用紙を覗きこんでいた小瀬検視官が、さりげない調子で持論を開陳した。


「いや、芸術家気取りでわけのわからん絵ばかり描きちらし、女性患者達にも絡んでいたようだし、それはちょっと可能性としては低いんじゃないかと……それにしても、あの予言が気になるが……」


「ん、何ですって?」


「高峰先生、やっと父親と電話が繋がりました! すぐ来て下さい!」


 山田看護師が隣のナースセンターから大声で叫ぶため、会話はそこで雲散霧消した。



「え、今、何とおっしゃいました?」


「はい、ですから伸一の解剖はしなくても結構です。遺体は引き取って帰ります」


「いや、しかし、ひょっとしたら息子さんは自殺じゃなくて、誰かに殺されたのかもしれないんですよ。もう少し詳しく調べてみた方が……」


「例えそうだとしても、別に相手を恨んだりすることはありませんし、病院を訴える気持ちもございません。


 今までさんざんお世話になりましたし、これ以上御迷惑をかけるわけにはいきません」


「いや、でもですね……」


 隣の診察室から漏れ聞こえてくる会話を聞きながら、俺は口に手を当てあくびを飲み込んだ。女医は尚も抵抗を試みたが、奥村伸一の父親は、頑なに解剖を拒んでいるようだった。


 ナースセンターの壁時計の針は午前三時を指している。俺の気力も急速に低下しつつあった。


 早く解放してほしかったが、中々お役御免にならず、ここで待っているよう言われたのだ、やれやれ。


「先生、あの子は最早家族のことすらわからなくなっていました。多分弟を殺めたことも欠片も覚えていなかったでしょう。


 しょせん病院で一生を終える運命だったのです。まだ私達両親が生きているうちで良かったとさえ思っています」


 控えめだがはっきりした女性の声が、会話に割り込んだ。多分彼の母親だろう。


「はぁ……」


 そこまではっきりと意思表示をされると、女医にも返す言葉がない様子だった。


 確かに、誰からも望まれていない男の生が途絶えたところで、これ以上原因を究明しても、何も得るものはないのかもしれない。


「良いんじゃないですか、ご遺体を返して差し上げても」


「えっ、いいの?」


 それまで沈黙を守っていた小瀬が、両親に助け舟を出してきた。


 俺も好奇心をそそられ、聞き耳をそばだてた。

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