第九十一話 HMX-12
「土下座……?」
トイレの個室を上から覗き込んだとき、俺の頭に最初に浮かんだのはそんなふざけた単語だった。
煌々と白色電球に照らされた男性トイレ個室の、便座を上げた状態の様式腰掛け大便器内に、背中を丸めた縞柄パジャマ姿の男性-奥村伸一が頭を丸ごと突っ込んでいる何とも奇妙なポーズは、俺には土下座以外に例えようがなかった。
両手を力なくだらんと前に垂らし、タイルに両膝をついている。見たところ外傷はなさそうで、血しぶきなども見当たらない。
滑稽と言えなくもない第一印象だった。ただ、彼の身体は身動き一つせず、とても正常な状態とは思えなかった。
「た、たたたたたたたたたたたた!」
パニック状態寸前に陥った俺は、異変に気づき、助けを呼ぼうとするも、声がうまいこと喉から飛び出して言葉になってくれず、ただただ喚き続けた。
どうやったか自分でもよく覚えていないが、無我夢中でドアをよじ登って個室に入り、さて助けようとしたけれど、時すでに遅そうな感もあり、後からサツなどに現場を保存してなかっただの何だの文句を垂れられるのは嫌だったんで、とりあえず深呼吸した後、まずは大声で、「誰か助けてくれーっ!」と叫びつつ、個室のカギを開けた。
「どうしたんですか!?」
ちょうどそこには、あのマッチョ男性看護師こと山田がいたので、俺の焦燥感はちょっとばかり落ち着いた。因みに篠原情報だと、彼は妻子がいるくせにキャバクラにハマっているそうな。
彼はどうやら息せき切って駆け付けた様子で、坊主頭を汗でてからせている。
「な、中を……早く」
それだけ口にするのが精一杯で、俺は情けなくも、へなへなと便所の床にしゃがみ込んでしまった。
「……で、砂浜太郎君が遺体を発見して呼んでくれたというわけか……まったく」
高峰医師は、明らかに寝不足の眼を擦りながら、不機嫌極まりないどず黒くひび割れた声で看護師に応えた。
寝癖の付いたままの髪は天に向かって逆立ち、眼やにの溜まって充血した両眼は憎悪に燃え、鼻から炎の息を吹くその姿は、亡者を裁く閻魔大王さながらであった。どうも寝起きが最悪に悪いらしい。
「はい、それで現場の写真を撮ってから、便器から首を引っこ抜いて脈と呼吸を確認したんですけど、どっちもとっくに止まっていたので、即浅尾君と先生に電話したんです」
「そして自分が駆け付けた時には、山田主任の言う通り手遅れだったんで、とりあえず二人でここまで遺体を運んだ後、急いで病棟を見回った、という次第っス」と浅尾という若手の男性看護師が、山田の話の穂を継ぐ。
ロンゲでややチャラそうな奴だが、機転が利き、フットワークも軽いので重宝されているという師匠情報だ。
「……」
女医は無言のまま、遺体発見時の画像が写ったスマートフォンを山田看護師に投げ返した。
現在俺、高峰先生、浅尾、山田看護師がいる場所は、南1病棟附属の処置室だ。
スチール製の戸棚と簡素なベッドが一つ置いてあるだけの狭い部屋で、やや息苦しい。
病棟内は、先程とは打って変わって奇声や物音も打ち止めとなったかのようにぴたりと途絶え、藁灰に水でも打ったかのように不気味な程静まり返っている。
そろそろいわゆる丑三つ時で、病棟が一番安らぐ時間帯だ、本来なら。
「さてと……」
女医は改めてベッドに横たわる遺体に眼を戻した。俺もあまり凝視したくなかったが、度胸を据え、一緒に隅々まで身体観察を行う。
遺体の第一発見者として、また生前最後に彼の姿を見た者として、忌憚なき意見を述べろとの主治医の仰せだったから。
奥村伸一だったものは、先程服を脱がせたため全裸で、四肢をぐにゃりと伸ばし、生前来の猫背はそのままだ。
顔面は水に浸かっていたためか、皮膚はややふやけて全体的に白っぽい。目玉を上転させ、白目や顔面には赤い斑点がぽつぽつと浮かび、見るからに苦しげな歪んだ表情を浮かべている。
鼻の穴や口の端から白い泡上の粘液が流れ出しており、陸揚げされた蟹の様だ。外傷は特に見当たらず、出血の類いもない。
「恐らく溺死だろうが、自殺か他殺か事故死かまでは、なんとも言えんな。それより家族には電話したのか?」
相変わらず機嫌の悪い口調で、女医がダークマター並みに重たい沈黙を破る。
「さっきから家に何回もかけているんですけど、一向に繋がらないんです。両親はまだ夢の中じゃないかと」
「しょうがないな。浅尾、とっととZ署に通報しろ。山田はそのまま家族へ電話を繰り返せ。ところで砂浜君、何か気付いたことはあるか? どんなことでもいいから話してくれ」
(しかし何故……?)
心は嵐の海に浮かぶ小舟の様に、不安と混乱で翻弄されていたが、他の三人に気付かれないようこっそり呼吸を整えると、俺はさりげない口調で推測を述べた。
「部屋を出ていくときは、『ちょっくらトイレに行ってくる』って普通に言ってましたし、自殺とは考えにくいと思います。ただ、何かごそごそと紙を探していて、それを持っていきましたが……」
「それがこれだというのか? てかなんでこんなものを口にくわえて死んでいたんだ?」
女医は、遺体の脇に置かれた、濡れてふやけた小さな紙を顎で指す。そこには四色ボールペンで描かれたと思われる、まことに奇妙な絵があった。
緑色の短い髪をした少女で、赤系のセーラー服を身に纏っている。変わっているのは両耳に、ドライヤーのような形状の耳当てをしていることだ。これは一体何なんだ?
「さあ、よく見えなかったのではっきりとは言えませんが、その可能性は高いと思います。何故くわえていたのかまではわかりかねますが……」
「しかしこいつはいったいなんの絵だ? なんかのアニメキャラっぽいが……」
「ああ、それはマルチっていうエロゲーのキャラっスよ、先生。俺も昔したことあるっス。たしかほんわか純愛系だったすよ」
俺たちの背後から、チャラ男ナースマンの声がする。俺は仰天した。
凌辱ゲーの話しかしなかった奥村が、よりにもよって純愛系だと!?