第八十七話 業火の女王
「思羽香姉さん、あまりお喋りし過ぎると、療法士どもに目をつけられちゃいますよ」
すぐ後ろの席でアイスクリームのバーのような平べったい棒を接着剤で張り合わせて箱を作っているデブ女こと高山茜が、囁くような声で、師匠に話しかけた。
「な~に、ちょっとくらい大丈夫よ。それより茜、あんた、私が言った通り、あれをちゃんと飲んでんの?」
「はい、姉さん。あれって本当によく効きますね。小便が目に見えて減って、痛みも全く無くなりましたよ。凄いですね」
「な~に、昔見たアメリカドラマによく出てきてたんで覚えただけさ。
あんたも娑婆に戻ったら日本の連ドラばっかじゃなくて洋モノとかも見た方がいいわよ」
「さっすが姉さん、この御恩は死んでも忘れません!」
「な~んも、気にしなっくていいよ~」
茜の熱い尊敬の眼差しをそよ風の如く軽く受け流すと、思羽香は口を閉ざし、リリアン編みに意識を集中した。
作業療法士がこちらに向かってきたからだ。心証を害するのは得策ではない。
茜も、小山のような身体を机に向け、フランクフルトソーセージと同じくらい太い指先で細かい作業を再開した。
しばらくの間、作業療法室は各人が手を動かしたり呼吸をするささやかな音のみが響き、森閑とした空気に満たされた。
俺はといえば、所在なげにぼんやりと突っ立ったまま、周囲を見回していた。
よく見ると、部屋の隅で篠原が、竹ひごと和紙で何かを作っている。ひょっとしてあの汚言扇子って手作りだったのか?
また、その隣で清水老人が、密かに鼻くそをこねて仏像を製作しているのが目に入り、危うく再びもどすところだった。目や飾りの所だけ赤いのは、硬化した鼻血を利用しているのだろう。あれって師匠から以前聞いた、ドグラマグラに出て来た鼻くそ仏か?
ジリリリリと、入口付近の置時計がけたたましく鳴り響く。午前十一時の、終了時刻を告げるチャイム代わりのベルだ。
近くにいた作業療法士の一人がアラームのスイッチを切りながら、「では本日の作業を終了します。皆さん、後片付けをして、終わった人から入口に並んで下さい」と大声で全員に伝える。
俄かに室内は雑然とし、思い切り伸びをする者やあくびをする者、目覚める者、席を立つ者など、皆思い思いに行動し出した。
師匠も糸を巻きつける手を止めると、作りかけのマフラーをしげしげと見やっていた。
「思羽香ちゃーん、調子どーぉ? 俺の力作をちょっと見てよー」
やけに馴れ馴れしい声とともに、背後からポロシャツに包まれた右手が伸びてきて、思羽香に一枚のA4用紙を突き付けた。
伸一だ。猫背を丸め、ヤニ臭い息を吹きかけながら、貧相な顔にニヤニヤ笑いを浮かべ、下卑た目つきで師匠を見下ろしている。
彼女は、「ふ~ん、どれどれ」と生返事をしながら、紙に視線を向けた。俺もついでに横から拝見した。
一見何が描いてあるのか分からない程ごちゃごちゃしたその絵は、原色で満ち満ちており、目に痛かった。
一人の人間の上半身らしいということは何となく解明できたが、その首から無数の顔が花束のように生え、ヒンドゥー教の神様のようになっているということが理解できるまで、軽く十秒を要した。
どうやら女性と思われるその人物の頭は、考え付く限りのありとあらゆる表情で埋め尽くされていた。
笑い、泣き叫び、穏やかにほほ笑み、驚き、溜め息をつき、落ち込み、瞑想するかのように目を閉ざす。
荒ぶる火炎の如き朱色を基調とした色彩で表現された、無限に湧き上がる水泡のように、現れては消えていく数百の顔貌が、空間恐怖症的に画面の隅々まで支配し、フラクタル図形の如く入り組んで、渦巻き、うねり、猛っていた。
写実的かつ精密な筆致で描写された容貌は、しかし意外にも俺のよく見知ったものだった。
「これって……まさか、あたし?」
師匠が、珍しく動揺したように声を震わせる。
「え、いや、そう見える? 俺の奥さんのつもりなんだけど」
チェシャ猫のニヤニヤ笑いを貼り付けた彼の横顔と、不動明王もかくやという炎の渦に翻弄される異形の肖像画が、とある画家の名前を俺の脳裏に連想させた。
あれは、確か高峰先生が俺に講義してくれた……。
「ルイス・ウェインっぽい感じの絵だね。あんたの主治医に見せたら、喜んで症例発表会でスライドに映してくれるかもよ~」
イラストを乱暴に伸一に突き返しながら、師匠はマフラーを編み機ごと持って立ち上がった。
早く後片付けをしなければ、病棟に戻れなくなってしまうから、当然だろう。
「そう邪嫌にするなよ、これでも元絵描きのはしくれなんだぜ。お世辞でもいいから少しは褒めてくれよー」
「はいはい、上手だね~。あんたの奥さんに郵送してあげなよ。本当に実在すればの話だけどさ」
「何言ってんの。もうじき臨月だって、いつも言ってるでしょ」
「ああそう、まだ性懲りもなく子供の名前を考えてるのかい?」
「いや、それはもういいんだけどさ。ちょっと別件で占ってほしいことがあるんだよ」
「何?」
師匠の柳眉が跳ね上がるように動いた。彼女はわずかに振り向きながら、上目遣いに伸一を見つめた。
濡れたような長い眉毛がたちどころに妖艶な雰囲気を醸し出す。
「ほ、ほら、こんな場所じゃなんだからさ、後でよろしくお願いしますよ、大先生」
ニヤニヤ顔を改め、急に頬を赤らめた伸一は、それだけ言うとそそくさと出口に向かった。
師匠も息を一つ吐くと、編み機を棚に戻し、彼の行った方向に進む。列をついてドアが開くのを待っていた患者達がざわめき、まるでモーゼが紅海を割ったように人波が開け、彼女を先頭へと誘う。
戴冠式に挑む女王の如く、彼女は毅然として、嫣然と笑みを湛えながら、しゃなりしゃなりと一歩ずつ前進していった。